ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

白内障手術

 一昨日、白内障手術(左目)を行った。その顛末を、2回に分けて報告する。

 

入院

 本来入院するほどの手術ではないが、家が遠隔のため、翌日も通院必要となると面倒なので一泊入院とした。一昨年?の胆嚢摘出手術以来の入院である。12時までにというマニュアルを守って、入院。入院してしばらくすると、すぐ、看護婦さんが目薬を持ってきて、15分おきに手術の呼び出しがあるまでさすようにという指示。手術は15:20からだという。終わってしまえば・・・だが、どんな手術になるのか、最大の興味は、手術中、メスなど手術道具が見える状態なのかどうかである。手術の仕方を知らない人のために、手術手順を簡単に紹介しておく。水晶体のまわりの角膜?に切れ目を入れ、そこから、水晶体を吸引して取り去り、そこへ人工眼内レンズを挿入して終わりという簡単な手術である。先ほどの15分おきの目薬は、瞳孔を開かせるための薬だという。確かに、2,3度さすと、少し眩しく感じられた。

 

いよいよ、手術

 そうこうしていると、14:30、看護婦さんが呼びに来た。手術準備室のようなところへ入る。ベッドに寝かされ、目薬をたっぷりとさされ、目の周りを消毒液で拭かれる。どうも麻酔薬目薬のようだ。15分も経ったろうか。すると、今度は、「手術室に入ります」という。そのベッドのまま、手術室へ。少し待たされ、そのベッドに寝かされたまま、手術台にスライドさせる。つまり、患者を移動するする必要がない。便利になったものだ。時計は見ていないが、14:45頃。

 

手術の様子

 医師が入ってくる。「○○○です」と医師の自己紹介が終わり、患者(私)の名前や左目手術を確認後、手術準備に入る。ここからが極めて速い。わずか1分程度だろう。手術しない方の右目に覆いをかけ固定。左目がまあるく空いた手術用覆いを左目に被せる。医師からは左目だけが見える状態。そして、左目を大きく見開くように円形の治具を左目に装着。いよいよ執刀。

 ここまで来たところで、視界は?と思ったら、中央に眩しいほどの光の点が見え、その周りはハレーションを起こしたように光っている。その光を時折何かが遮断する。全く、その他は見えない状態。このままで、手術するのかなーと漠然と考えていると手術が始まった。何やら、医師が看護婦に指示をしてるが、小声のため聞こえない。

 そのうち、目に鈍い痛みというか、刺激というか、が感じられた。どんなものかというと、正常時、目を奥へ押すと、痛みのようなものを感じるが、あの痛みである。声を出すほどではない。そうこうしていると、真空機械が回っているような音が聞こえる。恐らく、水晶体の吸引に使っている機械の作動音だろう。そうして、しばらくすると、「ハイ、終わりました」。全く何をやっているかが分からないままのわずかな時間だった。

 

術後安静、就寝

 そのまま、さきほどの準備室へ移され、車椅子に乗って病室へ。時計を見ると15:10だった。30分間安静にしていてください、とのことで横になったまま。どこも痛くはないし、動けることは動けるが、安静と言っているので、そのまま言うことを聞いて横になっている。30分経つと、また看護婦が現れて、「ハイ、もう自由にしていていいですよ」と。それから、1回だけだったと思うが、「痛くないですね」と確認に来ただけで、夕食、就寝もそのままの状態であった。暇なので、病院内を歩くが、テレビも時間制限で、20:00から21:00までしか見られない。仕方ないので、18:30から夕食、10;00~21:00迄テレビを視て、就寝。

 明日はどうなっているか、楽しみである。

 

(余計なこと)看護婦さんの言葉

  手術前、看護婦さんに聞いてみた。「手術中、手術してる様子が見えるんですか?見えるんなら嫌だなー」と。すると看護婦さん。「先生が色々な器具をもって手術している様子が分かるようですよ」と。でも、やっぱりウソだった。自分で受けたこともない手術の様子なんて分かる訳ないよなー。今考えると・・・。 

             (つづく、・・・)

