ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

バズる

ブログ3500人超え

 私のブログを訪れる人が、累積人数で3500人を超えた。見てくれている人は、何日かに一度という具合に読んでくれている様子だ。毎朝更新するのを目標にしているが、用事があるときや忘れた時など夜になったりする時がある。年を取ってからの毎日の仕事とするには、大変良い習慣だと思っている。年寄は、世の中を眺めていると、いくらでも話したいことは出てくるものだ。

 さて、今日は何にしようかと思ったが、最近の日本語に触れてみたい。

 

バズる

 タイトルの「バズる」と言うことばをご存知だろうか。最近始まった、「The Time、」というTBSの番組、早朝からやっているが、安住アナが担当していることから、朝はこの番組に決めている。つい数週間前に始まった番組である。始まった頃は、そんなワードもなかった気がするが、「バズったワード」として毎朝紹介がある。これを聞いているだけである程度昨日のニュースが分かる。そこで「バズる」って何だろうと調べた。英語の「Buzz」という動詞から来ているようだ。(蜂がブンブンいう)ことから、(ざわつく、がやがやいう)ということばになったようだ。昭和時代にもこういうことばがたくさん出たなー、と思い起こすが、何ということばがあったか思い出せない。

 

「ら」抜き言葉

 この番組に限らず、今、マスコミのアナウンサーを始め、いろいろな人が間違った日本語を話す。その典型が「ら」抜き言葉である。「作れる」「食べれる」は、普通に使っているようだが、私が外国人に教える場合は、「作られる」、「食べられる」と教え、「可能動詞」と言うことばも同時に教えている。ここまでは意味が通じるので、何となく分かる気もする。スマホで文章を入れるとちゃんと出てくるところを見ると、日本語として認可されているということだろう。ところが、「届けれる」という単語からは、「届けられる」という可能動詞が連想しにくいのは私だけだろうか。

 

「可能だったりしますか?」

 ところが、最近、インタビュアーが外で質問するときに、「・・・したり可能だったりしますか?」と言うことばだ。どうしてこういう言葉が出てくるのだろうと不思議でならない。普通に言えば、「・・・(したり)させて頂けますか?」というようなことばが当てはまるのではないかと思う。「可能」という言葉を使うなら「・・・したり可能ですか?」である。でも、これだと、横柄な(高飛車な)印象を与えてしまうので、申し訳なさそうに「だったりしますか」と言うことばで曖昧さを出して、柔らかい印象を与えようとしている、とみる。そして「刺身より煮魚が好きです」という所を「刺身というよりかは煮魚が好きです」という表現をする。この「・・・よりかは・・・」と言う表現、なにか違和感を覚えるのは私だけだろうか。

 

テレビのチャンネル

 この番組で金曜日だけを担当するのが香川照之だが、若いアナウンサーに、昭和時代の言葉を聞かれて、テレビのチャンネルの話になった。ブラウン管時代のテレビはチャンネルを回す「つまみ」が付いていた。このつまみ自体をチャンネルと言い、番組を変えることをチャンネルを回すなどと言った。しかし、今は薄型テレビ。そして、チャンネルを変えるのはボタンである。私は、チャンネルを変える(回す)と今でも言っているが、若い人は、あの「つまみ」を知らない若者も、チャンネルを変えると言うことばを使っているのだろうか。使っていてもおかしくはないが。

 

補聴器で世界が変わる?

 こんな言葉遊びをしても仕方ないが、その時代時代で、流行る、それこそバズる言葉というのはあるものである。年寄のおじいちゃんも若者に負けずについていこうと思う。

 今日は、補聴器が届く日だ。補聴器やさんも言っていた。耳が遠くなり出すと、耳がバズり出すそうである。白内障の手術で世の中が変わった。補聴器でまた世の中が変わることを期待しよう。(Buzzには、耳鳴りがする、の意味もある)

フィリピンの魅力(17.セクハラ)

 コロナも大分落ち着いてきた。私が住む茨城県では、昨日で3日連続感染者ゼロ。隣の福島県・栃木県も時々ゼロという状態が続いている。そして、千葉県も一時は100台の大台に乗ったが、今や一桁である。そして埼玉県だって、たまに10台が出るが、殆どが1桁台になった。茨城県の周りの県はこのように気にならないレベルになってきた。本当に第6波は来るんだろうかと、最近は考えるようになった。でも、怖い。

 サァー、今日は、少し色っぽい話をしよう。

 

