ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

世界おもしろ昔のはなし(57)

 

 前回、会社としての「地域貢献活動」の一端を述べた。今回は、その二つ目の例である。

 

貧困従業員家庭訪問

 この活動を見ることで、本当の意味での、フィリピン家庭の貧困状態が理解できた。以降の人生に大いに役に立っている。日本の皆さんにぜひ紹介しておきたい。

 個人的に、フィリピン人家庭を訪問した事は幾度かある。会社の従業員家庭、ドライバーの家庭、カラオケのホステスの家庭、夜の女の家庭等などである。しかし、公式に会社の仕事として、個人の家を訪問したのは、この時が初めてだった。私が、同行する、と言い出したら、委員会のメンバーが驚いていた。前任者もそんな所に出入りすることは、流石になかったらしい。今まで見た家庭は、家族の何人かが働き、ほどほどに経済的に恵まれている家庭だった。そういった意味で、ともかくいい経験になった。

 

貧困家庭への援助物

 委員会は、まず、従業員から援助の申し出があると、本人から聴取したり、収入を調べたり、家を訪問して実情を確かめたりして、毎年、3家庭くらい援助する家庭を決める。何を援助するかというと、この時は木材だった。新製品用に日本から送ってきた機械の輸送梱包材である。輸出梱包であるから結構しっかりした材料で、柱など家の重要部分に使えるのだ。

 

いよいよ家庭訪問

 会社から一時間以上も掛る遠い所だった。こんな所から従業員が、ジープニーを乗り継いで会社まで通っているのだから頭が下がる。恐らく、ジープニーだとその倍の2時間位は通勤に掛るのではないかと思われる。

 程なくして、家の近くに着いた。そこから歩くのである。委員会のメンバーが、木材を分担して担ぐ。そうして、家(ベニヤ板)と家(ベニヤ板)の間の小道、と言っても、人一人がやっと通れるような隙間といった方が分かり易いかもしれない。そういえば、こんな場所を遠い昔、日本でも見かけたような記憶が残っている。昭和30年代の頃の話である。

 

家を見てビックリ

 暫く歩くと目的地に着いた。これが援助する家だ、と言われてビックリした。家というより、更地に、基礎もない柱を建て、その間にベニヤ板を張り付けたような掘立小屋といった方が分かり易い。こういう家を昔、日本ではバラックと呼んだ。でも、そんな家より数倍程度が低いのである。4畳半位のベニヤで四方と天井を塞いだ部屋が一つあり、外にも同じ位の空間があった。そこは、ベニヤ板を天井だけに張り、雨を凌ぐというような作りだ。そこにはカマドらしきものがあり、食事を作るらしい。

 

4畳半一間に8人家族

 更にビックリなのは、そこに3世代が住んでいるのだ。従業員の両親、従業員夫婦、そして子供たちだ。7、8人の家族だ。我々が行くと、喜んで子供達が周りで飛び跳ねている。おばあちゃん、おじいちゃんもお愛想顔をして笑いかける。家族一同が、感謝の気持ちを精一杯表現するのである。我々は、会社で使わない廃材を持ってきただけなのに、こんな歓迎ぶりだった。

 しかし、それにしても、4畳半にどうやって家族8人が住むのだろうか。タンスらしきものもあり、ちゃぶ台だって置いてあるのだ。疑問に思って、同行している委員会のメンバーに聞いてみた。訪問先の貧困家庭の人々は、英語が話せないのだ。聞く所によると、ちゃぶ台は外に持ち出し、全員で雑魚寝状態なのだそうだ。その昔日本で私が育った頃ですら、こんな家庭はなかったなーと思いながら、それでも、60年前の日本を思い出した。

 

廃材の使い道

 廃材は、外にあるトイレの壁と柱にするのだそうである。それも見に行った。確かにトイレらしき便器が置いてある。薄いベニヤが申し訳なさそうに立てかけてはあるだけである。これでは用を足している人が丸見えである。女性などは入るたびに神経を使う筈である。成程、成程と合点した。

 こうした人達を見て、失敗したと思った。こんなことだったら、200ペソ、300ペソで果物でも、肉でも買ってお土産にするんだっけ、と思ったものである。本当に何とかしてあげられないものかと、外国人である私でさえも思った。一体この国はどうなっているのかと、裕福層の人達や政府行政に憤りさえ感じたのである。

          (つづく、・・・)