世界おもしろ昔のはなし㊲

顧客との価格交渉

 具体的に、約一年半後の二〇〇六年10月末の撤退が決まり、二〇〇五年の顧客との売値交渉では、今までの契約金額を一銭も引かず、二〇〇六年の撤退まで、契約金額を凍結する対策を取った。以後納入しない訳だから、「すぐ製造を止めてもよい」いう強気の姿勢が貫けた。毎年引かされていた契約金額を引かなくて済み、赤字を黒字に変える事が出来、利益を確保できたのだった。

 

社内外への秘密厳守

  一年前の二〇〇五年8月には、価格交渉の関係もあることから、営業など一部の人には、この決定を知らせる必要があったが、あくまで、社内的にも、勿論社外に対しては、極秘で進められることになった。顧客にももちろん秘密裏に進んだ。

 私の決断、具申を聞いてくれた、当時の会社幹部には、改めて感謝申し上げたい。決定が1年でも遅れたら、こんな利益は確保できなかったし、従業員にも満足な事をさせてあげられなかったかも知れなかった。そういった意味でも、本当に、良いタイミングだった、と我ながらに今でも思うのである。 

 極秘、秘密裏、と書いたが、通常の撤退であれば、ここまで徹底することも無かったが、これには訳があった。「極秘」、これが撤退のキーワードであった。二〇〇五年8月には、極一部の人間のみが知ってはいたが、それまでの社内の行事や通常の作業計画、長期投資計画なども、社員、取引会社との関係においても、今まで通り何事も無かったかのように進めた。でもそれは、「表面的には」、という言葉が隠されていた。所謂「水面下」では、着々と撤退の準備が、1年半に亘り、連日進んでいたのである。

 

極秘の理由

 フィリピン経済は、長い間低迷が続いており、慢性的な不況で、失業している人が沢山おり、社員募集するものなら、連日沢山の人が列をなす程集まった。「フィリピン生活」の項でも述べるが、一般家庭では、一家庭で一人定職を持っていれば、それが普通であり、誰も定職を持たない家庭などワンサカあった。従って、当社の従業員は、定職を持ち、夫婦で働いているものなどもおり、普通以上の生活が出来ていた。

そうした中で、一旦職を失えば、職にありつくのが大変で、そのまま一家貧困に喘ぐということすらあるから、従業員は、色々な苦情・不満は言うものの、何とか定年まで働き続けるというのが、本人のみならず、家族の願いでもあったのである。

 

事業撤退=従業員の貧困

 「会社の事業撤退」=「従業員の失職」=「従業員家族の困窮」を意味し、従業員本人・家族共々、人生最大の問題となる。そんなことから、フィリピンでは、事業撤退した日系企業の総務関係者が、元従業員やその家族に射殺されるというような事件が頻発していたのである。当社で、電線事業から撤退することは、従業員の失職を意味し、家族が路頭に迷うことになるのである。撤退計画が事前に分かることは、彼らは、職探しに奔走し、旨く職が見つかれば、有能な従業員も含め、撤退前に辞めて行くのである。

 それだけなら未だしも、職が見つからなければ、失職予定の従業員や家族から、日本人や総務関係者が殺傷されることすら考えられた。そうしたことから、この計画は、決定から実施まで約1年半、極秘に進められたのである。

               (つづく、・・・)

ノンレム睡眠とレム睡眠

 今日は、白内障の初めての手術(左目)。色々の人に、手術はどうでしたか、術後1日目は?と聞いても明確な答えは返ってこない。それだけ印象の薄い手術のようだ。是非、よく覚えていて、レポートしてみたいと思っている。

 

 さて、この話題を書こうとしてから2週間位たつ。理由は、ネット記事を色々見ても、難しく、頭が混乱するだけでよく分からないのだ。頭が良い人が書く記事は分かりにくい。一般人がどうとも取れる書き方をするから始末が悪い。間違っていないのだろうが、我々素人には難しすぎるのである。私流に簡単に?書きたいと思う。

 