日本のパワハラ文化

 日本では、セクハラならぬパワハラも良くある。上位の人間が地位と権力を使って相手を自分の言いなりにする行為である。武士の時代や明治時代ではよくあった。明治ばかりではない大正・昭和の私が小さい頃迄あった。女中や下男などと言われ、ご主人様の言いなりになる女性や男性がいたものだった。土地持ちにとっては、小作人と称して地主の田畑を管理する人さえいた。これらの人々は、言ってみればパワハラそのものである。それが昭和の30年代頃には、平等や人間の権利などが声高に叫ばれ、言い方も変わってきた。

 お手伝いさん、使用人など、相手との地位を連想させるような言葉は避けるようになった。使用人や労働者が自分の権利を主張ができるようにもなった。

 

日本のセクハラとフィリピン

 男女の関係も同様である。男尊女卑の習慣があった日本では、なかなかその風潮から抜け出せず、今でも一部は残っている。その男尊女卑とはちょっと違うかもしれないが、フィリピンではいろいろな場面でそういった局面に遭遇する。

 最初にびっくりしたのは、女性を選ぶという行為である。優秀な人や綺麗な人、性格がいいと思われる人を選べるのである。日本ではそういったことは、一種の秘め事のような扱いをしてきた人間にとって、この女性が良い、と自分の希望を公に晒すのは、何とも気恥ずかしく感じたものである。

 

女性を指名する

 そういった場面は、水商売で良くある。自分の相手をしてくれる女性を指名できるのである。カラオケに始まり、フィリピンにある1対1で何かをしてもらう水商売は殆どがそうなっている。水商売に関していえば、東南アジアの国々も同様であった。日本的に言えばセクハラになるが、恐らく、こうした国々では、女性の個性を強調した行為なんだろう。つまり、綺麗な人、性格の良い人、頭が良い人などそうした人は、当然の権利として優遇されるのは当たり前という考え方である。

 

セクハラを勘違いしてしてない?

 選挙権が奪われるわけではない。病院に入れないわけではない。相手が気に入るか、気に入らないかは、1対1の思惑である。それをセクハラというのは、確かにおかしいと言えばおかしい。誰と結婚しようが構わない。気に入った人と結婚するのである。人気のある女性が引っ張りだこにになるのを不平等だ、と言う方がおかしい。そして、前にも上げたが、会社の旅行会で女性の水着ショーである。ゴルフのキャデーもそうだ。自分の好きなキャデーを指名できるのである。美人で、気立ての良い、コースを良く知っているキャデーは早い者勝ちで取り合いになる。もっともセクハラは不利な相手が納得しなければ成立しない面もあるが、フィリピンの場合、そうしたことに異議を唱える女性はいないのである。

 

勘違いする男と勘違いさせる女

 カラオケでもゴルフでも、可愛い若い女性が、自分に纏わりつくので、鼻の下を伸ばしニヤニヤして、自分がもてていると勘違いしがちだが、それは全くの誤解である。どんな男にも同様の扱いをするのだ。相手は、男に媚を売るのではなく、財布に媚を売っているのである。

 この国にはセクハラなんてあるのだろうか、と考えさせられる。しかし一方で、女性は男を見下している部分もあるのでイーブンの関係かも知れぬ。

   (つづく、・・・)

厚顔無恥

 今朝は一段と冷えた。テレビの画面には、カピバラが温泉に浸かる映像。温泉が恋しくなる季節である。

 

厚顔無恥 

 さてさて、何という言葉が当てはまるかと考えたら、そうだ! 「厚顔無恥」。言葉を知らない私でも、「厚顔無恥」を知っていた。木下都議の話題である。お昼から始まるワイドショー的な番組、どこを見ても「木下都議」の話題。「眞子さま」並の取り扱い方である。でも、この人の取り扱いは、今日一日だけにしたら良い。公共放送の貴重な時間を使って報道する、それだけの価値がない。

 

モノは言いよう

 1週間位前だったか、「都議を続けます。私にまだ続けて欲しいという人もいるんです。」とうつむいて殊勝そうに話していた木下富美子都議。今考えれば、うつむいた顔の下で、舌を出していたような気がする。その位恥知らずの人間に見えてきた。これは、彼女の弁護士の発言らしいが、委員会で話をさせない都議会の面々を「いじめ」だと言う。弁護士を含むこの人達は、いじめの意味が分っているのだろうか。いじめをしていた悪がきどもが、友達から敬遠され出したら、この不良どもが「いじめだ」と言って、訴えているようなもの。

 

