ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

世界おもしろ昔のはなし⑳

 一日の行動を綴っている。通常の仕事としては、前回までの報告の通りだが、そこにはいろいろな変化がある。今回は、駐在中で一番楽しい、仕事終わってからの行動、休み中の行動などにも触れてみたいと思う。

 

退勤後の夕食

 こうして一日が過ぎると退社時間だ。だが、正規の退社時間に帰ることは殆どなく、1時間程度の残業は当たり前で、毎日、夕方6時過ぎになるのが通例だった。そうして、日本人同士で、夕飯は何処で食べるかを相談し、途中の工業団地にある「一本槍」という日本食レストランかマニラ市内のリトルトーキョーという地域にたくさんある日本食レストランで落ち合い皆で夕食を囲むのだ。基本は割り勘。皆イーブンの関係で、上司、部下と言うより、同士、友達感覚だった。

 

海外での日本人同士のお付き合い

 海外への出張、駐在の場合、家族同伴でなければ、日本人同士の仲間意識が強く、一緒に行動する、情報交換をお互いにする、というのは、いわば、常識のようなもので、同じ社内も他社の人とも同様のお付き合いをさせてもらっていた。

 もっとも、私は同僚、仲間と思っていたが、他の駐在社員がどう思っていたかは定かではない。でも、彼らが帰国直前まで、お付合い頂いたことを考えれば、あながち、当らずとも遠からず、と言う所かと思う。

 

同僚駐在員

 同僚駐在員の紹介をしよう。会社の製造品目によって駐在者が変わるが、当時、会社では、プリンターに使うゴムローラーや車に使うブレーキホースなどのゴム製品、それと大きな柱が、自動車用細物電線の製造だった。そういうことから、親会社の二つの工場から一人ずつのエンジニアと営業部門から一人、経理部門から一人、そして、私という日本人5人体制だった。私が赴任したころは、前任の社長もいたことから日本人が6人いた。しかし、年齢も離れ、考え方が合わない前社長は、私の赴任当初から一人別行動をとっていたので、どんな生活をされていたかは定かでない。当然、毎日の夕食に同行するというようなことはなかった。

 

世界の料理 

 フィリピン生活の中で、この夕食時間が一番楽しい時間だった。最初は全員がマニラ市内に住んでいたことから、マニラ市内で食事することが多かった。赴任当初は、各国料理を”しらみつぶし”に回った。マニラは世界の大都会である。フランス料理、ドイツ料理、地中海料理、インド料理、中近東料理、中国料理など国際色豊かなレストランが数多くあった。毎日違う料理を食べに行った。物価が安いフィリピンであるから手ごろな金額で食事が出来た。その中でも日本料理が一番高かったと記憶している。高かったといっても、お酒を飲んでも2000円、3000円位ではなかったかと思う。中には、ショー付きのレストランまであった。

 

日本食レストランでの食事

 数か月もすると、マニラ市内のレストランは、名前を言われればどこそこにあるといえるほどになった。こうなってくると、色々な国の料理にも飽きて、やはり日本食となる。そして、一番多く行ったレストランが、冒頭に書いた「一本鎗」だったのである。 

 こういった時のリーダーは、いつも経理担当の皆川さん。一人当たりビールを1本(300ml程度)注文し、後は、そこの目玉料理を次々と注文してゆく。これは、出来そうで出来ない芸当で、実に手際よくこなした。ビールがなくなれば、際限なく、誰かがもう帰りましょうと言うまで頼み続ける。しかし、これでは酔わないとばかり、いつもの馴染みの店では焼酎の4合瓶をキープしておき、お湯割り、水割りで飲んだ。給仕役のフィリピン女性店員をからかい、誰かが昨日行ったカラオケのホステスの話など、たわいもない男性同士の話は尽きない。一日で一番楽しいとでも言っても良いだろう、そんな一時だった。

 

帰宅 

 一人一人がドライバー付き専用車だった。車付きというのは誠に便利なものである。いくら飲んでも、寝ていても家までたどり着くのである。

 酔いに任せ、ドライバーと話をしながら、家に帰るのである。お付き合いで、飲み過ぎた時など、お客をお送りし、自分の車に乗った時から意識が無くなり眠りこけ、コンドミの駐車場で、午前2時頃まで、眠り続けたこともあった。こんな時は、ドライバーは、私を起こさずそのままにしておくようだ。どうも、日本人への遠慮もあり、また、そのままにして置いても勤務時間が長くなり、残業が沢山付くことから得策なのだ。

 

 こうして1日が終わった。色々のパターンはあるが、最初の1年、2年はこのようだったが、赴任翌年には、私自身、マニラ市内から隣町、アラバン地区に住居を移動したこと、私と皆川さん以外は、二人のエンジニア、営業担当の3人が帰国し、代わりの人達が入国してきたことで、なかなか、昔のように一緒に行動すること自体が少なくなっていった。

 後で述べるが、この頃から自炊をする機会が増え、料理を趣味にし始めたのである。

           (次回へつづく・・・)