ノンレム睡眠レム睡眠

 この言葉は、どこかで聞いて知っているはずである。私もどこかで聞いたが、最近では、日本語を教えている教材に載っていた話題である。

 レム睡眠の”レム”とは、Rapid Eye Movement の頭文字を取って、"REM”である。そして、人間の睡眠には、ノンレムとレム、つまり、眼球が寝ている間に良く動く睡眠(レム)と動かない睡眠(ノンレム)とがあり、それらが交互に現れる。ノンレム+レムという1セットが一晩の睡眠の間に5,6回繰り返すという。そして、ノンレム睡眠が最初に現れるが、これの方が長く、レム睡眠は短いらしい。ここまではどのネット情報でも同じ。

 

睡眠の役目

 それぞれの睡眠の役目で、整理が出来なくて困った。それというのも、テレビ情報の映像で、ノンレム時の脳の働きの映像を見てしまったことから分からなくなった。つまり、ノンレム時は眠りが深く、脳を休めている時間であり、レム時は、脳は動き、体を休めている時間だとネット情報では書いてあったことによる。ノンレムで脳が休んでいるのにどうして脳が活動している映像があったんだろうか、という疑問を解決するのに2週間費やしたということである。これを解決する記述がやっと見つかった。

 

ノンレム睡眠とレム催眠の役目

 レム睡眠時は、脳は働き、体を休めている時間である。この期間に「記憶の定着や記憶の索引付け」を行う、と説明書きにある。専門的で意味がよく分からない。一方、ノンレム睡眠は、「嫌な記憶を消去したり、手続き記憶を固定する働き」をするのだそうだ。ここで言う、手続き記憶とは、自転車の乗り方や習字、スポーツの技術を身に付ける記憶だそうだ。眠り始めて最初にノンレム睡眠に入るが、ノンレムには深い眠りと浅い眠りがあり、最初の深い眠り、次に浅い眠り、そしてレム睡眠となって1サイクルが終わる。最初のノンレムの深い眠りに入りきれないと、嫌な記憶が消せず、いつまでも嫌な記憶が残ることになるそうだ。また、3,4時間の短時間の睡眠では、ノンレムの後半(浅い眠り)の脳の役目であるスポーツの技術などが身に付かないということが起こるそうである。

 また、レム睡眠では記憶の定着が役目であることから、睡眠不足では記憶されない、覚えていない、ということが起こるようである。

 寝始めに深い眠りにつく、そして、睡眠時間をしっかりとる、これが睡眠の基本のようだ。ちなみに ”夢” は、ノンレムでもレム睡眠でも、どちらでも見るようであるが、記憶に残っているのがレム睡眠時に見た夢だけという。

 

やさしい日本語

 教育手法として確立しているわけではないが、外国人に日本語を教える時に、難しい日本語を使わず、やさしい日本語で教えるというやり方をする。「往復」と言うことばを使わず、「行ったり来たり」という言葉を使う手法である。

 同様に、日本人同士であっても、「やさしい日本語」を使うことが重要だ、ということを分からせてくれた「ノンレム・レム睡眠」だった。

             (つづく、・・・)

世界おもしろ昔のはなし㊱

 フィリピンでの単身生活は、現地会社に赴任したためだったが、この会社に赴任したことで人生にたった一回の貴重な経験をした。ここ数回のブログで、フィリピンでの生活や風習、フィリピン人の性格などを書いてきたが、これからの三、四回は少し堅苦しい話になることをご了解いただきたい。

 

フィリピンの生産会社

 二〇〇三年11月4日から二〇〇九年5月29日までの約5年6カ月、フィリピンの現地会社に赴任した。この会社は、親会社100%出資の会社で、当時、月2億円ほどの売り上げの小さな会社だった。生産品目は自動車用細物電線、プリンター、複写機などに使われるゴムローラー、更には、4輪車に使用されるブレーキホースなどを生産していた。

 

フィリピンでの役目

 その会社で半年は、工場長として、更に残りの任期5年は社長として貴重な経験をさせてもらった。サラリーマン時代39年を通して、常に、自分の考え方を纏めて、上司にお伺いを立て、決断を仰ぐというやり方をしてきたことで、その延長線上での仕事であり、やり方に窮したことはなかったが、これから報告することだけは特別だった。

