ミドさんのブログ

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挑戦し続けよう!

羽生結弦競技引退、プロ転向

 羽生結弦の競技引退、プロ転向記者会見があった。緊張しているのか、言いたいことは一杯あるのに、それを言葉で表現できないもどかしさが感じられた会見だった。そうしたことをカバーするように、記者たちからの遠慮のない質問を求めた。

 

寂しさは全然ない!

 そして、二番目に発せられた質問。「勝負の場を離れる寂しさは?」と聞かれ、「全然ない」と答えた。

 こういった会見では、引退会見であっては、「寂しさはある」と答えるのが一般的であるし、聞いている我々も、そういった言葉を期待するもの。今回のケースは、プロ転向という将来があるからそう言わせるのだろうか。

 今までの羽生選手の行動パターン、言動を聞いていると、”全然ない”というのが ”当たり前” かもと思えた。

 

競技は、努力の発表の場

 彼にとっては、オリンピックの場も世界選手権の場も、入賞や優勝が目的ではなく、自分が努力してきた成果を発表し、評価してもらう場という位置づけだったのだろう。国民が、「優勝だ」、「金メダルだ」と騒いでいるとき、羽生選手の喜びの原点は、努力の成果が出た、それを観客の皆さんが分かってくれた、という視点だったのである。

 だから、「寂しさは全然ない」となるのだろう。プロになれば、その場その場で、それまでの努力の結果を披露できる。どうでもいい、入賞・優勝なんてことを考えなくても済む、むしろ、足枷がない分、楽しさ、希望のあるプロ転向なのだろう。

 

入賞・優勝・連覇に拘るマスコミ

 今、アメリカで世界陸上をやっている。連日、「誰が入賞した」の、「日本人で初めて・・・」といったニュースが飛び交う。マスコミとしては、ニュースバリューが欲しいのは分かるが、羽生選手のような考え方の「スポーツ選手の評価の切り取り方」をもう少し研究してはどうなのだろうか。たまたま、羽生選手は、努力と優勝という結果が結びついた超一流のスポーツ選手である。世界選手権の場で、10位でも、「世界で10位」なのである。科学者で言えば、「世界で10本の指に入る著名な科学者」ということになるのである。

 ところが、マスコミのニュースとなると、入賞も出来ない選手は、隅の方に追いやられる。彼らの努力は血の滲むようなもののはずだ。毎日、一段高い目標を求めて努力をし続けた結果なのだ。今日も、スポーツ選手は、どこかで努力をしている。

読売新聞に掲載された写真

挑戦し続けよう!

 「今後も続けていきたいことは?」との問いに、「挑戦し続けること」と答えている。

 今朝の近所の人との会話。「体のどこか痛くない?」「それにしても、歳をとると体のあちこちが痛くなったり、支障が出たりするね」「若い時のように、良くなることはないもんね。」「現状維持が精一杯だね」。

 我々、70歳を過ぎた老人にも、挑戦することは一杯あるはずだ。小さな前進でもいい。挑戦し続けることを肝に銘じて頑張ってみたい、と思った記者会見でもあった。