ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

終戦記念日の教訓

 8月15日の終戦記念日がやってきた。大変だったなー、というような、どこか他人事のような感じを受けていたし、今、この歳になっても、”戦争の怖さ” が、本当の意味で分かっていない気がする。

 

マンゴーの樹の下で~

 今日は、午後から2年前に放映されたテレビドラマ「マンゴーの樹の下で~ルソン島、戦火の約束」をベースにした放送があった。午後一杯の番組だった。戦後76年を迎え、生き字引の方々も大分亡くなって、本当の意味で戦争を伝える人が少なくなってきている。戦争の話は、私のような気の弱い人間には、どこか無残で、切なくて、最後まで聞けない話が多すぎる。また同時に、経験者にとっては辛い思いや残念な思い、悔しい思いなどが入り交じり、口に出したくない、伝えたくないという思いもあるのだろう。

 

在留日本人(民間人)の悲劇

 そうした中、番組は、太平洋戦争末期、フィリピンで生活していた民間人の日本人たちが、米軍の上陸で、ルソン島北部へ逃げた時の悲惨さを伝える番組が中心になっていた。女性と男性が半々くらいだったが、生存する沢山の方々が口を開いてくれた。番組の構成もあるのだろうが、悲しい切ない話ばかりだった。

 ある日本人とフィリピン人の間に生まれた子供(証言者)の二人の兄は、一人は日本人と思われ米国兵に殺され、一人は米国人と間違われて日本兵に殺されるという悲劇を味わった話。でも、この男性は言う。「戦争があった故に起こった悲劇だったのでしょう。当時の米国兵も日本兵も恨んでいない」。

 

子どもを見捨てる母親

 ある母親は、幼子を負ぶって、5,6歳の子供を二人連れて逃げたらしいが、ある洞窟の前で、子供二人に「ここで待っているんだよ」と言い残して洞窟に入った母親が、出てきたときには、幼子の姿はなかった話。その子供だった女性の証言。「当時の私は、子供心に、幼子は体が弱く、連れて歩くのはもう無理だと母親は思ったのでしょう。母親が洞窟から一人で出てきたときに全てを悟った。でも母親に何も聞きもしなかった」

 

食べるものがない

 逃避行をしているうちに食べるものがなくなり、現地のフィリピン人が作っている芋を日本兵が取っているのをまねて、取りに行ったそうだ。この話してくれた女性の弟が取りに行ったそうだが、弟はとるのが上手で、大きい芋ばかりを手に入れてきた。ところが隣の家族は親指ほどの小さな芋しか取れなかったらしい。でも、隣の家族に分けてあげる気力や気持ちも沸かなかったと証言している。

 

塩がなくなり戻る娘二人

 こういう状態になった時に困るのが塩だそうである。塩を食べなくなると色々な支障が体に出てくるそうで、塩を手に入れるために決死隊が結成された。危険を冒して今まで逃げて来た道を戻って取りに行くことになった。友達の年上の女性が手を上げ隊に加わることになり、この女性も手を挙げ、一緒に行くことにした。戦禍をくぐりぬけヤット塩を手に入れて帰ってきたそうであるが、最初に手を挙げた女性は、2日後に亡くなってしまった。肺結核だったそうである。その女性の最後の言葉が、「私が手を挙げたばっかりに○○ちゃんにも塩を取りに行かせることになってしまった。申し訳ないことをした」だったそうだ。

 

驕る平家は久しからず

 戦争は起こしてはならない、ことはもちろんである。「隣の芝生は良く見える」ことも確か。だが、今の世の中を見ていると、何でも、金、金、金。買えば済む。自分たちで何とかする、という精神に欠ける気がしてならない。確かに、金を使えば済むことは確かだが、自分の知恵や体を使ってという気持ちがもう少しあってもいいのではないか。

 また、番組の中で、当時のアメリカと日本の比較をしている。石油をはじめとした燃料などの資源は、アメリカの何十分の一、何百分の一だったのに対して、戦艦、空母、などの戦備は米国と肩を並べていた。そんなところから、戦争をしても勝てると思ったのだろう。

 世界を40年も歩いて来て、日本は立派な国になった、裕福な国になった、世界に誇れる国になった、ことは分かる。でも、人間は謙虚でいなければだめだ。「驕る平家は久しからず」という諺もある。勉強になった番組だった。

      (つづく、・・・)