中止・廃止の伝統芸能
地方の ”祭り” が、いろんな形で縮小されたり、中止・廃止されたりしているらしい。今朝の偉い学者さんの話である。コロナ禍の影響だ。コロナが、日本の伝統芸能の及ぼす影響は計り知れない。
我々の地域でも、天王祭、防災訓練など、色々んな行事や会議が延期や中止になっている。工夫すれば何とかなりそうなものも、「あのせいで、コロナになった」と言われたくないために、延期や中止にするのである。日本人は、人のせいにするのが好きだ。自己責任が社会通念になっていないのである。
コロナ感染に対する感覚の違い
数日前も、ボランテアでやっている日本語教室の開催で、アメリカ人から茨城県の感染者が増えてきたので、中止になるのではとの懸念から、「やるのか、やらないのか」を聞いてきた。それを日本人が聞くと、「やるなら、あなたたちの責任でやるのですよ、良いですね」と言っているように解釈する。だから「自己責任で、出席してください」という羽目になる。恐らく、このアメリカ人は、「やるのか、やらないのか」を聞いたに過ぎないのだと思う。ボランテアか営業かはしっかり見分ける外国人なので、責任云々には厳しいはずだ。
疎遠になる人間社会
こんなわけで、本来だったら、みんなで顔を合わせたの式ワイワイするはずのお盆休みも、寂しく年寄り一人で過ごした人も多いようだ。
田舎は別としても、都会に住んでいれば、店に行かなくても美味しいものがセレクト出来、注文できる。そして、マンションのドアの前まで運んでくれる。
パソコン一つで、あの大混雑の通勤列車に揺られなくても、また、朝の貴重な時間、通勤時間を使わなくても、家で在宅勤務ができる。
”気付き”の少ない社会
こうした業界が、コロナ禍で大いに発展し、皆が活用するようになったのは、正にコロナ様様でもある。しかし、一方で、地方の伝統芸能は簡素化され、人人との対話も少なくなり、世の中の変化にも鈍感になりつつある。
今まで毎日行っていたスーパーで何気なく見ている陳列棚の陳列方法に気付くこともないし、売り場にいる店員が変わったことも気付かない。
なかなかマスクが外せない
毎朝やっているラジオ体操でも、私はマスクはして行かないが、8割の人はマスクをして駅前広場まで行き、マスクをしたまま体操をしている。自己責任なので、それはそれで良いが、顔の半分を覆い隠しているので、顔の表情が分からないどころか、どこの誰かさえ分からなくなりつつあるのである。
新コロナ病
学校ではどうなんだろうか。喜怒哀楽を感じるのは、目の表情と体で伝えるジェスチャーしかない。微妙な心の揺らぎを伝える表情が分からないのである。
「スマホ病」というのがある。目や手など色々なところにスマホの使い過ぎで起こる病気である。同様に、第六感が鍛えられるべき日常生活の行動制限により起こる、「新コロナ病」が心配である。
表情で読み取ることが下手になり、言葉でのみ相手の要望を感じ取るようになるのだ。「阿吽の呼吸」など、何時しか忘れ去られる社会である。