ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

瀬戸大橋

 私たちには、一般的な「瀬戸大橋」より「本四連絡橋」の方が通りがいい。一昨夜、テレビの番組で、瀬戸大橋のドクメンタリーを放映していた。

 テレビの放映は、ケーソンと言われる橋の橋脚の工事で四国側工事事務所長をしていた杉田秀夫さんを取り上げていた。通常、橋の橋脚を作る場合は、矢板工法と言われる橋桁の大きさに四角に矢板を組み、その中にコンクリートを流し込むという工法をとるが、矢板に相当する枠組みを現場で作るのが現場状況から難しいことから、枠組みそのものを近く(岡山)で作り、それを浮かして海上輸送し、現場でそれを沈設するという工法が取られた。この枠組みの大きさ、重さが半端な数字ではなく、常識では考えられない工法だった。この工法の発案・実行者が、冒頭の杉田秀夫さんだったのである。

 この工事するまでの間の杉田さん及び家族、そして同じ工事事務所の部下の様子を描いたドキュメンタリー番組だった。杉田さんは、それまで国鉄(JR)職員だったが、出向を命じられたことを機に、片手間ではできないと一大決心をして、国鉄を退職して、本四連絡橋公団に移籍した。そして、家族思いでありながら、仕事一筋に勤めた。しかし、襲い掛かる不幸。一番応援してくれていた奥様をガンで亡くした。それまで一切奥様の病気のことは、士気が落ちると、部下には一切告げなかったが、さすがに、お葬式では仕事を休んだ。そのお葬式では、途中、抜け出して仕事に復帰ということもした。この時ばかりは、自分の母親にもなじられたそうである。

 この基礎が無事据え付いた後は、今度は一転して、3人の娘の世話に明け暮れ、そして、62歳という若さで生涯を閉じた、という伝説の人である。現在では坂出市、瀬戸大橋記念館に銅像が建てられている。

 

 なぜこのドクメンタリーに興味を持ったかと言うと、30歳の頃だったと思うが、会社で先輩たちが、これに係るケーブル(電線)工事の設計を長年やっていたからだった。通常は、数か月、長くて1年程度では終わる設計の仕事が、この仕事ばかりは10年位かかったように記憶している。

 当時、詳細設計に関与しておらず、お手伝い程度だったのでよく分かってはいないが、それでも設計の難しさはよく知っていたつもりである。

 この橋には、人・車ばかりではなく、鉄道も添架され、そして私たちが設計・製造していた電線(通称:ケーブル)も添架されている。ケーブルは電気を通すものであり、電気を通すと発熱し伸びる。こうした現象は一般的であり、そうした伸びをどう吸収するか工夫が必要になる。ケーブル設計者にとっては、こうした現象は、当然であるので、それほど難しいことではない。

 しかし、さらに加えて、これが一番の問題であるが、橋の温度差による伸縮、もっと大きいのは鉄道などの重量による伸縮である。つまり、何百トンという電車が通るときに、部分的に橋が沈み込むのである。この長さを吸収する装置を考えておく必要があった。この沈み込みはいくらだったか覚えていないが、数mであったと思う。電車が橋脚を通るたびに、1日何回となく沈み込むのだ。橋脚の沈み込む形状を想像すれば分かるが、左からくる電車、右からくる電車では沈み込む形状が異なる。同時に左右から来れば、さらに複雑な形状となる。まっすぐに電線を敷設しておいたのでは、引きちぎれてしまう。そういった現象を実証するため、設計や実験が繰り返された思い出である。

 

 このドキュメンタリーに出てくる、杉田秀夫さん、こういう人物が日本にいて、この発展があり、大きなことが成し遂げられて来た。その杉田さんが、母校丸亀高校の講演で、下記の言葉を残されている。

『橋を作る経験が人より余計にあったからといって、これは人生の価値とは全く別の

 ことなんです。人生の価値とは何か・・・偉大なる人生とは、どんな人生を言うの

 か。これは非常に難しい問題なんです。戸大橋を作るより、はるかに難しい問題

 なんです。』

          (次回につづく・・・)