 日本で、系列会社に入り社長になる人もいたが、日本の場合は、常に親会社の役員の意見も考慮にいれる必要があり、社長と言えども部長と何も変わらないなーと思ったこともあるが、フィリピンという外国にいるせいか、上司(親会社役員)に対する報告は、月一回の会社業務報告だけであり、報告を送っても意見らしい意見は戻って来ず、自分の思うままの運営が出来た。

 もっとも、売り上げが2億/月程度であった事から、親会社にとっては、赤字になろうが黒字になろうが、実質余り影響が無いというのが実態で、親会社の役員も興味が余り湧かなかった、と言うのが現実であったらしい。

 

会社としての課題

赴任して、すぐ気付いたことがあった。

 ①自動車用電線は、いずれ経営的に行き詰まる。

 ②規格、標準などは整備されているが、その実行はまだ十分に出来ていない。

 ③金銭的にルーズで、採算意識が欠如している。

これらの3点は、今後実現させることとして目標に定めた。

 一方、前任の社長は、「社長=偉い人」というイメージであったようだが、私は「社長=父親、兄貴」というイメージを持って貰えるようにしようと考えた。

 

経営環境の変化と従業員の解雇

 ややこしい話になるので、詳細は省くが、稼ぎ頭の電線製造が顧客の変化から経営的危機に陥り、撤退させないといけないことになった。製造品目の一部撤退が意味するものは、それに伴う従業員の解雇だった。当時、従業員は、370人~420人程度で、繁閑期、繁忙期で、50人程度、多い時で100人程度の差が生じていた。その内、電線製造にかかわる直接員・間接員は、合わせて90人程度だった。そして、二〇〇四年から、二〇〇五年で今までに利益幅が削ぎ落とされ、二〇〇六年には、一気に赤字転落することが確実視されたのである。

 

事業撤退の決断

 社長に就任したのが、二〇〇四年4月。そして、自分の中で、電線事業からの撤退を決め、親会社の社内手続き、根回しに回り、二〇〇五年早々には、親会社としても正式に撤退が決定された。つまり就任後1年も満たない決定だった。この決定は一部の親会社役員と私、そして経理担当だけが知る大決断だった。

 そして、フィリピンでの事業撤退とはどんなことかを、いやというほど体験させられたのである。フィリピン人というのは、人一倍家族思いである。このことが、大きくこの撤退に係わり、同時に、自分自身、同僚を命の危機にさらす結果となったのである。

              (以下、つづく・・・)

人生歌がある

人生歌がある!

 毎週土曜日は、「寅さん」の再放送もあるが、何といっても、「人生歌がある!」である。最近は、夜の7時から9時までと2時間番組、ゆっくり寝られる安眠剤のようになっている。司会は五木ひろし。もう何年も続いている。当初は、五木ひろしが司会者だったが、ここ2,3年色々な人に司会が変わった。しかし、やっぱり、五木ひろしでないと、となったかどうかは知らないが、一番しっくりくるのが、彼である。彼は歌謡界事情の生き字引みたいにいろんなことをよく知っている。それをいくつか必ず番組の中で披露する。それを聞くのも、この番組の一つの魅力になっている。

 一昨日の番組では三橋美智也特集をやっていた。

 

かっての歌謡界(昭和30年代後半)

 かっての歌謡界と言えば、三橋美智也、春日八郎、美空ひばり島倉千代子、村田英雄・・・などの名前が次から次へと出てくる。この辺の歌を聞いていた訳ではない。そんな歳でもない。名前が記憶にあるのには訳がある。美空ひばりや春日八郎は別として、その他の歌手は、近くの街にやって来たのだ。隣町の学校の体育館などで公演をしていたのである。今思えば、地方巡業というものだったのだろう。そしてその入場券を買うには、町内で買い物をするともらえる優待補助券を貯めておくと、何枚かでこの入場券と交換してくれたのである。そうした会場へ行きもしないのによく知っていると言われるかもしれぬが、我が家では、小売店をしていてお客さんにこの優待補助券を渡していたからなのだ。100円買ったお客に1枚という風に渡し、何十枚かが集まると入場券と交換するシステムだった。来月は、「〇〇〇ショー」があるなどと近くの住民がよく話をしていたものだった。また、それが地域での「いこい」でもあったのだ。

