ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

高齢化社会には、、、

高齢者比率、世界一

高齢化社会の実情(今朝の読売新聞)

 今朝の、天皇陛下、イギリスへ到着の記事に紛れてあった、「65歳以上 29.1%」の記事。女性は人口比率が高いので、32%だそうだ。そしてこれは、2位のイタリア24.1%を大きく超え、ダントツで1位なのである。

 

イケイケ・ドンドン

 今、日本経済の低迷が叫ばれている。私は70代半ばの、いわば、 ”団塊の世代” である。

 今考えてみると、我々が30代、40代の頃は、「イケイケ、ドンドン」の世界で、外国へ行っても「日本では・・・」という「”では”の神」が口癖だったような気がする。それだけ、世界に先駆けて何かをしていた。世界のトップクラスに肩を並べていたということだろう。

 英語もろくに分からない若造が、世界のトップクラスのエンジニアの如く振舞い、「日本では」などと言い、”怖いもの知らず” 状態だったことは確かである。でも、それだけ日本全体が活気に満ちていたということでもある。

 

ハードな仕事も残っている

 もう20年も日本のビジネス業界から離れている。今業界が、どんな状態なのか良く分からない。一時、秋葉原が電気製品を買う中国人で溢れていたが、コロナの影響で、そうした目立った動きはなく、アニメ・マンガの世界がクローズアップされている。

 若い人たちの独壇場でもある。従って、電気製品の製造会社、つまりハードな仕事をする若い人もいなくなって、ソフトを操る人たちが跋扈する世の中になってきた。しかしハードも世の中には必要なのである。そこで、今、技能実習生を始めとする外国人労働者に頼る社会構造になりつつある。

 

高齢者の再雇用

 そこで、長生きする高齢者を使うことはできないか、ビジネス界で真剣に考えてみたらどうだろうか。年金もそれなりにあるので、今どきの老人は、そんなに働きたくはない。しかし、体力維持や気分転換、更には、そうは言っても小遣い稼ぎはしたいという要望はどこかしこに持っているものだ。

 つまり、フル勤務ではなく、週2日とか、半日勤務とかで数人の高齢者でつなげる勤務体系を取れぬもんかと思うのである。会社でこうした人々の世話を焼く人たちは大変だろうが、外国人に頼らず、こうした人材を検討してみてはと思うがどうだろう。

 

高齢者の生きがい

 何事も「言うは易し」である。しかし、やってみる価値はありそうな気がする。高齢者の「楽しみ」に仕事をしてもらうのである。

 今の高齢者は、一時期、「仕事人間」だった。仕事しかないような生活をしてきた人たちである。「高齢者に生きがい」を持ってもらうためにも、良いアイデアのような気がするがいかが・・・。

 

 

 

身内意識

教育委員会

 今朝の新聞の切り抜きである。

教育委員会など教育に関する記事(9/18付、読売朝刊から)

 教育委員会などは、「いじめ担当部署の人たちが、元教員で大多数が占められている。だから、いじめの調査がうまくいかない。」という論調の文面である。

 先日のブログにも書いた。中高一貫校の校長の一般人公募があった話と共通点だろう。こういった批判は前からあったに違いない。そこで、学校のトップから変えようという風向きが各教育委員会で吹いているということと思われる。

 

教員免許の是非

 そもそも、「教員免許というのは何ぞや」である。生徒に「いじめ」の是非を教えるのに、教員免許を持ったその先生たち集団が、身内意識で先生を庇うという考え方そのものが、弱いもの(生徒)に対するいじめではないか」。こんなことなら「教員免許はどうやって取った?」ということになるし、「本当に教員免許は必要なの?」ということである。工学系の資格、例えば、一級施工管理技士のように、免許ではなく資格にしてしまったらどうだろうか、一級教士、二級教士のようなである。

 

