ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

下宿のおばさん(1)

 最近面白いことがあった。いずれ、このブログも本にすることを考えると、記事にしておきたいと思い書いてみる。名前は支障あるかも知れぬので、仮名を使わしてもらう。

 

大学の仲間

 いつからだったか、昔の大学の仲間とラインのやり取りをするようになった。それというのも世話好きな白木君のお陰で、相手の電話番号などを教えてもらいながら、交信相手を広げていった結果だ。年寄の無味乾燥な生活に色合いを付けてもらい、感謝、感謝である。白木とは、専攻も電気工学、下宿も一緒で廊下挟んだ向かい側に住んでいた。この当時から、田舎者で友達もいない私を面倒見てくれ、学生時代を楽しく生活できた一因は、この白木のお陰でもある。

 

もう一人の仲間

 そして、同じ下宿に同じ年の柿崎という教育学部の学生がいた。例によって白木の友達であり、その後、同じ下宿になったことで、彼に紹介してもらい、一緒の交流を続けていた。そして、会社を辞めてからだが、突然、柿崎から電話があり、私の家に来ることになった。その時は、私も家庭菜園をやっている、彼もやっているということで、それも見たいという理由だったように記憶する。しかし、後で(今回)聞いてみると、他の理由があったようだ。とりあえず関係ないので、この話はここまでにしておく。

 

下宿の当時の様子

 下宿にいた頃は、2階建てで、2階に8人、1階に2人の下宿人がいたと記憶してる。下宿だから当然2食付きである。朝食・夕食をこの下宿でお世話になった。当時のお金で下宿代が11,000円で、5,000円と6,000円が宿泊費と食費だったと記憶している。

 田舎育ちで、世間を知らない、運動もしない青白いひょろひょろした頼りない子どもである。両親も心配だったのだろう。下宿に最初にお世話になるときには、両親が、下宿のおばさん,おじさんに一緒に挨拶に行ってくれた記憶がある。そして、この下宿を経営するおばさん、おじさんには二人の娘がいた。一人は由美ちゃん、もう一人は理恵ちゃんである。そしておじさんは公務員として働いており、下宿のことはおばさんが一手に引き受け、食事や一切の世話をしてくれた。当然ながら、世間知らずの高校出の男の子である。母親のように、いろいろ相談にも乗ってくれた。この時、由美ちゃんは小学6年生、理恵ちゃんは2年生位だった気がする。定かではない。彼女たちは、我々を「お兄ちゃん」と呼んで慕ってくれたし、我々も妹のように可愛がっていた。

 

学生時代の友人との交信

 そんな状況説明である。そして半世紀が過ぎた。白木とラインでやり取りしているうちに、「アメリカにおばさん達が来た話し、したっけ?」と切り出したことから始まった。「いや」。すると、話し出した。「俺がアメリカにいた頃、理恵ちゃんとおばさん達がアメリカのサンフランシスコから電話してきたんだよ。ロスアンゼルスにいる俺にお土産を持ってきていたらしいが、都合で行けなくなったので、後で、送ると言ってきた」と言うではないか。

 

おばさんとの連絡先は?

 そこから話が始まる。「へぇー、そんなことあったんだ」「ところで、おばさん達の電話番号分かる?」「しばらく持っていたが、もうない。柿崎ならマメだから知っていると思うよ」と言う。

 早速、柿崎に電話した。色々な話をした後で、「ところで、下宿のおばさんの家の電話番号知っている?」 すると、「前に一度泊りに行ったことがある。千葉の・・・だよ。でも、もう、分からなくなったなー、白木なら知ってるんじゃないの?」「白木も同じこと言っているんだ、柿崎なら知っているはずと。」「ハハハ。じゃー、家に帰れば分かるかも知れないので、分かったら教えるよ。」「じゃー、分ったら教えて」と言って電話を切った。

 

ついに、電話番号が分かる

 すると、10分もしないうちに電話が来た。「リリリーン、リリリーン。」「分かったよ。今から言うよ」と教えてくれるではないか、流石、柿崎。学生時代と性格がちっとも変わっていない。「02・・-・・・-・・・・だよ。」「分かった、後で、電話して結果を教えるよ」と電話を切った。

 18歳から21歳までお世話になった下宿のおばさんである。あの時、年齢は分かっていたかもしれないが、今は分からない。今考えると、長女の由美ちゃんが、当時12歳としても恐らく、我々より、15歳以上は年上だろうから、86歳以上にはなっているだろう。もし、亡くなっていたら、誰が家にいるのかなー、親せきがいたら、何と言ったら分かるだろうか、ところで、おばさんの名前は何て言うんだっけかなー、などと思いを巡らしながら、電話をしてみる。

 

 一回で話が終わると思ったら、長くなりそうなので、以降は次回に回す。

    (つづく、・・・)