都議対都知事

 板橋選挙区から選出されて出てきたらしいが、板橋区の人たちも肩身の狭い思いしているのだろうと思う。その責任はこの都議にあるが、それさえも気づかない人間なのだろう。その人間が、やっと、辞任する気になったという。辞任を決断したきっかけは、小池都知事との面談だそうだ。この都議は、あとあと、再起を図るのは、小池都知事を巻き込んでおいた方が良いという、浅はかな発想なのだろう。そして、知事より「しばらく身を引くのがいい。再起するときには力を貸します」という言質をとらえて安心というところか。でも、小池都知事は、彼女を上回る策士だ。そうやすやすと都議の思惑通り、言葉通りにはいかないはずだ。

 

説明できない無免許運転

 それにしても、何度も何度も無免許運転をして捕まっている。普通の人間なら、一度捕まれば、二度と捕まらないようにする。絶対二度としないか、捕まらないように注意するかのどちらかである。「二度としない」という考えと「注意する」という考えのどちらも欠如しているから、何度も捕まるのである。そういう人に、そもそも都議として百数十万も月給を払う価値があるのだろうか。都議会や彼女を選んだ住民にも責任があろう。

 

責任を問われる都知事

 昨日のテレビのコメンテーターが言っていた。都議選の時、彼女を応援した小池都知事にも大きな責任があると。私もそう思う。こんなに大きな話になる前に、引導を渡すべきだった。木下富美子に一票を入れた人間もいるだろうが、小池都知事が推薦・応援するので、それを信用して一票を投じた住民も多数いるはずである。この都議は、何度も何度も無免許運転をし続けた挙句、最後には人身事故を起こし逃げてしまった。こういう人が都議だなんて、信じられないし、信じたくもない。

 

鼻出しマスク

 そうそう、もう一つ同じような事件があった。同列に並べるのはいささか可哀そうだが、大分県臼杵市議の「鼻出しマスク」事件である。こちらは、法的手段に出るという。委員会で、マスク着用を申し合わせたにもかかわらず、何度注意しても、鼻出しマスクをする市議。直さないため、委員会での発言を止められたために、発言の自由が損なわれたとして訴えるというのである。国民にコロナを蔓延させないために「きちんとしたマスク着用」が勧められている時に、市議がその必要はないとして、指示に反することをするという構図である。子供が先生の指示に従わないようなもので、いい大人がそれをやって、孫に何と説明するのだろうか。やりたくなかったらやらなくていい、というのだろうか。あまりにも次元が低く過ぎて書く気にもならない。

   

 

フィリピンの魅力(16.女性が取っ組み合いのケンカ)

 昨日の雨も止んで、秋晴れである。庭の木々も9割ほど刈り揃えられ、ドウダンつつじ(満点星)や山つつじの紅葉が雨露に映えて鮮やかである。

さて、いつものフィリピンの魅力を伝えたい。今日はフィリピン女性の話題である。

 

昭和の出稼ぎ男とジャパユキさん

 今まで何度も書いているが、フィリピン女性は、しっかり者だし、働き者だし、朗らかだし、家族思い、子供思いで、一家を支える家庭内では貴重な存在である。ジャパユキさんは、そのほんの一部の現れでもある。

 かって日本では、東北の田舎から出稼ぎの男どもが東北本線で上野へ着き、東京のあちこちの働き口へ散っていたものだった。そして、集団就職で上野が舞台となった、演歌、井沢八郎の「ああ上野駅」が1964年に発売された、その頃である。

 その、集団就職や出稼ぎの男どもと同じなのが、フィリピン女性のジャパユキさんでもある。日本では、その昔、お手伝いさんや女中と言われた習慣がほとんどなくなり、若い女性の、しかも外国人となれば、仕事先は水商売となった。あまり良い印象を持たれないジャパユキさんだが、そうして考えれば、貧困家庭の若い女の子の集団就職みたいなものである。

 

女同士の取っ組み合いのケンカ

 フィリピンには、私が赴任した2003年頃には、日本食堂がマニラに一杯あった。半年経って、世界中のいろいろな食べ物に飽きた私は、あちこちにある日本料理を食べ歩いていた。そこで見聞きしたことがある。女性同士での取っ組み合いのけんかである。原因は全て、自分の旦那と他の女性との浮気。こうした食堂の外でもあったし、我々の会社内でもあったそうである。

