ミドさんのブログ

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中国の大返し

 歴史上の出来事を、いかにいいかげんに聞いて、知っているような錯覚をしているかをいやというほど味わった。備中高松城と聞いて、高松城だけを取り出して、漠然と四国の高松と結び付けていた。私だけかもしれない。関東の人間は、関西のことはよく分からず、こんなものというのは言い過ぎだろうか。関西人でも、同じような間違いを関東地方に対してするかもしれない。よく考えれば、瀬戸内海を渡って、「大返し」なんてことは考えられないが・・・。さてさて、その話題である。

 

トンデモナイ「大返し」

 本能寺の変で、信長が明智光秀に急襲された前後の話。秀吉がその時、中国地方の平定で、備中高松城を水攻めにしている最中だった。ここで、急遽、京へ戻った秀吉が、光秀を討った場面での一連の出来事は、わずか半月程度の間に起こったことで、その中に、「中国の大返し」がある。中国地方から京まで240㎞をわずか10日ほどで舞い戻った秀吉の行動について、その話題を取り上げていたテレビ番組があった。つまり、1日20㎞の行軍は大したことないのではと思う人もいたが、当時の事情を知れば、トンデモナイことをやった、ということを「なるほど」と思わせた。

 ただ単に、歩くだけならそりゃー4km/時間としても、5時間も歩けば20㎞/日は軽い。しかし、2万も3万もの軍勢を引き連れ、この人たちの身なり、甲冑などの重さ、食料の多さ等などを番組で紹介し、考えさせ、気の遠くなるほどの大変さだという。

 そこで、改めて、ネットで公開されている歴史上の事実をひも解いてみた。なるほど秀吉の行動、思考は ”ただものではない” ということが分かる。この辺に触れてみたいと思う。

 

秀吉の情報力と器量

 もともと、「大返し」をしなければならなくなった理由である。色々な説があるそうだ。信長より、中国地方の平定を指示され、備中高松城を攻めあぐんでいた秀吉が、信長の死をどうやって知ったか。明智光秀から毛利輝元への密使を捕まえて密書の中身を見て知ったというのが通説のようだが、このような情報は、当時、風聞としていくらでも出回っており、信用するにはそれなりの理由があっただろうという。更に付け加えるなら、信用に値する情報と分からなければ、すぐに、何万という軍勢を京まで引き返すという決断はできなかったという意見ももっともである。

 秀吉は、自分の競争相手、ライバルと目される人物の近辺には、忍びを放ち、情報をとっていたというのは有力のように思える。そして、ある程度、予感もしていた、という意見も当たっていたと思われる。人力でしか情報を得られない時代に、情報をとる相手、取らせる人物などを見る目が、秀吉にあったということだろう。

 更に付け加えて、何万という軍勢を180度方向を変えさせ、今まで持久戦覚悟の水攻めの ”静” から一気に最高速度で引き返すという ”動” への転換の早業は、部下の人心をしっかり捉えていない限り無理なことと考えられる。この辺にも、秀吉の器量が見え隠れする。

 

秀吉の読み

 当時、最大のライバルは、家康。家康は、この時、信長から勧められた京見物に興じており、更にライバルの柴田勝家も越後攻めにかかっていた。その他、名だたる諸将は、四国攻め、中国攻め、越後攻めなどに奔走しており、京の近辺にいたのは、光秀寄りの諸将が主だったようだ。従って、こうしたライバルたちの動向を承知していた秀吉は、どの位で光秀を討てば、戦後の話が自分に有利に働くかを既に計算していたとみられ、備中での反転から、わずか10日足らずで、山崎の戦いで光秀を討ったのである。

 家康も、光秀の謀反を知り、命からがら三河に逃げ帰り、光秀討伐の陣容を整えるまでに時間がかかり、また、柴田勝家も越後攻めから、急遽、海上を自分の居城、陸前北ノ庄城まで戻り陣容を整え出陣するまでには、秀吉は、既に、光秀を討っていたことになり、実に、その「たった数日の差」が、その後の清須会議で秀吉に有利な展開となり、秀吉の天下を導くのである。

 この当時の情報戦と読み合戦、そして、運も味方したといえるかもしれない。そういう意味で、「中国の大返し」は、早さもさることながら、世紀のどんでん返しもあっての「大返し」と言えるかもしれない。

 

 情報の氾濫する現代においても、情報の取捨選択、情報を流す人、情報を利用する人にも当てはまり、「たった数日の差」を大事にすることが肝要だろう。

             (次回に続く・・・)