ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

パソコンの立ち上げ

パソコン立ち上げも楽しみの一つ

 やっと、新しいパソコンでブログが書けるようになった。毎日新しいパソコンでできる範囲が広くなるのが楽しい。一つずつ改善してゆくのも年寄りの楽しみになっている。若い頃は、意地になって1日で終わらせないととやっていたものだが、こんなことまで楽しみの一つになってしまうとは、人生面白い。

茨城新聞記事(委託料、自治会長個人に)

 

茨城新聞記事

 先日、「鳥追い行事」を地域でやった話は書いた。その折、訪問者の接待役を買って出たわけだが、そこで面白い出来事があった。

 元区長の方が、上記新聞の記事の話をし出したのである。勿論、周りには役員の方々、地域の方々が数人いての話である。「こんなことが茨城新聞に出ていたが、どう思う?」という問いかけだった。しかも、話だけではと思ったのだろう、家に帰って、上記のコピーを持ってきたのだ。余程、腹に据えかねたのだろう。茨城新聞の記事の書きようや苦情ピウを言う水戸市の住民に対してである。

 

市報配布委託料はの行方は?

 私は、未だかって自治会組織に入ったことがないので、自治会の組織や自治会長という立場がよく分からないが、我々の地域組織でいう、常会長、区長という組織と同じようなものだろうと想像する。新聞の趣旨は、自治会長には市報配布という業務に対し、水戸市は委託料を払っているが、そのお金を自治会長が個人でもらっているのは違法ではないか、という記事である。つまり、自治会の収支決算に計上すべきものという考え方である。

 

仕組みは市によって違う

 我々の市も市報があり、常会がある地域には常会長に配布され、それを各戸に配布されるようになっている。ちなみに、常会のない地域の方々は、市役所やその支所へ各個人が取りに行く仕組みである。

 私に言わせれば、自治会長が自ら各戸に配布するのであれば、委託料は自治会長個人に入っても異論はないところだろう。住民は、自宅にいて自治会長が配布してくれる市報を見ているのだから当然といえるかもしれない。しかし、自治会の役員全員で配るような仕組みになっていれば、会長が独り占めするのはよくないことだ、というのは誰でも分かる論理である。

 

地域のために働く人は少ない

 この件は、この件であるが、我々の組織では、常会長は回り番で順番が来れば、市報の配布も常会長の仕事、常会員が平等に担当するので、個人の懐に入れようが入れまいが問題とはならない。

 しかし、この件で感じることは、自治会長や役員の立場である。今や、そうした役員をやる人、人材がいないのである。高齢化で事務処理ができないなどの理由もあるが、それ以上に、「みんなのための働く」という仕事がいやなのである。

 

公共のために、人のために

 公共のために、ボランティアで仕事をするといったこと自体が嫌な住民が殆どなのだ。ボランティアが新聞紙上を賑わすのはしょっちゅうである。しかし、絶対数は少ないのが現状である。

 今回の件のように、自治会長が悪者の記事を書くのもいいが、どうやったらボランティアや人のために働いてくれる住民を育てるにはどうしたらいいかを書くのも新聞記者の務めではないか。

 

 

 

どこの馬の骨

大きな封筒が舞い込んだ

 大きな封筒が郵便受けに入っていた。手書きの宛先から、個人からの郵便である。差出人を見てみると、昔懐かしい ”従弟” からの手紙らしい。中を開けてみてビックリ。A4サイズの手紙と家系図らしきものが入っていた。

 手紙を読み進むうちに、彼の家系と私の家系、更に彼の父親母親等など関係する叔父、叔母、従妹等などの家系まで手に入る資料を調べ上げ資料にしたものだった。

 

懐かしい従弟の声

 思わず唸ってしまった。そして、電話を入れお礼を述べ、昔話に花が咲き、私には珍しく長話をしてしまった。何十年かぶりに彼の声を聴いた。昔懐かしい声だった。昔の、人懐っこい顔や立ち居振る舞いまでが頭を過った。

 そう言えば、亡くなった両親が、「・・・ちゃんが、こんな家系図を調べて送ってきてくれた。・・・ちゃんは大したものだね」などと褒めていたことを思いだした。聞けば、平成3年(1991年)のことだった。今から30年も前の話だ。言ってみれば、その続編である。

 

家系と家格

 家系、家格などを再度考える機会になった。昔は、「家柄」とか「誰と誰が親せき」とか「あの嫁はどこどこの立派な家の出」とかと言った話題が各家庭の中で話されたものだった。天皇家の跡継ぎ問題などで論じられるように、各家庭で同様のことが論じられていたのである。だから、「お見合い結婚」というものが存在もした。「家と家の格が合う」ことを求められたのである。