 日本ではどうか。男性が浮気したとなれば、女性が男性を責める場面である。男性は言い訳をしたり、そんな事実はないと突っぱねたり、対応はいろいろだ。いずれも奥さん(または恋人)と夫(男性)の争いになるのが普通である。しかし、フィリピンは違うのである。一家を支える女性としては、だんなの浮気相手の女性を責めるのである。なんで、うちの旦那と浮気をするのかと。つまり、女性が誘うから、男がその気になってしまったという解釈である。責任ある立場(浮気女性)の人間を、一家の責任者(女性)が責めるのである。

 

浮気の後始末

 浮気ばかりではない。浮気して子どもができてしまった場合などは、より顕著である。日本なら、相手の女性から養育費を請求されるとか、親権はどちらになるのか、などの論争になる場面だが、フィリピンでは、子どもを身ごもってしまった女性から、感謝こそされるも、責められるというパターンはないそうである。女性は、子どもができても責任をもって生み、育てるのである。男性のせいにはしない。しかも、前にも述べたが、家族の宝として子供を育てるのである。全部が全部こういうパターンとは信じにくいところだが、当時、いろいろな女性に聞いた話なので、当た足らずとも遠い話ではないだろう。しっかり者のフィリピン女性なら、そういうことも十分にあり得ると思える。

 

しっかり者のフィリピン女性

 当時、フィリピンにいた男ども、特に、何の職業をやっているのか分からないような男の人たちからも、子どもができてしまって困ったなどという話は一切聞いたことがないので、多分事実であろう。好きでもない男と恋仲になることもなければ、一旦好きとなれば、すべてを捧げるフィリピン女性である。そして、生活力があり、一家の支えである女性となれば、さもありなんである。

 じゃー俺も、となる馬鹿な男がいるやもしれぬので言っておくが、そうやすやすと、男に身を捧げるフィリピン女性はいないので、念のため。

 

 

 

人徳者

  今朝は、雨だ。庭の広葉樹の紅葉も、雨に濡れて可哀そうである。さて、何を書こうかと考え、時々書いているメモを見て、美徳について書いてみようか、と思ったが、前にも書いたような気をして、10日位前まで自分のブログを振り返ってみたがそれらしいのはない。勘違いだったのか。まあ、いい。書いてみよう。

 

地蔵堂のお賽銭

 私が住んでいる地域には、昔、公民館と言った建物があり、その前に地蔵堂の建物がある。私のおばあさんの頃には、この地蔵堂の前を通りかかっては、手を合わせ拝んだ姿を何度も見かけたものである。しかし、最近は、とんとそういった姿を見かけたことはない。

 ところが、今年の地蔵堂大掃除の時に、賽銭箱を掃除したら、匿名で10万円が封筒に入って、投げ込まれていたというではないか。今でも、手を合わせ、御賽銭を上げている人がいるのか、と嬉しくなったり、ビックリしたりだった。

 

地域有志の寄付による公共物

 そして、向かいにあった公民館は、農村集落センターとして、数十年前に建て替えられた。それでも、もうあちこちが痛み出している。その庭には、建て替えた時の貢献者の名前、建物内には、寄付者の名前と寄付額が書かれ飾ってある。それを見ると、とうの昔に亡くなった方々のお名前などが書かれている。その寄付金を見てビックリである。殆どの人が数万円、そして高額者は何十万円の寄付額である。今のお金の価値と違い数十年前の価値だから、今なら百万円位の価値があるのかもしれない。

 

今どきの寄付

 話は変わって、その前にある地蔵堂も屋根が傷んできた。見積を取ったら、数十万円かかるらしい。昔なら、地域の人徳者に相談すれば、その位のお金は容易に寄付してくれたのかもしれない。しかし今は違う。そこで地域役員で出した結論は、一般の住民は千円以上の寄付、役員は五千円と決まった。

 そして,寄付帳を回した。当初心配した寄付をして頂けない人がたくさん出るのではという危惧は消え、殆どの住民は千円、役員は五千円の寄付となったのである。

 

寄付に見る昔と今の違い

 それにしても、昔はなぜあんなに寄付が集まったのだろうかと考えてみた。昔は、地域、地域に、人徳者というか、地域の長のような人が数人いた。その人の周りには、昔でいう子分のような存在の人で取り囲んでいた。だから、長が一番多く寄付し、その長が、いくらいくら出せと言うと、その子分たちはそれを出した。その地域の長になるのは、土地を持っている人や資産家だった。そして、そのような人は、地域の区長にもなったし、PTA会長にもなり、時として、町長や市長にもなった。つまり名誉職に就いたのである。

 

