ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

幸せなら手をたたこう

坂本九のヒット曲

 昨夜「幸せなら手をたたこう」の歌について、2時間番組で放送していた。この歌は、当初、作詞・作曲者不詳でレコードが発売された。この歌手は、坂本九だったが、彼は当時、「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん夜の星を」などの歌を1960年代に大ヒットさせていた。町の中を歩いていて、みんなで歌う「幸せなら手をたたこう」の歌に出会い、これを是非歌いたいと思った。しかし、当時のレコード会社など関係者で、作詞・作曲者を探したが、見つからなかったそうである。やむなく、不詳ということで発売したそうである。

 

作詞家、木村利人(きむら りひと)

 この歌の作詞・作曲は、木村利人さん。今では、国際的な生命倫理学の研究者として知られるが、1959年当時は、YMCAで働くクリスチャンだった。そしてフィリピンの教会へ派遣されたときに物語が始まる。

 当時フィリピンは、第二次世界大戦終結からまだ14年で、旧日本兵に殺された家族を持つ人たちが一杯いて、現地へ赴いた木村さんは、こうした人たちの非難の的になった。折角、現地のYMCAの仕事を通して友達になりかけた人とも別れる羽目になったり、何をしようにも、協力してくれない現地の人たち。しかし、木村さんは、一人ででも、フィリピンのために何かをしようと、当時フィリピンで流行っていたバスケットボールコートを一人ででも作ろうと奮闘。そうした奮闘ぶりを見た現地の人たちが徐々に心を開くようになっていった。

 

幸せなら手をたたこう

 日本へ帰った木村さんは、現地のそうしたすさんだ心を勇気づけようと何か歌を作ろうと考えた。現地で流行っていたアメリカ統治時代の歌を思い出しながら作った歌が「幸せなら手をたたこう」だったという。元々、この歌は木村さんが作成後、現地へ持ち込みみんなで歌い、そして、日本でもごく一部で歌われていた歌だったが、坂本九ちゃんが、偶然にこの歌を皆が歌っているのを聞きつけ、唄い出してレコードにしたのが始まりだった。

 

その後のフィリピン

 このブログで、「フィリピンの魅力」シリーズを紹介している。私が訪れたのは、一番早いのが30歳台半ば、1983年だったから、木村さんが訪れてから24年も経っていた。私が訪れた時には、もう、こうした日本を非難したようなフィリピン人の言動はなかった。そして最後に訪れた2003年には、もうすでに、フィリピン国内各地に、日本が投じたODAなどで、たくさんの道路が建設されていた。そうしたこともあり、益々、日本の友好国になっていったフィリピンである。

 

フィリピン国技、バスケットボール

 フィリピンのあちこちの島々を訪れると、どんな田舎にもバスケットコートを見ることが出来る。田舎の小さな村では、コンクリート敷きのコートにゴール網が一個のもの。そして少し大きい町へ来ると、これが二個になり試合ができるコートに。そして、小都市へ来ると、そのコートに壁がない屋根だけが付いたものになる。流石、バスケが国技であるフィリピンである。世界で二番目に古いプロリーグを持つのだそうだ。 

 

日本の米国観

 日本も、未だ米国進駐軍(日本の独立は1952年、米国の地上戦闘部隊の撤退は1958年)がいた当時は、私も小学生の頃だったが、親から、米国を恨むような言葉を聞いたことは一度もなかった。自分で仕掛けた戦争だったことから、相手国を恨むような言動は慎むように教育されていたのかもしれない。しかし、フィリピンを始めアジア諸国は違う。言ってみれば、もらい事故のようなもので、家族を亡くすという事態が起こったのである。かってはフィリピンで、今でも中国や韓国で日本批判が出るのも致し方ない。

 

みんな仲良く、世界の国々が仲良く

 そうした国々、そうした家族に対し、戦争だったのだから忘れてくれ、と言うのはいささか憚れるが、「幸せなら手をたたこう」の歌で、忘れられるものなら、みんなで仲良く、世界の国々が仲良くできることを切に望みたい。

 今年は、聖徳太子の1400年忌に当たるそうである。この話題を書こうかと思っていたら、昨夜は、延々眠らずに、この番組に魅せられてしまった。