 我々の団塊の世代からであろうか、「恋愛結婚」という言葉がもてはやされ、お見合い結婚は古い形と決めつけられた感もあった。ひどい親では「どこの馬の骨と結婚するんだ」とまで言われる始末だった。

 

家系に係る結婚の形

 それぞれに一長一短があり、どちらが良くてどちらが悪いとも決めつけられるものではないが、我々が結婚する当時は、「お見合い結婚」は分が悪くなりつつある時代だった。私は、典型的な恋愛結婚だが、お見合い結婚の最大の利点は、お互いの幼少期の育った環境が似通っていること、そして、親同士も話がよく合うということであり、嫁姑問題も比較的軽微で済んだという利点があった。何かあれば、親同士で話を付け、それぞれの子どもに苦言をと言う形で納められもした。

 

跡継ぎ問題

 そうした家には、跡継ぎ問題と言うのもあった。誰が家督を継ぐかである。家格を論ずるような家庭は、家屋敷は勿論のこと、田畑・山林などの財産が多くあったことからそうした財産の跡継ぎ、両親の面倒、お墓を守るなどの「・・・家」として誰が引き継ぐかという跡継ぎ問題である。昔はそうした財産が、高価でもあり、「財産目当て」になどと揶揄される人たちまで現れるようなことさえあった。

 しかし、今や家も比較的簡単に手に入る上に、処分するのが難しい財産などをもらい、挙句の果てに年老いた両親の世話までしなければならない立場というのを敬遠するようになってきたのも分かるような気がする。そして更に、少子化問題も加わった。

 

喪主が変わる訃報欄

 毎日、新聞の訃報欄をいつしか見るようになったが、喪主の記述がその複雑さを表している。長男の嫁に始まり、次男、長女、次女、長女の夫、孫なんてものまである。昔は余程の事情がない限り、「長男」だったのである。

 我が家は幸いにして、子どもがいる。男が二人である。どちらが跡継ぎになってくれるやら、誰が私の喪主になってくれるのか、「妻」にだけはしてもらいたくないと思っているが、それも「あり」かもしれぬ。

 

 

田舎の鳥追い行事

パソコンの立ち上げに大苦労

 パソコンを新しくした。立ち上げまで時間が掛かり過ぎ、イライラするので体に悪いと思い買い替えたものだ。そして、新しいパソコンの立ち上げで苦労している。このブログは、情けないことだが、古いパソコンで書いている。いつになったら新しいパソコンで書けるようになるか。

 

昔の鳥追い行事

 さて、今日の話題は ”鳥追い” 行事である。私たちの地域では、私たちが子ども頃からやっている行事だが、時代の流れと共に色々とやり方が変わってきた。

 私が子どもの頃は、家の近くに畑があったが、その畑の空き地に藁で小屋を作り、そこで一夜を明かすということから始まり、地域の小グループでやっていたそうした活動もやがて、小さな地域が部落全体でやることになり、JRの駅前で同じように小屋を作り子どもたちがそこで一夜を明かすようなことに変化した。そして、更に、藁で作る小屋はなくなり、テントで小屋を作り、神棚を作り、そこへ部落の住民がお正月のお飾りを持ってきて集めるようになった。

 

今年の鳥追い行事

 今年も、同様のテントを張り、お飾りを集め、そこでお飾りをまとめて燃やす行事、それを我々は、”鳥追い”と称している。会場では、お酒を用意し、お飾りを持って集まる人たちにお神酒と称して、少々のお酒を振舞い、お正月はどうだったかといった話題でしばし歓談するのである。

 当然ながら顔見知りばかりではなく、「あの人、どこの人?」なんて聞く場面もある。年寄りばかりではなく、親に言われてくるのか、若い人たちも来るからである。

鳥追いの会場(左:神棚、右:お飾り置き場)   朝日に映える朝霜

 頼まれもしないのに、役員だったよしみから接待役を申し出て、部落の人たちとの歓談の相手役(先方が私の相手役かも?)をしているうちに、酔いが回ってきて、写真も上の1枚しか残っていない。

 一昨日は、そうした活動をした役員仲間で打ち上げ会を実施した。昔の鳥追いのやり方の話や会場へ来てくれた人たちの話やらで盛り上がった。これで、今年も良い年になる。

 

朝霜

 数日続いた季節外れの暖かい日も昨日で終わりらしく、しばらくぶりに朝霜が降りた。朝日に映える植木に降りた、霜を携帯で撮ってみた。うまく撮れなかったが、雰囲気だけは分かろうというものである。

 朝起きると、居間やお勝手のストーブに点火し部屋を暖める。そうして朝食の準備である。今日は何にしようかと、毎日考える。これが年寄りには ”頭の体操” になる。

 さあ、今日も一日頑張ろう! 今年も良い年になりそうだ!