平等と名誉職

 そして、時代は新しくなり、平等が声高に騒がれ、そういった地域の長もいなくなった。寄付金の額をリードする人もいないくなった。名誉職に推薦される人もいないくなった。どんな人でも能力さえあれば、町長でも市長にでも、国会議員でもなれる時代になった。地域の、そして地域住民に支えられた名誉職ではなく、今は、個人の役職による名誉職である。役職が終わればただの住民になるのだ。昔の名誉職はその職がなくなっても、地域住民から慕われ、崇められたのである。

 

人徳者

 今、NHK大河ドラマ渋沢栄一を放送している。渋沢栄一に反対した住民もあったろうとは思うが、あのような人物が地域地域にいたのである。大多数の人が賛成し、その人が住民をリードしていった。そういう人には、個人の利益ではなく、必ず、理想の国家像、地域像みたいなものを持ち、国民、住民を幸せにするという最終目標を持っていた。そういう目で今の政治家を眺めてみる。

 難しいことは分からないが、それを「徳」というのだろうと思っている。

フィリピンの魅力(15.子供がいても養子縁組)

親せき・家族仲良く暮らすフィリピン

 フィリピン人は家族が多い。祖父・祖母、父・母、子どもと三世代揃っているのが普通だ。そして、子どもも多い。3人、4人は普通であり、5,6人という家庭も多く、大家族で子どもの時から育ってきている。兄弟が多いということは、叔父・叔母も多いし、従妹も多いということになる。そして、誰と誰が家族か分からないほど、叔父・叔母、家族とも仲が良く一緒に暮らすなんてこともざらである。

 

子どもが多いのは年金?

 子どもが多いということは、親が楽をすることにもつながる。前にも書いた。一番大きい子供から、18歳で高校を卒業する(私が現地にいた頃は、高校卒業は16歳だった)と、街へ出て働き、仕送りを実家に始める。そのお金で他の兄弟は生活できるので、親がだんだん働かなくなる。そして、どんどん子供たちが上の兄弟から順番に仕送りを始めるので、生活が楽になって行くのだ。早く結婚した親たちは、40歳で老後の生活のような人たちもいた。フィリピン人は寿命が短いし、見た目も年老いている。こういた生活が原因かもしれない。子供がいるということは、親としては将来が約束されたも同然なのである。言葉は悪いが年金みたいなものだ。

 

日本の場合

 日本の場合、子どもがいない家庭、子どものできない家庭などでは養子縁組などが昔流行った。今では、日本では子供もも一人とか二人とかが多くなり、養子縁組できる子だくさんの家庭も少なくなり、なかなか成立しないらしく、最近はとんとそうした話は聞かない。子供のいないまま夫婦二人だけで老後を生活するなんて家庭は一杯ある。でも、昭和20年代、30年代は日本も子だくさんの家庭が多かった。私たちの小学校時代は、同じ小学校に兄弟揃って通うなんてことは普通のことだった。

 

子どもがいても養子縁組

 しかし、フィリピンになると事情が変わってくる。小さい時から大家族で育った親たち世代は、子どもを多く欲しがる。子供が少なかったりすると、子どもがいても養子縁組をするのである。子だくさんで育てられないという家庭ももちろんある。一方で養子縁組をしたいという家庭があるのだから、こうしたことが成立する社会環境にあるのだ。しかも養親にとっては、年金みたいな意味合いを持つので、経済的に余裕のある親は、子どもがいても養子縁組というのはあり得るのである。恐らく、子だくさんということは、経済的に余裕がある家庭ということになり、社会的なステータスも上がるのかもしれない。

 

建売住宅に住む一族郎党

 水商売で働く若い女の子の家庭に行ったことがある。この子が建売住宅を買ったのだ。すると、まず、田舎から母親や妹たちが引っ越してきて、一緒に住みだした。その後、叔父さんと言われる人、その子ども(従妹)も一緒に住みだしたのである。そして、そうした子どもたちは、その女の子の家から街の学校に通い出す。一人の女の子の稼ぎで、家族・親せきが住居・食事が保証されるのである。

 

建売住宅

 この家は二階のある一戸建てだったが、日本のような間仕切りが一切ない。住み付いてから、自分達で必要な間仕切りをするのである。当然、外構工事も一切ない。自分たちで塀を作り、タイルを張るというスタイルだった。お勝手も自分たちで作っていたような気がする。つまり入れ物だけを一軒家として売っているから、当然ながら値段も安い。当時のお金で百数十万だったように記憶する。

 

