ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

子どもの基本教育

 昨日、農業委員の月一回の行事、農地チェックがあった。地域の農業委員、推進委員5人が8時半に集合し、今月農業委員会の議題になる農地をチェックして回るのである。集合は8時半だが、15分前位からみんな集まり、御茶飲み話が始まる。その時の話である。

 

出来ないではなく、やらないからだ!

 「私は、会社をリタイヤーして以来、食事・洗濯など自分のこと、自分のものは、自分でやっている」と話した。すると、残り4人は、「俺にはできない」と異口同音に言う。私は、「そんなことはない。出来ないのではなくて、やらないだけだ」と返事する。つまり、奥様が、旦那がやらないなら仕方なくやってくれている、という構図なのである。

 

洗濯は自分で(当然と言えば、当然だが)

 我が家の場合、妻が、ある日、突然、私のことは一切やらなくなった。まず、洗濯から始まった。自分の洗濯籠は綺麗にするのに、今までやっていた私の洗濯籠は無視である。それも何の前触れもなしにである。最初は、何か怒っているのかと思ったたが、どうもそうでもない。つまり、もう、あなたの面倒は見たくない、という意思表示なのだろうと察し、自分でやりだした。私に言わせれば、洗濯物でやいのかのと言われるよりよほど楽である。

 

食事も自分で。後片付けは?

 そして、食事だ。朝ご飯は、私は、6時には起きるが、妻は普通は8時起床である。嫁や孫、息子夫婦が来た時だけは良いかっこしいで、6時位には起きて、さも、いつもやっている素振りはする。しかし、私には8時までは待っていられないので、自分で食事の用意をして自分で作り食べて、後片付けまでしてしまう。すると、8時に起きてきた妻は、自分のものを用意して食べるが、食べた後は、流しに置いたままの状態にしておく。そしてこれが、昼食を食べても、夕方まで残しておくのだ。

 しかも、お昼は、どこへ出かけるのか、毎日どこかへ出かけては、夕方帰ってくる生活だから、お昼はもちろん自分で用意することになり、しかも、夕方も何時に戻ってくるのかもわからないので、自分で作って自分で食べることになり、その後片付けとなると、朝、妻が残した洗いの残しまで私が洗う羽目になるのである。最近では、足を手術して調子が悪くなり、出かけるのが少なくなったこともあり、昼ご飯を家で食べることも多くなったが、相変わらず、自分が食べたい時に食べるので、時間が読めない。従い、食事はもお互い自分のペースで、自分が好きなものを食べている。

 

家庭内の片付けは?

 家庭内の主な仕事である、食事・洗濯は別々という状態になったのだ。こういう変遷を経てきているので、一般家庭ではなかなか真似できない芸当かと思うが、一番困るのが、共通部分で使う場所の整理・掃除である。流しを綺麗にするということと冷蔵庫の中を綺麗にしておくということである。どちらも、妻は一切に気にしない。冷蔵の冷凍庫が一杯になると言われ、冷凍庫を別に買った。子供もいるし、と思ったが、今では、子どもも出て行ったが、冷凍庫は何に使うのか、自分の食材を冷凍庫一杯に入れて、そのままになっている。冷蔵庫の野菜室は、同じ野菜があちこちに隠れている有様。

 

子ども基本教育はいつ始まる?

 後片付けなどの基本的な性格は、いつ、生まれるのだろうかと、つくづく考えてしまう。子供は、母親から見様見真似で教わるのではないかと思われる。つまり、母親が、頓着しない子供は、大人になっても頓着しなくなってしまうということである。子供が男の場合はまだいい。ところが、女の子だった場合は、うちの妻のようになる。かっこを付けるのはうまいが、実際は無頓着、という大人の女性が出来上がるのである。

 

女の子の基本教育

 それでも、男は、仕事で、後片付けを教え込まれる場合もあるので、いいが、女性の場合は、最近は違うかもしれないが、ちやほやされること、自分をかっこつける(良く見せる)のがうまいことなどで、後片付けの癖を付ける機会を失っているのが惜しい。綺麗な、人当たりのいい女性に、世の男性は引っかからないようにしたほうが良い。

 

自分の女房といつまでも

 そうは言っても、若い頃、自分でこれで良いと見つけた女房である。責任はすべて自分にある。従って、多少の不自由さはあっても、今後も我慢していかなければならないのだろう。「できないではなく、やらないだけだ」の精神で、年老いても、「全て自分でやる」の精神で、今後も行かば、なんてことはない。今後もこれで行こう!