奥州街道を制覇!
散歩を始めて40日になる。結構続いたものだ。一歩を、正確ではないが、70cmで換算すると、200kmを超えた。毎日1時間半位の時間だが、昔の人は、毎日8時間は歩いたのかなー、などと考えながら、歩いている。1日1.5時間で約5kmだから、1日30kmというところか。昔の五街道と言われる街道の宿場町間の距離が約7km程度だから、宿場町の4つくらいは歩いているのだろう。200kmと言えば、奥州街道の江戸から白河までの距離を歩いたことになる。
不思議な記念碑
2,3日前に歩いた場所に、下記のようなものがあった。
特徴は、必ず、有名人?の市長の名前や議員の名前などを記すことだ。こういった碑は、公の場所に設置され、恐らく公のお金で建て、設置されたものだろう。そこに、市長や議員の名前が必要なんだろうかと、ふと、疑問に思った。自分の名前をそんなに売りたいものか、他人事ながら、なんか、恥ずかしくなってきた。
防空壕跡と慰霊碑
そして、別の日に、そんな目で歩いていると、
防空壕の後や明治百年記念「大東亜戦争徴用馬慰霊碑」というのまであった。防空壕の入り口には、だれが飾ったか、しめ縄まで飾ってあった。この慰霊碑には、裏に建立した人たちの名前が、目立たぬようひっそり書いてあった。
高度成長期の丘陵地帯の団地
そんなことを考えながら、
上記写真の丘稜地帯に広がる住宅団地を目指す。これらの団地は、我々が社会に出だす頃(1970年前後)、高度成長期の時代に、住宅が不足し、あちこちの丘陵地帯の山林を伐採し、住宅団地にしたものである。
そして、その団地内を通ると、空き家も目立つし、閑散として人がいない。半分くらいは車が置いてある。家の中で年寄りがじっとしているんだろうか、と余計な考えを巡らす。
団地の地図を見ると、会社の同僚だった人たちも書かれている。既に亡くなった方もいて、奥様の名前に新しくラベルを張り直し、変えたようだった。50年の歳月が経つ。
今の時代反映する太陽光パネル
そして、団地を抜けて、団地の丘陵地帯を抜け、海岸近くに出る。向こうから70歳を過ぎた女性が自転車でこの丘陵地帯の団地へ上がっていくようだ。荷台には一杯荷物を積んでいる。すると、今度は同じ位の年齢の男性が両手に、一杯入った買い物袋を下げて歩いている。やはり、この団地に行くのだろうか。バスも頻繁に走っていないので、歩いて買い物をすます必要があるのだろう。
太平洋が見えてきた。ここまで5,000歩位である。車を置かせてもらった、ホームセンターの始発点までもう少しである。前方の常磐線線路脇に、かって、異臭を放ったパルプ工場跡地に広がる太陽光パネル。
歩き終わり、携帯の歩数を見ると、7,000歩を超えていた。
散歩の楽しさ
田舎道は、田んぼを見ながら、遠く山並みを見て、川のせせらぎを聞きながら、そして、時代の遺物に触れ合いながら歩く散歩には最適である。飽きない。それだけ思い出が一杯あるということだろうか。
不思議なことに、あちこち痛いところが動く。足の甲、右の腰、左の腰、そしてその程度も異なる。散歩のせいだろうとは分かっているが、移動するのが面白い。歩いているだけなのに、汗をグッショリとかく。家に帰り風呂に入る。気が向けばビールを一杯、と年寄りは元気だ。
まだまだ、続きそうだ。