生活費の安いフィリピン

 もちろん、このような建売住宅ばかりではないと思う。もっと立派な建売もあるのだろうと思うが、家が数百万円で買える国なのである。一般的になんでもそうだが、質さえ問わなければ、日本の1/10の値段で買える国なのである。

 そういえば、当時現地にいた日本人の老後生活送りたい国のナンバーワンがタイ、そして二番目がフィリピンだった。その一番の理由は物価が安いことだった。今は、大分様相が変わってきているかもしれないが、フィリピンだけは、今でも、1,2位を争う存在のような気がしている。

    (つづく、・・・)

 

 

大谷翔平、アメリカンリーグ、MVP

 今日は、何を置いてもこの話題だろう。新聞から賞賛の声を拾ってみる。

 

同僚、監督などからの賞賛の声

「オオタニは、人の形をした神話の中の偉人」「彼こそが真の長距離打者。大リーグの常識を変えた唯一無二の存在」「まるで魔法」「リトルリーグの子どもが『すべてやりたい』と思う夢をエリートレベルで実現」「現代のビンバーノ(ベーブ・ルースの愛称)」「彼はモンスターかアンドロイドの能力を持っている」「8回投げた翌日にホームランを打つなんて。歴史的瞬間ばかりだった。」(以上、読売新聞) かって大リーグで活躍した松井秀喜、大リーグ他球団選手、監督、昔の大リーグ選手、同僚などからの賞賛の嵐だ。

 

エンゼルス、マドン監督の言葉

 そして、所属するエンゼルスのマドン監督のインタビュー記事が載っている。「大リーグはこれまで、彼がやってのけたことに近づくことさえできなかった」「ショーヘイはア・リーグだけでなく、メジャー全体のMVPだ」。敬遠が多かった今年のチームの状態を、「一緒に打線を引っ張るはずの・・・が不在で、彼にマークが集中した。周囲をレギュラーで固めることが出来れば来年は50本塁打も可能だ。今期9勝の投手成績も同様、十分な援護が得られれば簡単に10勝できたはずだ」。「投打もベースランニングも素晴らしいが、人間性も優れたスキルの一つ。彼は決してイライラしない。いつも穏やかで、周囲に対する敬意に満ちている。・・・彼はとても上品なやり方をする・・・その謙虚さがとても印象的・・・」(以上、読売新聞)

 

めったにいない二刀流、しかも一流

 以上のことばを聞いたら、付け加えることはない。私は、小学校6年生から学生時代、心臓病で運動ができなかったので、野球少年の気持ちは分からない。でも、少年野球では、ピッチャーで4番バッターという子どもは多くいる。運動神経に優れている子どもは何をやっても上手だから、投打に活躍できるのだろう。大学野球まで来るとそこまでの選手はあまり記憶にないが、高校野球だと、ちらほらそういった選手も見かける。それが、世界一の大リーグでやっていて、そこでのMVPである。

 

子どもたちの理想に

 イチローが、かって、大リーグでMVPを取った。20年前だそうだが、これほど騒がれなかった気がする。MVPを決めるにあたって、投票する記者たちが30人いるそうだが、全員が1位でオオタニに投票した。イチローは、2位に幾つか差をつけてMVPを取ったそうで、オオタニの満票での受賞は、ともかく凄いの一言だろう。そして、大谷翔平が言っている。彼は、イチローの受賞を見て、大リーグで活躍したいと思ったそうである。そして、オオタニの今回の受賞を見て、彼のように大リーグでの活躍を夢見る子どもたちが出て来てくれることを願っている、とコメントしている。

 

まだまだ学ぶことは多い

 誰もが言っている。さりげなく、グランドのゴミ拾いをする彼の姿、ホームランを打った時でも謙虚な仕草、周りに対する気遣い、どれをとっても一流である。そして、個人を大事にするアメリカで、日本流の典型的な「気遣いの精神」を浸透させた日本人という点でも賞賛されるべきだろう。

 いい歳をして、と言われるかもしれないが、彼の仕草、彼の言動、一つ一つがこの歳にして参考になることばかりである。偉そうに、若者に苦言を呈する自分に恥じ入るばかりである。まだまだ、学ぶことは多い。

 

過度な期待はやめよう

 来年、世界中のみんなが、50本塁打、10勝を期待するかもしれないが、余りそんなことは気にせず、自分の納得のいく野球を、彼にはやって欲しいと願いたい。今年だけで十分だ。それ以上などとは望まないことにしよう。そんなプレッシャーに負けるオオタニとも思えないが、過度な期待はやめよう。

 頑張れ! 大谷翔平