 

店の手伝い 

 そういったことを思い出していたら、もう60年も前の話で、店の手伝いをしたことも一緒に思い出した。私には2歳上の姉がいるが、姉は良く店の売り子として、店を手伝っていた。私は男ということもあり、酒が入っていた輸送用の木箱を壊し、風呂の薪にすることや、雨上がりの日などは未舗装の道を車が通ると泥が跳ね、店のガラスが泥だらけになったのを拭き洗いする仕事などをやった。そして、売り出しである。資金繰りが苦しくなると、売り出しをして資金を集めていたらしく、時々、売り出しをやった。この時には、新聞折り込み広告を出すのである。当時の新聞店は、本当に小さい地域だけを担当しており、広い地域に広告を出すためには、いくつかの新聞店に折り込みを依頼するしかなかった。しかし、それでも網羅できない地域には、広告を一軒一軒自転車で配布して回った。その配達の役も小学生高学年から中学生にかけてだったと思うが、私の役目だった。昨日は、そのあたりを散歩で回りながら60年前を思い出した。

 

再開できぬカラオケ

 三橋美智也とは、そんなかかわりで名前も知っているし、ある程度の歌も知っている。しかし、カラオケも出来なくなり、そうした歌を歌うチャンスもない。今まで地域で有志を募り、カラオケをやっていたが、もう昨年3月からやっていない。今日は、そのカラオケ会で集めたお金を処分する相談をした。このままいっても、どうせ、ここ2,3年はみんなが集まってカラオケも出来ないだろうし、年寄の集まりだから、その内、何人かが欠けるかもしれない。そうならないうちにと、終活だ。

              (つづく、・・・)

世界おもしろ昔のはなし㉟

前回、TATの15番(ロングホール)での事故の前まで書いた。フィリピン在任中、5年間毎週2回づつやっていたゴルフ、単純計算で 42週×2×5=420回 以上はやったろう。その中でたった1回あった事故である。

 

事故はこうして起こった

 多分2ショット目、つまり、1番目の池と2番目の池の間で起きた。私は、ナイスショットとは言えないが、それでも良く飛び、フェアウエイ右端で池まで約10ヤード位。この時は、いつものHさんのショットは今一つで、フェアウエイセンターではあるが、池まで50ヤードの距離。つまり、Hさんから見れば、右前方に私たち(キャデイと私)は、Hさんが第二打を打つのを待っている状態にある。Hさんが、次に打つクラブは、3番目の池まで200ヤード弱あるので、ここはロングアイアンと思ったのだろう。私たちは、40ヤード右前で、これを見ていた。「私たち」と思ったが、実は、「私だけ」だったのだ。

 

当たった!

 打った、と思ったら、我々の方にボールが飛んできた。私は、ボールを見ていたから何の危険も感じなかったが、私より更に前にいたこの可愛いキャデイにボールが当たったのである。左目上の眉毛下辺りだった。フィリピンのキャデイは、ヘルメットを与えられ、ファッションのようにこれを被っていたが、ボールの行方を見なさいという基本的な教育が身についていない。打つ人の前に行っても、後ろで打つ人を見ていないからこんな事故が起きるのである。彼女は、手で顔を覆い、その場にうずくまった。ビックリしたのだろう。泣いてはいないが、うずくまっているだけで、血は出ていないようだ。

 

運よく、キャディの救助

 タイミング良く、そこに、コース見周りの係員が車で通りかかった。この係員に事情を話し、彼女を連れて帰ってもらった。この日、Hさんの専属キャデイがおらず、彼には、この可愛いキャデイのお姉さんがキャデイとして付いていたので、彼女に、一緒に同行してもらった。

 

キャディの復帰

 我々は、そのままゴルフ続行で、あと、残り3ホールを終わらせて、事務所に戻って様子を聞くと、病院に直行したらしく、治療費などもゴルフクラブで出すので心配しないで良いという。それから、1,2カ月したろうか、彼女が元気に出てきた。すっかり、跡かたも無く治っていた。Hさんは、それでも申し訳なさそうに、500ペソだったか、1000ペソだったか現金を彼女に渡していた。

