ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

生かさせて貰う

神社清掃

 昨日は朝早くから近くの神社の清掃をした。有志での毎月一回の行事である。昨日は都合が悪い人がいて、5人での清掃となった。今の時期落葉も多く、神社境内、屋根などにたまった落ち葉をかき集め、参道の階段に溜まった落ち葉も清掃して綺麗にするのだ。数年前は、色褪せた社殿の塗装も行った。先月23日には、神主を呼んで大祭も実施した。氏子総代という組織があり、鎮守の塩竃神社を維持管理する仕事である。

             境内を清掃              階段の参道も綺麗に

”何か” を ”皆で” ”協力する”

 この手の作業は、地域の人たちで維持管理するものである。神様にお願いすれば何でも叶うなどとは露ほども思っていない。しかし、”何か” を ”皆で” ”協力して” 維持管理することが重要だと考えている。つまり ”公共心” の醸成である。

 年老いた人間が今さら言うことでもないが。

 

”公共心” の醸成

 若い時は、何でも誰かがやってくれる、と思うものだ。勿論、若い人だけではない。公共心の欠如した人間は、ゴミを、たばこの吸い殻を車の窓を開けて道路に捨てる。酷い時には、人の土地にゴミを捨てるものまで出る始末。

 こういった ”公共心” を植え付けるには、最小単位の地域活動が重要である。今若い人たちがあちこちで色々なグループを作り活動している。あれはあれで立派なことである。先日、W杯の日本サッカー選手たちのロッカー清掃が話題になり、サッカー応援部隊の客席清掃も話題になった。好きなサッカーばかりではない。JRの駅舎を清掃する若者だっている。

 

”地域力” 

 我々の地域では、夏休みなどは、小学校の子どもたちと地域の住民で道路のゴミ拾いをする。どんなところにどんなごみが落ちているか子ども心に理解するのである。こういった指導は子どもの父兄だけの仕事ではない。地域の住民の協力が必要なのだ。

 今地域のこうした活動が危機に瀕している。子どもたちが少なくなり、若い人たちの協力が得にくくなったことがポイントである。それに加え、自治体の協力も得にくくなり、更に、自治体で働く人たち、自治体そのものが、地域力の重要性を理解していないようにも見えるのである。

 

”公共心” の欠落

 我々の地域では、地域を”字(あざ)”と呼び、最小単位を ”常会” と呼ぶ。このブログでも何度か紹介した。その字の役員をしてみると良く分かる。常会を抜ける住民がたくさんいるし、新しく参入してきた住民は、常会に入らないのである。理由は簡単。「煩わしい」「常会長になると仕事が大変」などという理由である。つまり、「地域を良くする」「地域住民と一緒に」という ”公共心” が欠落しているとしか思えないである。

 

皆さんに生かさせて貰っている

 高齢になって、常会長の役割も大変である。でも、ボケ防止になる、運動不足解消になると思えば、薬の役目もする。モノは考えようだ。

 昨日、神社清掃に行きながら考えた。こうして、地域の皆さんから、「明日、神社清掃だよ!」と声が掛かるうちが花だ。

 「地域の皆さんに、生かさせて貰っている」と、つくづく感じる。