ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

0.0001%にかける情熱

鹿行(ろっこう)地域

 鹿島アントラーズの話である。ブログを見てくれている人が、関東圏であれば分かると思うが、鹿島地方を車で走るとよく分かる。何が分かるかって? 人がいないことが分かるのである。茨城県は農業県である。特に、鹿島地方、鹿行地域は、農業の盛んな地域でもある。この地域は、西に霞ケ浦、東に鹿島灘の太平洋を控え、細長い平らな地形の砂獏地域なのだ。この鹿行地域は、鹿島市神栖市潮来市行方市鉾田市で形成されている。

 

鹿島臨海コンビナート

 そこに、1969年(昭和44年)、最初の企業、住友金属鹿島製鉄所が操業開始したのが鹿島臨海コンビナートの始まりで、鹿島市神栖市に広がっている。今では、160の企業、2万2千人の従業員が働いている。1964年に用地買収を開始し、1973年にコンビナート開発終息を宣言した工業地帯であるが、茨城県として、それまで県北地区に集まっていた工業地帯を鹿行地域にもと開発された工業地帯でもあった。

 

鹿島アントラーズの名乗り

 鹿島アントラーズの前身は、住友金属工業のサッカー部(蹴球団)のようだ。当時、日本サッカーリーグの2部に所属していたチームだった。そして、1989年にプロサッカーリーグ設立が具体化したのを受けて、このサッカーチームが、鹿島市神栖市の後押しを受けて名乗りを上げたのである。Jリーグの参加チームは、元々は、一つの都市を本拠地とするのが原則だったが、鹿島アントラーズだけは、5市の共同ホームタウンが認められたチームでもあった。 

 Jリーグ参加希望を受けて、Jリーグ設立メンバの一人だった川淵三郎が言った言葉は、「住友金属さんが加盟できる確率はほとんどゼロなのです。99.9999%無理ですよ」。

 

0.0001%の可能性

 普通なら、これじゃダメだ、と諦めるところだが、要望メンバーは、0.00001%可能であればと加盟に闘志を燃やしたそうだ。それは、その時の、川淵が、住友金属の参加を諦めさせる最後の手段として言った、「観客席に屋根の付いた1万5000人収容のサッカー専用競技場を建設できるなら考えましょう」の一言だったという。

 つまり、それまで、Jリーグに参加希望しているチームには、出身母体の会社があり、その会社のある都市は何十万都市という人口を抱え、更には、花形選手を擁したチームばかりだった。そういう点から、川淵三郎は、鹿島アントラーズの参加は不可能だ、諦めさせようとの思いから、99.9999%無理だと言ったのである。つまり最後通牒として、スタジアムの建設という無理強いを要求したのである。

 

Jリーグ参加発案者たちの奮闘

 ところがである。Jリーグ参加に闘志を燃やすメンバーは、安く、短時間に出来るサッカー場を開発し完成させてしまった。そして26万人もの賛同者を集め、ジーコを迎い入れた。そうして、Jリーグへの参加が承認されたのだった。

 Jリーグ参加が決まってからも大変だった。なにせ、マチュア―2部リーグのチームが、プロチームのJリーグ参加である。迎い入れたジーコが練習に参加した時、あまりにも甘い練習態度に怒りを露わにしたという。そうして、プロらしい練習に変わっていった。ジーコの活躍で初戦を勝ち、熱狂的ファンも増えていった。

 

田舎、プロサッカーチームの苦闘

 しかし、田舎町のプロサッカーチームである。熱狂的ファンがいると言ってもホームグランドでの試合は年間30試合程度しかない。それ以外は人が集まらないのだ。元々、Jリーグ参加を望んだメンバーたちは、砂漠の町をサッカーの町にしたかった。そこで、いろいろな趣向を凝らした。スタジアムを診療所として利用する、スタジアムでビアガーデンを企画、スタジアムグルメ、地元の特産品を使った通販サイトの立ち上げなど等だった。

 

鹿島アントラーズの将来

 そうした努力があるが、専門家の分析によれば、こうしたバックボーンが脆弱なチームの将来は、2041年に崩壊すると出た。そこで、発案メンバーたちは企業を募り、メルカリの参入が決まり、現在経営改革に乗り出しているそうである。

 地域活性化のために、結成発案メンバー、それをサポートするメンバーの「0.0001ならいける!」という発想が素晴らしい。世の中、全てが全てこのようにはいかないだろうが、不可能を覆すことのできるのは、「情熱」しかない。