ネクタイ

今年の成人式

 今年は、成人式が1/8とか1/9とかに行われたらしい。それも、18歳以上が成人となったことで、「20歳を・・・する会」とか名前を変えて行った自治体が多いと聞く。かって、我々の時代、今から半世紀も前の話になるが、成人式は1月15日と決まっていた。成人式の服装はと言えば、女性は着物、男はスーツ姿である。

 

ネクタイ・スーツ姿

 男の場合、ネクタイを付けることで、何か、大人になった気分がしたものだった。そして、会社の入社式である。今でも取ってある入社式の時の同期全員と会社幹部と撮った写真は今でも大事にとってある。

 それ以降、会社でも毎日出勤はネクタイにスーツ姿、会社に入れば上着を脱いで会社の作業服姿になるというのが、事務職で男が働く姿だった。

 

昔の祝日・今の祝日

 ところが最近は、成人式は1月15日と決められた日でなくなり、何月の第何日曜といった日付に成人式ばかりでなく他の祝日の多くがなってしまった。どうしてこうなってしまったんだろうと思う。

 そして、会社へ行けば、ノータイといい、ネクタイをしないのが普通になってしまった。ここ10年位の間に会社員になった若者は、ネクタイの締め方も分からないのではないかと思われる。ネクタイをして、シャキッとする感覚なんてものは知らない会社員がごまんといるのである。

 

賀詞交歓会、ネクタイの魔法

 今日は、自治体(市)の賀詞交歓会だった。コロナの影響でここ数年開催を控えてきたが、今年から再開である。しばらくぶりにネクタイをしてスーツを着て出かけ他。昔の癖で、二日酔いでも、元気でなくても、身も心もシャキッとするから不思議である。2日前に会った人でも、「おめでとうございます。今年もよろしく」と挨拶を交わすと

これがまた一味違った気分になるから不思議だ。ネクタイの魔法である。

   賀詞交歓会の様子              式次第

地域の役員には誘いはない

 会場に入ると、受付を済ませ、また知り合いと挨拶を交わしながら着席。開会まで、農業委員の人たちと雑談。そう言えば、この賀詞交歓会に出るようになったのは、6年前農業委員になってからだった。その前に地域の役員を7,8年やっても全く誘いがなかったのに、農業委員になった途端、賀詞交歓会への出席要請があったことが不思議だった。私に言わせれば、地域の役員の方が余程自治体にとっては重要ではないのか。地域役員をしている間、全くそうした案内は無かった。

 

議員たちとの社交の場

 会が始まる。市長が冗談を交えながら、市の今後の見通しなどを話す。続いて主催者の商工会議所、国会議員、県会議員、市議会議長と続く。こうした賀詞交歓会は、そうした人たちが集まる、挨拶をしあう社交の場と化している。

 主催者が商工会議所では仕方がないが、自治体(市)が係わっている以上、もう少し、住民と直接接している地域役員を大事にしてもらいたい、と感じて会場を後にした。

 

 

演歌の巨匠たち

 大好きな演歌の話である。今年もカラオケ仲間で演歌を楽しめたらと思っている。演歌を楽しむ人と言うのは、「心」を大事にする人だと勝手に思い込んでいる。そして、なにがしかの「心の歴史」を持っている。

 

巨匠、作曲家、作詞家

 「ザ・偉人伝」という番組で、作詞家 阿久悠、作曲家 三木たかし、作詞家 岩谷時子を取り上げた。この番組を見るまで、岩谷時子の名前もも知っていたが、人となりは分からず過ごしていたことに気付いた。 

  作詞家 阿久悠      作曲家 三木たかし      作詞家 岩谷時子  

  番組では、対象者があっちこっちして、年寄りの頭ではなかなか切り替えが出来ず、作品名で、これは阿久の話か、三木の話か、岩谷の話か聞き分けたりしていた。ブログを書くにあたり、ネットで色々調べて書くことにした。

 

岩谷時子

 まず、女性ファースト、岩谷時子から入ろう。岩谷はいわゆるいいとこのお嬢さんのようだ。「岩谷」と言えば、加山雄三の歌を思い出す。ともかく、加山の歌と言えば、「作詞 岩谷時子、作曲 加山雄三!」というフレーズが前振りで必ず始まったことを覚えている。意外と、越路吹雪の付き人、マネージャーだったことは知らない人も多いだろう。

