ミドさんのブログ

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 フィリピンでの単身生活は、現地会社に赴任したためだったが、この会社に赴任したことで人生にたった一回の貴重な経験をした。ここ数回のブログで、フィリピンでの生活や風習、フィリピン人の性格などを書いてきたが、これからの三、四回は少し堅苦しい話になることをご了解いただきたい。

 

フィリピンの生産会社

 二〇〇三年11月4日から二〇〇九年5月29日までの約5年6カ月、フィリピンの現地会社に赴任した。この会社は、親会社100%出資の会社で、当時、月2億円ほどの売り上げの小さな会社だった。生産品目は自動車用細物電線、プリンター、複写機などに使われるゴムローラー、更には、4輪車に使用されるブレーキホースなどを生産していた。

 

フィリピンでの役目

 その会社で半年は、工場長として、更に残りの任期5年は社長として貴重な経験をさせてもらった。サラリーマン時代39年を通して、常に、自分の考え方を纏めて、上司にお伺いを立て、決断を仰ぐというやり方をしてきたことで、その延長線上での仕事であり、やり方に窮したことはなかったが、これから報告することだけは特別だった。

 日本で、系列会社に入り社長になる人もいたが、日本の場合は、常に親会社の役員の意見も考慮にいれる必要があり、社長と言えども部長と何も変わらないなーと思ったこともあるが、フィリピンという外国にいるせいか、上司(親会社役員)に対する報告は、月一回の会社業務報告だけであり、報告を送っても意見らしい意見は戻って来ず、自分の思うままの運営が出来た。

 もっとも、売り上げが2億/月程度であった事から、親会社にとっては、赤字になろうが黒字になろうが、実質余り影響が無いというのが実態で、親会社の役員も興味が余り湧かなかった、と言うのが現実であったらしい。

 

会社としての課題

赴任して、すぐ気付いたことがあった。

 ①自動車用電線は、いずれ経営的に行き詰まる。

 ②規格、標準などは整備されているが、その実行はまだ十分に出来ていない。

 ③金銭的にルーズで、採算意識が欠如している。

これらの3点は、今後実現させることとして目標に定めた。

 一方、前任の社長は、「社長=偉い人」というイメージであったようだが、私は「社長=父親、兄貴」というイメージを持って貰えるようにしようと考えた。

 

経営環境の変化と従業員の解雇

 ややこしい話になるので、詳細は省くが、稼ぎ頭の電線製造が顧客の変化から経営的危機に陥り、撤退させないといけないことになった。製造品目の一部撤退が意味するものは、それに伴う従業員の解雇だった。当時、従業員は、370人~420人程度で、繁閑期、繁忙期で、50人程度、多い時で100人程度の差が生じていた。その内、電線製造にかかわる直接員・間接員は、合わせて90人程度だった。そして、二〇〇四年から、二〇〇五年で今までに利益幅が削ぎ落とされ、二〇〇六年には、一気に赤字転落することが確実視されたのである。

 

事業撤退の決断

 社長に就任したのが、二〇〇四年4月。そして、自分の中で、電線事業からの撤退を決め、親会社の社内手続き、根回しに回り、二〇〇五年早々には、親会社としても正式に撤退が決定された。つまり就任後1年も満たない決定だった。この決定は一部の親会社役員と私、そして経理担当だけが知る大決断だった。

 そして、フィリピンでの事業撤退とはどんなことかを、いやというほど体験させられたのである。フィリピン人というのは、人一倍家族思いである。このことが、大きくこの撤退に係わり、同時に、自分自身、同僚を命の危機にさらす結果となったのである。

              (以下、つづく・・・)