ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

私に過失はない

池袋暴走事故で2人死亡

 2019年に起きた池袋暴走事故で2人が死亡し、9人が負傷した。亡くなった2人はお母さんと子供でであり、その事故の公判が昨日開かれ、夫であり父親だった松永拓也さんが出廷し、飯塚被告に質問をした場面での答えである。

 

公判で、被害者家族、被告に家族質問

 松永さんは、捜査段階で飯塚被告が「アクセルとブレーキを踏み間違えた可能性がある」と供述していたにもかかわらず、一転して、「私には過失はない」と全面否定した理由を問いただすと、「取り調べで、過失を認めた方が刑が軽くなるという主旨のことを言われ、違うことを言った」と述べたそうである。

 

一般的には・・・

 通常、一般の人間は、刑が軽くなるからという理由はなくても、「ひょっとしたら、アクセルとブレーキを踏み間違えたかもしれない」と思うのは普通ではないだろうか。「一切過失がない」と主張するのも、弁護士に、「そう言いなさい。そうすれば、刑が軽くなりますよ」と言われているからなんだろうか。どこまでも「自分には過失がない」と主張し続ける理由がよく分からない。

 

自動車が悪いなんてことは・・・

 自動車は機械である。従って、異常な現象が起きることがあるかも知れない。しかし、さまざまなデータが、ブレーキを踏んでいないということを表しているという。こういった場合、どこまでも「私は過失がない」と主張し続けたら、無罪にでもなるんだろうか。絶対にあり得ないと思う。もし、今回、あやふやな判決を言い渡すようなことがあったら、同種事故では、みんなが、過失を主張続けることになるだろう。非常に重大な注目すべき判決である。

 

今後の事故に影響を及ぼす判決

 同種事故を起こした人は、みんなが運転は出来ると信じていた人ばかりである。しかし、事故は起こしていないが、免許証を返却する人もいる。そのような人たちは、「ひょっとしたら、勘違いで、運転を誤るかも知れない」という不安から返却を決断するのである。「自分は、絶対に間違うことはない」と自信過剰な人は、飯塚被告のようになるのだろうか。「人間は間違う動物だ」「私も間違うかもしれない」と思う方が、人間的であっていい。

 

2人が死亡した事実は変わらない

 自分の過失かどうかは別にしても、自分が所有していた車で、他人の大事な妻子を死亡に追いやり、残された家族にも悲しい思いをさせていることは事実なのだ。

 チョット意味合いが違うかもしれないが、自分の家のブロック塀が地震で倒れ、人を傷つけても、地震が悪い、ブロック塀が悪い、私には過失はない、と言い張るのだろうか。せめて、罪になるかどうかは別にしても、「間違ったかもしれない」くらいは言って欲しいものである。被害者も家族も浮かばれるだろうし、人生を90年も生き抜いてきた被告なんだから。

                   (つづく・・・)