ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

田舎砂漠

砂漠の国、カタール

 砂漠の国、カタールで決勝戦が始まろうとしている。今回のサッカーのW杯は盛り上がった。

 首都ドーハから一歩足を延ばせば、そこは360℃見回しても、どこにも家も人も見当たらない ”砂漠” でもある。

 あさみちゆきの「砂漠の子守歌」という歌がある。カラオケ会の課題曲でもある。あさみちゆきの物憂げなどこか郷愁を誘う声・歌い方にマッチした歌だ。「東京は冷たい砂漠」「東京は乾いた砂漠」という歌詞が出てくる。

 

東京砂漠

 最近の日本で起こった事件が目に付いた。2歳だか3歳だかの女の子を家の中のどこかに縛り付け、母親はスキーに行ったという事件である。同様の事件が跡を絶たない。

 ここから先は勝手な想像である。

 数年前に恋愛をした。そして女の子が生まれた。相手の男は ”生むな” といった。田舎の一人娘で育った彼女は、子どもが欲しかった。「自分の愛する子ども」が欲しかったのだ。しかし現実は甘くなかった。3歳にまで成長した娘は、数か月前、アパートの部屋から外へ一人で出た。彼女が帰宅した時には、娘がいなくて慌てた。その辺を探しやっと見つけた。そんなことを思いだし、娘を洗濯紐で結び、家中は自由に動けるようにして外出することを考えた。新しい恋人からスキーに誘われたからだった。

 

頼りになる隣人砂漠

 こんな設定を勝手に考えてみた。普通の母親なら、スキーに行くことを諦めるか、娘を一緒に連れてゆくか、仲の良い隣の住人に預けるか、理解ある両親がいるなら預けるかなどのいずれかを選択するところだろう。

 しかし、娘を一人家の中に置いて出かけるという方法を選んだ。理由はいろいろ考えられる。子どもがいることを新しい恋人に言っていないので知られたくない。子どもを連れて行ったのでは彼とのスキーが楽しめない。仲の良い隣人・友人がいない。両親も遠くにいて頼りに出来ない。両親とは長い間仲たがいしている、等などである。

 

遊び仲間と頼れる仲間

 今、友だちを重要に考える子どもたちが増えているという。何でも友だちを頼りにする年代である。しかし、こういう場合はそういう心理が機能しないようだ。

 田舎でも、事件こそ起こらないが、「田舎砂漠」状態が拡散している。最近、”防災” に関する講習があった。その時も課題として挙げたが、「お隣さん」が存在しない「田舎」になっているのである。地域の最小単位である、「常会」や「町内会」を脱会し、自由に(勝手きままに)生きようとする若者たち。

 

社会での責任

 責任は二の次なのである。地域住民としての責任、親としての責任、人間としての責任・・・。

 今朝、いつものように「資源ごみ出しの日」に、段ボールやらビンや缶を出した。すると、生ごみ用にネットを取り付けた「ゴミ置き場」に、しっかりネットを被せ、新聞やら缶やらの資源ごみが置かれている。今までも何度かあった。一見しっかりしているようだが、「なぜネットをかけるのか」を考えていない住民が多いのである。「あるから被せる」のだ。

 

ご近所さんの交流

 昔だったら、そこら中で近所の人に出会った。世間話をする。その中でゴミの話も出る。「最近、生ごみでもないのにネットを被せる人がいるのよ」と話せば、その情報が駆け巡り、1時間後には、ネットをかけた住民に届き、自然とそうした人は無くなったものである。

カタールの砂漠とサッカーのサポーター

広がる田舎砂漠

 こんなに情報が氾濫している社会になった。しかし、一方で、最小単位の人たちとの交流の場がなくなった。砂漠現象である。「サッカーのサポーターがいるじゃねーか」。しかし、あれは人と人との交流ではなく、サッカーを仲立ちにした、サッカーを中心に集まっている人の交流なのだ。

 生活を仲立ちにした交流ではない。田舎でも「砂漠化現象」がどんどん広がっている。