ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

血は争えない

木曜日はゴミ出しの日

 今日は木曜日、ゴミ出しの日だ。我が家の塀の外が、いつの間にか、ゴミ集積場に昔からなっている。近くの10軒弱のゴミの集積場である。そういう立場になった人なら分かるだろうが、ともかく、自分勝手な人が多い。ゴミを置いてしまえば、もう、自分のゴミではないような顔をしている人が多いのだ。ゴミがカラスに食い荒らされようが、どうでもいいのだ。自分のゴミが食い荒らされて、その後、それを片付けに来た人を見たことがない。散らかったゴミをかき集め、誰かのゴミの袋に入れ、きちんとカラス除け網をかぶせる、これは、ゴミ集積場に近い我が家の役目のようになっている。網がボロボロになったら修理し、網を掛けやすく網の形状を直したりも、我が家の役目である。

 

2年以上続くコロナデータの転記

 「しょうがないなー」と思いながら、新聞を取り、いつもの自分の席に座り、新聞に目を通す。コロナの感染状況データを転記し終えた。このデータをまとめ、地域の役員に1週間ごとの、近隣市町村、自分の市のデータをグラフにして送っている。同時に、ボランテアをやっている仲間にも送っている。自分たちの街が、日本全土を見た時にどのレベルにあるかを分かってもらうためである。余計なお世話ではあるが、自分なりに納得して、もう2年以上続けている行為だ。

 

子ども誕生日を思い出した

 そして、転記が終わり、パソコンに記録させようとして、今日の日付を入れた。そこで気付いた。今日は、長男の誕生日だった。子供が小さかった頃は、毎年、子どもの誕生日には、会社の帰りに、ケーキなどを買って帰り、家で、よく誕生日のお祝いをしたものだった。その、長男も、(多分)47歳を迎え、人生、脂の乗りきる時期に差し掛かった。長男夫婦には、子供が一人、そして、嫁のお腹にはもう一人子供がいるという。同じ思いをしているだろうなー、なんて、感傷に浸る。

 

思い出す、年老いた両親

 そこで、自分が70歳をとうに過ぎ、体に異変があちこち出てくるようになると、自分のことだけで頭が一杯になるものだ。そこで、思い出すのが、両親のことである。親父は72歳という比較的若くして亡くなったが、70歳を超えたあたりから、毎日、チョット仕事をしては、横になったり、転寝ををしたりして、よく、お袋に「また寝てるんだから」と怒られていた。自分もその歳になった。テレビを見ていても、つい、ウトウト。机でパソコンたたいていても、疲れて、椅子にもたれかかり、ウトウト。

 

分かってもらえない年寄りの症状

 そして、最近めまいがひどい。もう10年にはなるだろうか。めまいがし出した当初、医者に行った。すぐ疑うのは、三半規管の異常である。しかし、異常は見つからなかった。その他も全て見てもらったが、原因は見つからず、諦めていた。最近になり、天気が良くないとめまいが酷いことに気付いた。気圧に関係するんじゃないかと疑い、掛かりつけの医者に言うと、「気圧は関係するかもしれませんね」とそっけない。

 

血は争えない

 そういえば、母親が、よく、「めまいが酷くて・・・」と嘆いていたことを思い出す。「ウトウト」にしろ、「めまい」にしろ、親と同じ症状が出るもんだ、と今更ながら、血の濃さを感じる。

 子供たちが、あと、20年、30年たち、どんなことで、親との血縁を感じるのだろうかと考えてしまった。あの頃、お袋が、「めまいが酷くて・・・」と言っても、年寄りの世迷言くらいにしか理解できなかった自分。今、同じ歳になって、初めて、その酷さが分かった。

 人生一度きりと言う。40代、50代の時の子どもとの関係と70代、80代になってからの子どもとの関係は明らかに違う。お互いの理解の度合いが違うのである。