一般人が入れる学校

 今、一般人が、世の中の経験者が一時的とはいえ、ゲストテーチャーとして小中学校で教える事例が増えている。勿論、経験談などなどである。こうしたことも、ある種、身内意識の弊害を直す手段であろうと思われる。

 学校というのは特殊な組織である。教員免許を持った人間しか入れない組織である。そこに問題がある。世の中の一般民間会社にしろ公官庁にしろ、・・・免許を持った人間しか入れないという部門や組織はない。

 

民間会社では常識でも・・

 一般会社で何かを開発しようという話になったときなど、開発する分野の人間だけではなく、色々な専門分野の人々を集めたりして意見やアイデアを募るものである。ところが、何かを開発する、何か問題を起きても、同じ考えを持つ人間だけで考えたのでは、うまい解決法や相手の立場に立った考え方などできないのが当然である。

 

生ジョッキ缶

 昨日、某インク会社の話をテレビで報道していた。昨年販売されたアサヒビールの新製品、生ジョッキ缶の話題である。ビールの栓を抜くと、ビール生ジョッキの如く、泡が盛りあがる、あの缶である。

左:新製品のビール 中:ビールジョッキ 右:剥がしやすいペットボトルフィルム

 何でこういうことが出来るのかと不思議に思っていたが、アルミ缶の内面を凸凹にすると缶内で気圧差が生じ、こうなるのだそうだ。そこで、ビール会社とインク会社で知恵を絞り、共同でそうした凸凹アルミシートを開発し、ビール缶にしたのである。

 つまり、1社ではできないことを2社集まり知恵を絞ることで、新製品を生み出したという訳である。このインク会社は、ペットボトルのフィルムの接着材も開発し、剥がしやすく、糊がボトルに残らないフィルムを開発し、SDGSにも協力しているという。

 

改革必要な教員免許制度

 このように民間会社では、自社内の他部門が協力する、他部門の会社同士が協力するなんてことは当たり前だが、教育界(教育委員会・学校)では、当たり前になっていないし、それが出来ない構造になっている。その根源は、教員免許にあると思われる。

 マスコミも、実態を暴く写真週刊誌のようではなく、根本を是正する提言を行って欲しいものだ。

ラインでの交信

ブログの継続

  ブログを1年半前から始めた。ホームページは前から作っていたが、何人かに見てもらわないと張り合いがない。そこで、ブログを作り始めたわけだ。年寄りの作るブログは、年寄りのブログだけあって、話題も若い人のような内容とは異なる。従って、若い人には見てもらえない。さらに言えば、年寄りは、ブログなんて見ない。だから見る人も少ない。でも、一人でも興味を持ってくれる人がいる限り、張り合いになるものである。いつか、自分のブログの中から、良さそうなものを選択して、本を出版できたらと思っている。

 

フェースブックからラインへ

 ここ最近外国人(自称:日本人)やハーフの人からこのブログを見たとメッセンジャーが入る。フェースブックを見て、メッセンジャーで連絡してくるのである。そして、気が合えば(合うと思えば)、ライン登録を希望してくる。お陰様で、ラインIDからラインに登録する方法も覚えた。

 こうして、最近は世界中の知らない人と交信できるようになっている。

 

シリアの難民キャンプ

 今交信している人の中にシリヤ(Syria)の人がいる。日本語は全くと言っていいほど分からないが、恐らく、URLなどからメッセンジャーに投稿してくるのだ。従って、私の日本語のブログは全く読んでいない。単に、日本人と交信したくて連絡してくるのだ。こうして連絡する人は全部比較的若い女性である。

 若い男と直接お付き合いすることも出来るのだろうが、危険だし、煩わしいのか、いつでも交信を打ち切ることが出来るラインやメッセンジャーなどを使うのだと思われる。

 

英語で交信

 このシリアの女性は、父母を戦争で亡くし、独身・孤独だそうだ。そして今難民キャンプにいるそうである。日本語が分からないか聞いてみると、アラビア語か英語だという。仕方なく、乏しい私の英語力で会話を始めた。10年ぶりに英語が役立った。

