ミドさんのブログ

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聖徳太子1400年忌

千年札の肖像画の1400年忌

 かって、千円札の肖像画になった聖徳太子である。今年は、1400年忌になるのだそうだ。すなわち、亡くなったのは、622年4月8日だそうでだが、この命日も色々説があるらしい。本名は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と言われるのは、誰しもご存知のところだろう。聖徳太子という名前は本名ではなく、正確には諡(おくりな)とか尊称といわれるものだそうだ。

 

聖徳太子の生涯

 あまり話題にならないのが不思議だが、1週間ほど前にこの話題をマスコミで取り上げていたので興味を持った。あまり詳細を知らないという人が多いのではないだろうか。じゃー生まれたのは何年かご存知でしょうか。574年2月7日だそうで、48歳で生涯を閉じたことになる。今の時代なら早死にという所だが、当時は平均的な生涯だったのではと思われる。ただ、叔母である推古天皇より早く亡くなった。また、その偉業は、48年間で出来るとは思えないものであることは確かだ。そういう意味でも卓越した才能の持ち主だったのだろう。

 

摂政としての功績 

 叔母の推古天皇のもとで摂政として、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制を作ったり、遣隋使を派遣し中国の文化を取り入れたり、日本人に仏教の考え方を根付かせたのも聖徳太子の功績だろう。そういった意味で、日本人の外国にはない、日本人の心の創設者と言えるかもしれない。

 

法隆寺

 聖徳太子と言えば、法隆寺が必ず出てくる。我々が高校生の修学旅行先と言えば関西で、必ず、法隆寺を訪れたものだった。この法隆寺は、推古天皇聖徳太子が建立したと言われているが、670年に一度焼失したと日本書紀に記述があり、現存する法隆寺は再建されたものらしい。その法隆寺内の金堂内部にある、薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。

 

法隆寺内の建物構成

 関東圏の人間にとっては、私だけかもしれないが、京都も奈良も区別がつかない。法隆寺は奈良にある寺院で、一般のお寺のように建物が一つでないことはご存じのとおりである。その法隆寺の構成を見ると、敷地内には、先ほど触れた金堂、そして五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられるそうで、西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群だそうだ。いずれにしても、法隆寺内の建物の創建時期、焼失時期、そして、何と何が焼失して、何が再建されたか、一度よく、ネットなどをよく読んで、まとめてみたいと思っている。

 

聖徳太子のお墓は大阪

 そして、聖徳太子のお墓はどこにあるかであるが、大阪府の叡福寺にあるのだそうだ。なぜ、奈良に法隆寺を作り、奈良の明日香で政治を司っていた聖徳太子が、大阪に祭られているのかが不思議に思ううが、生前から亡くなったら現在叡福寺のある場所にと言っていたらしい。叡福寺は、聖徳太子が亡くなってから、当時の天皇である叔母の推古天皇が建てたとされている。聖徳太子の墓は、叡福寺内で古墳となっている。

 叡福寺のある場所、大阪の磯長一帯は、太子の他、用明天皇推古天皇といった曽我系皇族の陵墓があるそうで、そういったことから、聖徳太子は、この地域にと言っていたらしい。

 

歴史はおもしろい

 色々調べていくと分からないことだらけである。分からないことを調べ始めると、これほど面白いことはないように思える。なぜ学生時代に興味を持たなかったのか、興味を持っていたら、自分の進む道もエンジニアという方向ではなかったかもしれない。そういった意味でも、いろいろな学問に興味を持つということは、自分の人生をも左右する大事なことだと改めて知らされた。

 今年は、聖徳太子の1400年忌であり、丁度1400年目という節目に生きていたことをラッキーと思いたい。