ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

八十八夜

農業委員の仕事

 昨日は、農業委員の仕事をした。同じ委員仲間と耕作放棄地と思われる農地を回って確認する作業である。日本全国どこでも一緒だと思うが、昔はどんな小さな空き地も、畑や水田にして、野菜や稲を植えたもんだ、というより植えたのだろう。ちょっとした山間(やまあい)というより谷あいに小さな10坪でも100坪でも平らな土地があれば農地になっていたと思われ、そうした農地が、地目:農地として登記されているのである。ところが、現代になり、そうした土地は放置され雑草が生え、やがて木が生える。

 農業委員としては、そうした農地の状況を管理・監視する役目を負う。そうした目ではなくても、農地と言い難い土地であり、所有者を探し、地目変更してもらうか、非農地判定をするのも農業委員の役目となる。

 

左:線路端の三方が囲まれた農地  右:四方が囲まれた小さな農地平地

 

昔は・・・・

 そんな農地を見て歩きながらの同僚との会話。

「昔は、背負子を背負って、脱穀機を運んだと聞いたことある」という。この谷あいのかっての田んぼはまでの道は、獣道ほどの広さの道だ。そこまで、運んだ昔の人のことを考えると頭が下がる。

 ブログを見てくれている方々に、背負子と脱穀機の写真を載せる。私が子ども頃は、こうした背負子は田んぼに行けば、当たり前のようにあったし、農家の方々は日常背負って歩いていた。脱穀機も、田んぼでやっている姿は忘れてしまったが、農家の庭先でこれを使って脱穀している姿は良く見たものだった。

左:背負子(しょいこ)  右:昔の足踏み式脱穀

 

戦後っ子時代

 私の子どもたちにもこうした話を聞かせたことはないような気がする。昭和の戦後生まれの私たちの時代から、親と離れて暮らすのが当たり前になった。従って、私たちの子どもたちは、おじいさんやおばあさんと一緒に暮らさなくなった。そして、その子ども、つまり私の孫たちも同様である。

 昔の話は話継がれなくなった。”話継いだからなんだ”というつもりもないが、そうした時代の歴史は、話継がれず、書き物でしか伝わらなくなった。

 

言い伝え、歌い継ぐ

 そして、同僚との会話に戻る。いろいろ話していると、「昔、この地域には、足洗音頭とか足洗小唄というのがあって、よく歌っていたそうだ。そして、その歌詞を書き物に残さないとと誰かが言っていたが、そのままになってしまった」という。いまだに地方の昔から歌い継がれた歌というものがあり、私も、母方のおばあさんから、気分が良くなると聞かされていた歌があった。「そもそも、くまがい・・・」という歌だったが、以降の歌詞は覚えていない。折角の歌を書き残せば良かったと今では思うが、もう半世紀も60年も前の話なので、今となってはネットでも探しようがない。

 今日、読売新聞の「編集手帳」に、八十八夜のことが載った。立春から数えて88日目を指し、霜も降りなくなって、季節の変わり目ということ。最近は、雨も多くなり、今日は急に寒くなった。八十八とは、米を分解した字であり、農業の目安にした日だそうだ。今年の八十八夜は、五月二日だそうだ。