 キャンプの様子が知りたいので写真を送って欲しいと頼むと、携帯を使って交信しているわけではなく、お父さんが残した古いパソコンで交信しているという。つまり、カメラがないのだ。そして、誰かから借りられないか聞いてみると言っていた。写真が送られてきた公開してみたいと思っている。

シリア難民キャンプ(ネット映像より)

ことばでは分からぬ感情

 そして、もう一人は、日中ハーフのお嬢さんである。最初日本語が良く分からないというので、その気になり教えていたら、私の「書いている意味が分からない」という言葉が気に障るらしく、怒って交信を止めてしまった。文字というのは感情が良く伝わらないので、「相手が怒っているのかどうか」を文章から見定めるのは難しい。日本語を教える参考になった事例だ。

 

乏しくても外国語は大事

 更に、現在交信中の人に、もう一人日中ハーフがいる。この人は、自称、若き経営者である。いつ交信が終わるか、また、何がきっかけでそうなるか、楽しみが一つ増えた。そうなるまでは、日本人の誠実さを示そう。

 ブログから、こんな余禄にありつけるとは思ってもみなかったが、私の乏しい英語がシリアの彼女に一抹の安堵感なり、楽しさを与えたかと思うとまんざらでもない。

稲盛 和夫

100年インタビュー

 私が現役の頃、経営者で有名だった人の一人、稲森和夫さんである。

眠れない夜が2,3日前にあった。夜中の1時頃だったか、2014年に放送した再放送をやっていた。聞き漏らしたところもあるので、翌日、NHKプラスで聞き直した。

左・中:100年インタビューの様子(NHK番組から) 右:電車の中の著書ビラ

実に共感できることばかり言うもんだと感心しながら聞いていた。この頃は、こういった考え方が主流であったということだろう。今では古い考え方なのかもしれぬ。ただ、こうした考えで、京セラを立派な企業に育て上げ、KDDIを、そしてJALまでも再建した手腕と実績は、誰にも引けを取らないだろうと思われる。

 その一端を紹介したい。

 

愛と誠実

 JALを再建した時の話である。私もそうだったが、1975年頃から2010年頃まで海外出張をよくやった。海外の色々な航空会社も利用した。当時、一番良い航空会社は、シンガポールエアラインと言われた。若いうちは、言葉の不自由さもあって、JALを利用していたが、稲森さんが感じたように、私も、サービスが良くないと感じたことから、キャセイ航空やマレーシアエアラインなどを多用した。

 つまり、「サービスが良くない」と一口で言うが、食事が拙い、飲み物を持ってくるスピードが遅いなど、物理的なサービスを言っているのではない。「心のサービス」が足りないと感じた。そこで、稲森さんはJAL再建にあたって、「意識を変える」ことを考えたそうだ。

 

フィロソフィ―

 京セラでは、「フィロソフィー」という小さな手帳を社員全員に持たせているという。そして、JALにもその必要性を感じ、稲森さんは社長以下に指示して、JAL独自の「フィリソフィー」を作ってもらったという。つまり、社員として、人として、世の中の一員としての考え方をまとめた手帳である。

 有名大学を出て幹部になった。JALには立派な幹部が一杯そろっていた。その人たちに、フィロソフィーを解くのである。最初は、難しいと思ったようだが、具体的な話になると、「そんな話なんて・・・・」と聞く耳を持たない人たちもいたという。

 

考え方が大事

      人生・仕事の結果 = (考え方)×(熱意)×(能力)

 という理屈である。有名大学を出て、いくら立派なことを言っても、(熱意)がないことには仕事はできないし、相手(同僚・上司・顧客)を納得させられない。

 さらに大事なのは、(考え方)だという。熱意や能力には、0点から100点まであるが、考え方は、-100点から+100点までの幅があるという。negativeなDirtyな考え方では、マイナスになるというのである。

