忙しければ学ぶことも多い
今日は月曜日だ。この週末というよりこの一週間は忙しかった。年寄りの一週間なんで、若者のような忙しさではないにしろ、それでもブログを書くのも忘れるほど忙しかったのだ。でも、現役時代から同じであるが、忙しければ忙しいほど教えられることも多い。そしてそれが自分の血肉になっていくのである。
”ゴミ出し” の心
ゴミ出しの日で”燃えるゴミ”を出しに行った。するとどうでしょう! きれいに並べられた「燃えるゴミたち」。一か月前に、網をもらってきて、このように「並べられたら」と破れた網を補修し、バス停の柱に括り付ける紐を通して作ったゴミ置き場。
やっと、頭に描いた通りのゴミの置き方になったと感動した。地域の人たちが、毎週木曜、月曜にゴミを出す。ここまで整頓され、カラスがゴミを食い荒らさないように隅々まで網が回され完璧だったのはこの一か月で初めてだった。やっと心が通じた!一瞬。
国際交流協会
先週の金曜日に「あってみっ会」という会が行われた。県の国際交流協会が主催した会である。茨城県の外国人に対する日本語教育の空白地帯(高萩市・行方市)に日本語教育をするベースを作ろうとする動きである。11月、12月と5回に分けて講習が行われた。主旨は分かるものの、教える方法は正直首を傾げるところもあった。しかし、外国人に日本で楽しく有意義に生活してもらおうという主旨には同意でる。そういう思いを持った高萩市の3人が集まった。それに国際交流協会関係者、高萩市関係者、総勢12,3人の会だった。
やめられない、止まらない日本語指導
もう日本語を教え始めて10年近くなるだろう。最初は地域の友達に誘われ、軽い気持ちで日立市の日本語ボランテアグループに入った。ボランテア人数に比べ、外国人の数が多いので、多人数を一人で担当する場面もあった。少ない時は1対1や外国人が来ない時もあった。日本語の教え方を日本語教師から教わった。そしてそれを実践するのである。仲間に「外国人に日本語を教えない?」と言うと、必ずと言っていいほど、「私(俺)、英語できないから」と言われたものである。その都度、「日本語で日本語を教えるんで、誰でもできます!」と言ったものだった。
何をするにも ”心ひとつ”
ところがそうではなかった。誰でもできるが、そこには「心」が必要だった。外国人に日本語を知ってもらい、「快適な日本での生活を楽しんでもらいたい」という気持ちである。「生活に密着した日本語」も重要(必要)だろう。しかし、そこには「応用の効く日本語」も重要なのである。現役時代の職場の関係で外国生活が15年にもなった。そこで学んだことは、現地の言葉を覚えることが、一番その国の人と心をつなぐ手段としては最短である。そこには最低限の文法が必要なのだ。そうでないと言葉の輪が広がらないのだ。
心さえつながれば、生活してゆく上では、今度は言葉の必要性は下がる。そうは言っても表現方法は一杯ある。極端な言い方をすれば、上限はない。
言葉を紡ぐ、心を紡ぐ
昨日は、来年のお正月の飾りつけを買って来た。かっては、自宅で餅つきをして作った ”お供え” と玄関飾りである。
これに神棚に飾るしめ縄を作れば完璧だ。今日は近所の農家へ行ってしめ縄を作る稲わらを一束貰って来よう。
外国人に言葉を紡ぎ、心を紡ぐと同じように、神様に心を紡ぐのである。
来年の家族の、そして、世界の平和を願って。