ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

世界おもしろ昔のはなし⑯

通勤時間の過ごし方

 

 毎朝、マニラのマンションから車に乗り込む。ちなみに、このマンションという言葉、日本では普通に使うが、「Mansion」とスペルで書き、英国式である。フィリピンは米国式なのでコンドミニアム(通称:コンドミ)「Condominium」と書く。高速道路2本を乗り継ぎ(一部、未完成部分があり、一般道路を30分ほど走った)、約1時間半ほどで会社に着く。その間、マニラ新聞という日本語のタブロイド版の新聞を端から端まで読みつくす。この日本語新聞が、8ページくらいだったと思うが、ともかく情報満載で、広告欄迄が日本レストランの情報だったり、結構便利な新聞である。

 最初の内は、途中の風景を眺めながら、運転手と話しながら通勤していたが、その内話もなくなり、新聞を読んだら、今日の仕事の準備に頭を慣らす時間となった。時には、朝礼で話す内容を整理する時間にしたりした。やがて、一般道路を抜け、舗装が完成した短い枝の高速道路に入り、しばらく走ると工業団地に近い出口を降りる。それから10分もすれば会社がある工業団地に着く。そしてガードマンのいる工場のゲートを通り、工場建屋の玄関ポーチに着く。車を降り、途中、従業員に挨拶をしながら自分の席に着く。

 

試される英語力 

 仕事そのものは、今まで工事のプロジェクトを遂行してきたことを考えれば、どうってことのない仕事内容だった。かって、上司から「『どうしたら良いですか?』という質問はするな」と言われ続けてきた。つまり、一人称で、「こうしたらいいと思うのですが、いかがでしょう?」という問いかけをする癖が付いていたので、扱う品目や状況が変わっても、自分なりの結論や指示に悩むことはなかった。

 唯一違ったのは、連日、英語力をためされ続けたことである。今まで諸外国で、エンジニアやプロマネとして現場を仕切ってきたときは、英語を話すのは、時々、お客と話すとき、下請けと話すときなど、限られた短い時間だった。しかし、工場・会社となると、英語を話す人間との会話が全てだった。従業員はもちろんのこと、英語でないと分からないお客も来た。つまり日中は、英語浸けの状態になるのである。英語を話すのが好きではないが、それでも、やむなく話さなくては商売にならぬのである。

 

下手でも情熱を伝える英語

 工場長や社長という商売は、職人ではないので、やって見せろと言われてもできない。従って、自分の思いを従業員一人一人に伝え、それを実行してもらわなければならないのである。その伝える手段が英語という訳である。つまり、単に英語を通訳のように話せばよいとという問題ではなかった。話して、理解してもらい、実行してもらう必要があったのである。下手な英語でも良い、その言葉には、思いや情熱といったものを相手に感じ取ってもらわないといけないのである。

 

朝礼

 赴任したその日から全従業員の前で話をした。その時の原稿を今になって取っておけばよかったと思ったが、残念ながら原稿もなければ、内容も覚えていない。ただ、当然ながら、空で話は出来なかったので、原稿を見ながら話した記憶がある。その後も朝礼のたびに話すことになったが、回を重ねるごとに原稿を見なくてもできるようになり、要点だけを書いていたメモさえも見ないで、その時思うことをその場で話せるようになっていった。その意味では、半年間の工場長という立場が幸いした。英語力がそれほどなくても社内的な話ばかりなので、自分の身内に対する英語で良かったので、メモしようが、原稿を読もうが許された。そうして、半年後に社長という立場になった。

 

社長就任

 ここまでくると、英語力の問題ではなかった。社長というのは、会社の代表者である。対外的に、また、経営的に責任を持ち、利益を出し続けるという義務を負う。それ以上に、従業員の生命財産を守るという義務も負うのである。従って、愛情をもって厳しい要求もするようになるのだ。人生で初めての経験であることから、心したのは、俗にいう、威張り腐らないこと、今までの工場長の延長で行こう、と決めた。

 フィリピンでは、社長や工場長は、「Sir(サー)」と呼ぶ。日本なら、「社長」とか「工場長」と呼ぶが、サー、なのだ。名前は基本的に呼ばない。エンジニアとして赴任したなら、名前を呼ばれる。セクションマネージャー(課長)であっても、マネージャなどとは呼ばない。

    (次回は、いよいよ、代表者としての仕事開始である。続く・・・)