 

盛和塾

 そんな考え方を新会社設立・再建にあたっては貫いたわけだが、そうした考え方を若き経営者を育てる機会にと思い、盛和塾というグループを作ったそうだ。大学には経営学部という学部すらあるが、ここでは、あくまで学問であり、具体的な経営を教えるところではないともいう。

 我々も、設計と現場で同じ葛藤が一杯あった。図面と現場は違うのである。同様にペーパー上のことと実際の経営は違うのである。

 

最後に一言

 「経営者は生真面目であって欲しい」という。社有車が使えるから、交際費が使えるからと天狗になってはいけないともいう。それは重責を担っている代償だとも。

 そして、「大きな成功には大きな犠牲が伴う」と。

 JALの再建に立ち上がったのが、稲森氏78歳の時。私は、まだ74歳。まだまだこれからだ!と気力をもらった。「気力」を「熱意」に変え、「突進力」に変えて行こう!

 

 

 

二日酔い

二日酔い

 いい歳をして二日酔いである。

 昨日は、仲間とカラオケだった。このカラオケは、近況報告や情報交換、会食などの要素も含んでいるため、1/3は、そうした時間に充てられる。毎回、缶酎ハイ1本と決めていたが、昨日はとうとう羽目を外してしまった。今日は、イヤーな気分である。これは、二日酔いのような生理的な気分ではなく、精神的に気分が悪いのである。こんなことはもう止めようとの思いから、ブログに書き留めておこうと思った。

 

禁酒でなく謹慎酒

 今までも二日酔いは何度もあるが、昨日のようなことは恐らく初めてである。いくら酔っても、薄っすらと酔っている時のことは覚えているものだが、昨日に至っては、全く欠落しているのである。それも、1時間もの長い間である。カラオケをやっていた途中から、清算を済ませ、駅まで歩き、電車に乗り隣駅で降りて、家まで帰り、寝て今朝起きるまでの記憶がないのである。今後は、缶酎ハイを一本までにしようと思う。

 

酒に酔って・・・

 二日酔いと言えば、今までに「酒に酔って・・・」という話は一杯あるが、今でも覚えている面白くも、可笑しくもない話がある。

 日立市にあった会社は、日立駅の一つ隣の駅、小木津駅の目の前にあった。また、住んでいたのも、会社の近くの独身寮だったため、会社帰りに同僚と飲むのは、大体、小木津駅近くだった。

 

独身寮へ転がり込む

 でも、時には、隣駅の日立まで足を延ばし、飲みに行くこともあった。2、3件はしごして、電車で帰るわけだが、最終電車が10時(22時)台までしかなく、まだ飲み足りないというような若い時もあったのである。

 するとどうするかである。一つの方法は、もう一つの独身寮が日立市中心部(ということは、駅は日立駅)にあり、当然歩いて10分というよな場所だったので、そこへ転がり込むのである。夜中に転がり込まれた寮生も迷惑だったろう。そして、着るものも前の日と同じものを着て出勤するのだ。

 

隣駅まで歩く

 そして、もう一つは、夜中に隣駅まで歩いて帰るのである。駅間は、3,4キロはあるから、普通だったら1時間弱だろうが、酔った足取りだから、1時間半くらいはかかったろうと思われる。不思議なことに、今でも、「ここで休んだっけなぁー」と茨城弁で思い出す。それも、あのベンチで、とか、あの家の前でとか思い出すのである。

 あの当時は、コロナもなければ、追剥もいなかった。だから、道路端のベンチで寝ていても何の被害も心配もなかったのである。

 

豪でのほろ酔い運転

 それと、もう一つある。酔っ払い運転である。30歳の頃にオーストラリアのシドニーに出張で8か月くらいいた。当時、オーストラリアは、酔っ払い運転はOKだったのである。ほろ酔い運転というべきかどうか。