 

キャディの面倒まで?見るプレーヤー

 フィリピンに限らず、打つ人の前に出るときは、ボールの行方をしっかりと見ていないと、こんな事故に遭うことになるという教訓だ。もっとも、フィリピン人の彼女にはそういったアドバイスも「馬の耳に念仏」だろう。こういった「馬の耳に・・・」というような「例え話」を、フィリピン人の前でして、えらいことになった話は既に書いた。思っても言っちゃーいけないのだ。彼女は、その後元気にキャデイを続けていたが、私が帰国する頃は、彼女のお姉さんが嫁いだ日本へ行って(来て)帰らなくなっていた。多分、今でも日本のどこかにいるのだろう。

 

ここまで書き出したら、フィリピンでのマーサージやカラオケについて書かない訳にはいかない。

              (つづく・・・)

自分の居場所

視点・論点(NHK)

 最近の視点・論点を視た。”自分の居場所” という言葉が出てきた。眠い眼をこすりながら見ていたので、さっぱり頭に入らない。それでも、「趣味」「ボランテア」などの言葉が出てくる。これはおもしろそうだと思い、NHKの録画をネットで見てみた。以下がその内容だった。

 

70歳就労法

 2013年に制定された「高齢者雇用安定法」は、65歳まで働けるように企業側も制度を変えろというものである。そして、「努力目標」ではあるが、2021年4月から、70歳就労法、と言われる改正がなされた。70歳まで働けるように制度を考えなさいという法律である。ここで、1972年(50年前)に流行った「人生が二度あれば」という歌詞に注目。「65歳、64歳の両親をみて、人生が二度あれば」と歌う歌である。そして、最近の寿命は、男84歳、女89歳が平均値。この50年で一気に平均寿命が延びた結果の法律改正だった。

 

自分の居場所

  講師は、65歳の大学教授であるが、60歳の時の同窓会と65歳の時の同窓会の違いを話している。60歳の時は、今までの会社に残る人、関連会社で働く人など何らかの仕事を継続してやっていたが、65歳で会った人たちは、一旦、現役を退いていたというのである。そして、現役だった頃は、××会社○○課長と言えば、全てが分かってもらえたがそういった会社もなくなり、これからは自分の居場所を探さなくてはならない。ここにいるのが自分にふさわしいという居場所である。その場所は、働く場所であってもいいし、音楽活動でも、地域活動やボランテア活動でもいい。子供時代、現役時代にやり残したことをやるのが良い。そして、この第二の仕事は、他人の目を気にする客観感的な選択ではなく、自分には という主観的な考え方が必要だという。原点回帰だとも。

 

スターティング・ライフ

 よく終活とかエンディング・・・と言うことばがあるが、あと、20年もあるのだから、是非、スターティング・・・という気持ちで、自分の居場所を探すべきだと。その居場所は、お金ばかりではない。ここで映画を紹介する。「マイ・インターン」という、ロバート・ディニーロ主演の映画である。70歳の新人ベンが、若い女性経営者をサポートしていく姿を描く映画らしいが、この映画の主人公ベンが、理想の年寄り像という意味かなと思い、この「視点・論点」を考えた。

 

探し当てた自分の居場所

 100%同意だった。よくマー自分が考えていた ”居場所” と、こうも一致する考えの人がいたとは驚きだった。もっとも、年を取ると誰もこのように考えるものかもしれない。今、自分自身のことを考えてみると、会社の仕事はおもしろかった。でも、それは、仲間と一緒に仕事することや達成できた喜びであったり、仕事終わりに飲んだりする懇親だったり、仕事そのものというより、その周辺の出来事が面白かったのかもしれない。その点、今は違う。今、自分がやっていること、それ自体が面白いと思い、やらなきゃ-ならないと思い、やっているのである。つまり、お金が絡まない、つまり稼ぐための仕事ではなく、楽しむ仕事?なのだ。

 こうした活動が、一番自分らしいと思う、”自分の居場所” だと思っている。

             (つづく・・・)