 越路吹雪の影響で、シャンソンなどの訳詞などもしていたが、歌謡曲・演歌と言えば、「恋のバカンス」「君といつまでも」「良いじゃないの幸せならば」「恋の季節」など、訳詞の「愛の賛歌」とは違った、楽しく明るい歌が多い。性格がそうさせるのだろうし、幼い時の歴史がそうさせるのかもしれない。

 

阿久悠

 演歌の王道、阿久 悠だが、生まれは淡路島。警察官の父のもとで育ったらしい。兄であり長男である深田太郎は作曲家で、阿久 悠とのコンビの楽曲も存在するらしい。親に反発し家を飛び出した阿久は、明治大学を卒業後広告代理店に入社し、テレビ関係の仕事から作詞の道に入ることになる。「父は警察官で、何も残さなかったが、自分の障害になるようなことはしなった」とも言っている。

 現在でも、若い人の歌では、感性や実体験の歌が流行り、阿久のような叙情的な歌(演歌)は、一部の若者や年寄りに受けることになっている。しかし、言葉足らずの、詞のそれぞれに想像させる文言があり感心させられる。

 

三木たかし

 三木たかしは、貧困家庭に育ったようだ。妹に歌手 黛ジュンがいることは有名である。亡くなる3年前に喉頭がんで声帯の一部を切除したことも記憶に新しい。

 ともかく作風は幅が広い。阿久悠とのコンビで「君よ抱かれて熱くなれ」や「津軽海峡冬景色」、荒木とよひさとのコンビで「メダカの兄弟」「つぐない」「愛人」なども三木の作曲である。

 

創造の産物

 作曲も作詞も想像の世界の創造物なのろう。独身を通した岩谷時子が、「恋の季節」や「君といつまでも」の楽曲を残したり、阿久悠荒木とよひさとのコンビで「津軽海峡冬景色」や「愛人」などの楽曲を作れるのも創造の産物である。

 そして、阿久悠が、シンガーソングライターに対して「自分のことや自分に近いことしか歌っていない」と終生批判的だったのも分かるような気がする。叙情的で創造の産物でなければ歌ではない、と言わんが如くである。

 私も、ブログではなく、自分で創造した小説などを一度書いてみたいと思っているが、いつになるやらであある。一流でないので仕方ないか・・・。

人を残す

一関市国民健康保険藤沢病院

 昨日からブログに書こうとしていたことがあったが、今朝の新聞を見て、こちらを先にと思った。読売新聞「展望2023」である。人口約7200人の一関市旧藤沢町(藤沢地域)の病院についての記事だ。

一関市、藤沢病院(ネットより)

私たち地域の昔の診療所

 私たちの街・地域にもかっては病院があった。診療所と言われる医師と看護婦が一人ずつの小さな町の診療所である。このお医者さんは往診もしてくれた。

 このお医者さんには感謝しかない。よく覚えていない小学3年の時に肺の病気にかかり3学期を全休した。そして小学6年の3学期も全休した。これは心臓弁膜症とこの医師に診断され、東京の東京女子医大の榊原医師に見せてきなさいとアドバイスをもらった。その結果、中学高校大学と運動は一切やらず、会社へ入社。そして、仕事の関係で世界をあちこち歩いた。そして30歳の頃だったと思うが、毎年、会社で受ける検診で「もう治っていますよ」と言われた。そう言えば、田舎の診療所のこの医者は、「後天的な心臓弁膜症なので、治る可能性もありますよ」と言っていたことを思いだした。

 

立派に再建なった藤沢病院

 当時の田舎のお医者さんは、地域全部の人たちの病気の経緯などを頭に入れていた、頼りになる医師だったのである。冒頭の記事は、そんな田舎の病院のことである。でもネットの写真を見る限り、大きな病院に現在では成っているらしい。 

苦境にあえいでいた当時(1980年)から現在に至る経緯(2度も大臣表彰)

 上記の沿革にも書かれているが、診療所経営に行き詰まり、1980年に診療所を閉鎖し、その後1994年から「一関市 藤沢病院」として再出発した後の経緯である。

 この間の物語を、「展望2023」で紹介している。恐らく、これだけ大きくなれば、藤沢地域だけではなく、一関市の基幹病院に現在では成っているのだろう。1994年に開所当時は、「長時間待たされる、診察もしないで薬を出す」などと評判が良くなかったらしい。それを立て直した医師がいた。

 