 しょっちゅう、食事と一緒に飲むワインを飲んでは、運転して帰ったものである。その頃はシンガポールでもOKだったような気がしている。

 

やっちゃーいけない酒酔い運転

 また、もう時効だろうが、2,30年前だが、日本でも酒酔い運転をしたことが一回だけある。会社近くの社宅に住んでいた頃の話だ。会社の駐車場が会社のすぐ前にあり、何かの用事で車で出かけ、そのまま会社の駐車場に置いて出勤した時の話である。会社帰りに一杯飲み、帰宅したはず、思っていた。ところが、翌日、家の駐車場を見ると、車があるだ。この時はさすがビックリした。つまり、車で帰宅していたのである。この時は、運転した記憶もなかったので、運転中に人身事故など起こしてないだろうかと心配になり、毎日新聞記事を確認したものだった。

 この時以来、車で出かけた先では一切お酒は飲まないことにしている。

リーダーの器

  英国、エリザベス女王が亡くなって、19日に国葬が営まれるという。一方日本では、安倍元首相の国葬問題で揺れ動いている。この両国の違いは何なのだろう。

 

安倍元首相の国葬是非論

 安倍元首相の在任期間が長いとか、色々な国葬にする理由を岸田首相は並べ立てているが、明らかに間違いを犯した。自民党政権閣議決定国葬が決まるなんてことがあってはいけないと思われる。決めるなら、各党の国民の代表者がいる国会で決めるべきであって、ましてや費用を国民の税金を使って賄うなんてことがあっては、尚更、国民が反対するのも無理はないと思われる。

 

自民党員の元首相

 確かに、安倍元首相は日本の国に大きな功績を残した。長い間、首相を務めたのだから当然と言えば当然でもある。自民党という党に在籍しながらその総裁を務めながらである。途中で、安倍さんに代わる人材が出てきたら、こんなに長く首相を続けられなかったかもしれない。そうなったら、岸田首相の大きな理由の一つ、長い間首相として、という理由は崩れるはずである。つまり、自民党という党があって初めて言えることなのである。

 

昔の事例は特殊事情

 昔の軍事政権下や明治時代などの特殊な環境にあっての国葬は過去の事例としては同列に並べることはできないだろうし、戦後の吉田茂氏の国葬も、混乱期の日本にあってのものと理解すべきと思われる。

 

自民党葬では、なぜいけない

 なぜ、自民党葬ではいけないのか理解に苦しむ。そういう判断がなぜ出来ないのか、一国の首相である岸田首相が、である。そうでなければ、普通に考えたら国会で審議し決めるというのが当たり前のやり方ではないのか。自民党以外の他党員は、政治信条で争ってきた人たちである。安倍元首相だって例外ではない。自民党のしかも一部の閣僚だけしかいない、いわば密室の閣議で決められたと言って、国民に押し付けられても困る、と誰しも考えることだろう。今、反対デモをしている人たちはそういう思いなのだろう。

 そんな理屈も分からない首相が、日本の首相だというから、全く困ったものである。

 

リーダーの器

 一方イギリスでは、亡くなってすぐ国葬の日取りが決められ、19日には早々と営まれるという。バタバタしている日本とは大違いである。リーダーがしっかりしないとこんなことになる。

 国葬は、日本では、憲法で定められているように、皇室だけに限って営まれることにしてはどうかと思われる。生活費自体が税金であり、選挙でも何でもなく、次期天皇が決められるという特殊性から考えても、それが一番妥当な結論のような気がする。

 所詮、首相は、自分の主義主張があり、営利でもあり、国ためとは言いながら、党があり、の世界である。

 リーダーは、リーダーの器であって欲しい。

 

近くの親戚より、遠い他人

エリザベス女王死去

 エリザベス女王が亡くなった。日本にもかっていらしたこともある。その当時の思い出はかすかに脳裏に焼き付いている。新聞報道を見て、「そうだ、こんな風だった」と思い出した。

 もちろん、間近で見たこともないが、それでも、優しいお人柄は画面を通じても、文字を通じても分かる。マスコミが作った虚像かとも思えなくもないが、マスコミがインタビューする限りにおいて、そうしたお人柄が伝わってくる。

 チャールズ新国王が即位宣言をなされたという。また、ウィリアム新皇太子も即位された。今後、イギリス国民の英王室を見る目はどう変わるか。

 

送迎バスで、また死亡事故

 幼稚園の送迎バスで、家から幼稚園に着いて降りた時に置き去りにされ、幼稚園児が亡くなったという。発見されたときは、上半身の服は脱ぎ捨て、飲み物が入っていたボトルは空の状態で見つかったという。大人なら窓を割ってでも出られるだろうが幼稚園児では、泣き叫ぼうが暴れようが、誰も気付く人は無かったのだろう。実に可哀そうな事件が起こったのである。 

左:エリザベス女王 中:幼稚園事件で謝罪する関係者 右:幼稚園バス  

一杯付く、疑問符「?」

 この日バスを運転していたのは園長だったという。普段の運転手は休みで、代わりに園長がハンドルを握ったということだ。誰でも「なぜ?」と疑問がいくつも湧く。子どもたちが降りるときは、チェックしなかったの?最後にバスを降りるとき、バスに誰もいないかチェックしなかったの?ドアに鍵をかけるときも誰もチェックしなかったの?園児が教室に入ってきたとき、担任は、誰と誰が来ていないかチェックしなかったの?来ていなければ、おうちの人に確認しなかったの? というように、一杯、「?」が付く。

 同様の事件は、昨年も起きている(事件が起きた、写真の右下のバス)。

 

キチンとした風土を見極める

 今回の運転手をしていた園長、一緒にバスに乗っていた職員、担任等など、みんなが、「・・・だろう」などと、人任せ、無責任な対応を取っていたということである。恐らく、日頃から、こうした兆候はあったに違いない。私は会社に40年勤めたが、こうした現象は会社や組織の風土になる。「きちんとした風土」とそうでない風土は、その会社や組織を訪れただけで、雰囲気、空気感から分かるものである。

 

親としての役目も

 今になり家族が色々騒ぐが、親達だってこうした空気を感じていた人も、少なからずいたに違いない。勿論、親には何の責任もない。しかし、我が子を預けるのである。どんな幼稚園なのか自分の目で確認しておくのは、最低限の親としての義務でもある。いろいろな集まりもあったろう。その折々の職員の対応などを見れば、「きちんとした風土」か否か分かるはずだ。

 

「近くの親戚より、遠い他人」の時代

 最近、フェースブックで知った人と交信している。イエメンで医者をしているという。そうかと思えば、かっての同僚がサウジアラビアで仕事をしているという。もう現役を離れた我々が、世界中の人たちと、こんなことが出来る世の中になったということであある。

 最初の例は、言ってみれば、会ったこともない、心情も分からない世界中の人と、話ができるということでもある。日本流にいえば、どこの馬の骨ともわからぬ人と、ということになる。

 「遠い親戚より、近くの他人」ではないが、「近くの親戚より、遠い他人」の世界が広がるのである。昔は、親兄弟はもちろんのこと、親戚も、おじさん、おばさん、従妹位までなら、名前はもちろん、性格まで分かっていたものである。そして、それなりの親近感もあったし、お互い病気になったりすれば、心配もしたものだ。

 

エリザベス女王の「尽くす心」

 近くの子どもや娘さん、息子さんの顔も知り、見かけなければ、その親に聞いたりもした。地域全体が親せきのようなもので、気になったものである。そうした一種の責任感みたいな感情は、今は無くなっているということだろう。

 エリザベス女王ではないが、国民のために尽くすという感情・心を、園児を面倒見る人たちは、「園児のために尽くすという感情・心」を是非持ってもらいたいものである。