立ち上がった住民と病院

 その方法とは、地域の住民との交流だった。「藤沢病院を支える会」を結成し、病院改革がなされた。その後苦情も収まり、改革を続けた。2021年には、亡くなった患者の家族12人から134万円が寄付されたという。それは、住民たちの「たった一つの病院をなくしてはならない」との思いからだという。こうした住民の活動は、病院に関する通院の送迎、除雪、配食にとどまらず、地域全世帯で実施する草刈りで田園風景を維持している。その結果、新住民を呼び込み移住者が66世帯中10世帯にもなっているという。

 

自分ができることは全部やる

 我々の地域でも、農地を持っている住民が集まり草刈りなどで田園風景を維持しているが、一般住民まで巻き込んだ活動にまで発展していない。この地域に移り住んだ住民は、「自分が出来ることは全部やっている。自分たちで地域を守っていく」との強い決意を述べている。狩猟免許をとり鹿を駆除、消防団も担う。農地整備完了後には、移住者たちが農道の草を刈り、地域全体で農地を守る構想だという。

 

後藤新平岩手県出身)のことば

 最後に、岩手県の政治家「後藤新平」の言葉が出てきた。

人のお世話にならぬよう。人のお世話をするよう。そして酬いを求めぬよう

ネットで、後藤新平の他の言葉を調べた。よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」が、最後の言葉だったようだ。

 住民の力、人の力である。

おとうさん! 早くやってェー!

  昨年末の頃、昨年亡くなった有名な女性の話題を取り上げていた。写真家、笹本恒子さんと服飾デザイナーの森英恵さんだった。

 

昭和40年の頃の「男と女」

 最近は、団塊の世代が75歳以上になるのがここ1,2年だそうで、そうなると日本の人口の1/4位が75歳以上になるらしい。この年代が高校生・大学生、社会人になった頃、女性の台頭は目覚ましかった。

 私もその中の一人だが、そうしたこれから社会へという時代、前の時代の人たちが親たちでいた。「女だてらに」とか「女のくせに」というような言葉が流行り、一方で母親たちも「女性らしくしなさい」とか、女性は家に入ってご主人の世話をしてあげられるよう「料理・生け花」などの習い事をしなさいと言われたものだった。

 

男に負けないように

 しかし、我々の年代、つまり、団塊の世代に入り、「女性は男に負けないように」とか「男にできることで女に出来ないことはない」などと女性たちがこぞって言い始めた時代でもあった。冒頭にあげた笹本さんにしろ森さんにしろ、そうした女性の先駆者だったのだろう。

   笹本恒子さん(1914年-2022年)   森 英恵さん(1926年-2022年)(ネットより)

お茶汲み女性の存在

 私たちが会社に入社した頃、配属された課や部には、必ず「秘書」と言われた女性がおり、部・課にはお湯の魔法瓶・急須・茶碗がお盆に載せられ、職場の一角に置いてあった。男は、随時、このお茶をついで飲み、そうした茶碗を洗うのは秘書の役目、つまり女性の役目だった。こうした「お茶汲み作業」をするのは女性の役目だったが、10年もするとそうした作業を女性がするのはおかしいと言われ始め、その役目も消えていった。

 

男勝りの女性

 そうして時代が進み、ダンプの運転手やコックなど男の職場と言われた職場にも女性が進出していった。冒頭の女性たちは、「肩肘張らなくていい」「男に出来るもので女に出来ないことはないなどと言わなくていい」と言う。世界に羽ばたいた女性の言葉である。そして、「つまらない生活は嫌」「楽しまなくちゃ」とも言う。

 そうした時代背景で育った身として、「その通りだ」と思うが、そうは言っても、「男上位」で育てられた身としては、どこかでそうした経験などが顔を出す。

 

男女の適性

 考えが古いと言われてしまえばそれまでだが、孫が来て、孫の相手や世話をするのは女性(妻)が圧倒的に上手である。相手を思う細やかな気遣いも女性にかなわない。我々の年代の男に「しろ!」と言われても出来ないだろう。「女に出来るもので男に出来ないものは一杯ある」のである。

 思春期を迎え、男が女性を恋しがり、女が若い男を恋しがる。考えてみれば、すごく不思議である。年取った男が、年取った女が、そんなに異性を恋しがることはない。一部の例外を除いて。これが、動物の本能という訳だろう。

 

女と男の適性

 元々、男にはやるべきこと、出来ることがあり、一方、女にもやるべきこと、やれることがある。言葉を変えれば、男にも女にも性別によって適したことがある、というのは言い過ぎだろうか。

 遠くで、妻が、「お父さん!・・・早くやって!」という声が聞こえる。