ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

なぞかけ

「草が伸びてきたねェー」。またも、我が女房殿からの ”なぞかけ” である。若い頃は、それでも、「そうだね。草引きでもすっか!」と、この ”なぞかけ” をきちんと解き明かし、それをきっかけに庭の草引きが始まったものだ。今は、どうか。「そうだね。草が伸びてきたね」と、相手も知っているだろうが、”なぞかけ” が分からないふりをする。そのまま放置である。敵(失礼!)は、絶対に手を出さない、が、やって欲しいと思っているのか、思っていないのかすら分からない。聞こうともしない。こんな会話が連日続く。考えてみれば、定年後ずっとだなー。

 昨日、近くの友と、北茨城市が誇る?「通りゃんせ」というお風呂に行ってきた。家から車で5分である。露天風呂に入ると、ブナの木かケヤキの木か、新緑が眩しい。実は、先週この友から、お誘いがあったのだ。しかし、コロナのこともあるし、と思っていたら、この友が聞いてくれた。コロナを懸念してか、お客が殆どいないという。では、ということで出かけた訳だ。普通なら、私よりも高齢者と思しき人、家族連れ、昔娘だった多くの人達でごった返し、その人たちの声で、雑踏の中にいるような喧噪に包まれる場所である。しかし、今日は違う。ひそひそ話が恥ずかしいばかりの静けさなのだ。そんな中での新緑である。神秘ささえ漂う。

 しばらくぶりの風呂(湯舟)に入る。私は、毎日シャワー派で、風呂に入ると、しばらく、汗だくになり困ることもあるためだが、これには、フィリピンでの長い生活がある。海外では、どこへ行ってもシャワーだけだ。最後に行ったフィリピンでは、5年以上も滞在することが分かっていたので、バスタブがあるマンションを探した。しかし、結果はどうだったか。バスタブに入るのは、週のうち、1,2日だけだった。でも、人間、無いものねだりで、無ければ無いで、欲しくなる。というわけで、フィリピンでもほとんどがシャワーだった。ここでは、「昔ばなし」は長くなるのでやらないが、それ以来、帰国してもシャワー派となった。実に簡単でいい。20分もあれば済む。

 風呂をあがって、いつもならビールを一杯となるところだが、今日は車で来たのでそういう訳にはいかない。自然と、男同士、友との語らいになった。この友は、今年奥様を亡くしたばかりだった。カラオケがご夫婦とも好きで、この友とは地域の人を集めてカラオケ会を催しているほどだが、ご夫婦の行く別のカラオケ会にも顔を出しては、

お茶菓子や奥様手作りの食べ物などおよばれしたものだった。今でも、この奥様の様子や言葉が思い出される。

 突然、「今考えると、女房には世話になったなーと思うんだよね」と言い出した。そして、続ける。「亡くなる直前の1,2年、女房の世話をして、これでお相子だなんて思っていたけど、そうじゃないよナー。一杯世話になりっ放しだったなー」と感慨深く言うのである。そして、ここ1,2年、ダンナに世話になっていた奥様は、お友達に会うと、得意そうに、旦那に世話になっていることを言うのだそうだ。そして続ける。「俺は、競馬をやったり、ゴルフをやって楽しんでいたりして、家では何にもしなかったから、今、つくづく感じるよ」。「うちの女房は、時々、宝くじなんて買って楽しんでいたなー」。「俺のボーナスなんて、全部、子供の学費につぎ込んでいたのに、娘に、『お前は先生になれ』と言ったら、即座に『いや!』と断られる始末でさー」。

 気落ちしているのかと思って、慰めの言葉をと貧弱な語彙を並べてとやってみたものの慰めになったかどうか・・・。

 また、また、湿っぽい話題になってしまった。

 今後も、女房殿と「なぞかけ合戦」が続く。どちらかが白旗を上げるまで、また、合戦が続いている間は、お互い元気な証拠だ。奇襲作戦などなどせぬよう、正攻法で分かり易い ”なぞかけ” で応戦することにしよう。

 

世界おもしろ昔ばなし②ー2

(そういえば、何年ごろの話しか書かなかった。丁度私が30歳の時の話し、

  今から40年以上も前の話である。長男が生まれ、3歳くらいの時だった)

 

 いわゆる白人の国で仕事をしたのはこれが最初で最後だった。あとは、全て、中近東を含めたアジア地域での仕事だった。こんなことを書くと女性蔑視と叱られそうだが、白人の国には美人がいるという先入観があった。色は白いし、眼はパッチリ、鼻は高いし、髪は金髪だと。しかし、当時の駐在員の先輩の秘書を見て、これは誤解だったと分かった。確かに、テレビで見る外国人は、殆どが綺麗な人ばかりだが、実際はそうでない人(それほどきれいではない人)だって沢山いるのである。日本のテレビを見て、日本には女優のような美女だけと思い込むのと一緒である。オーストラリアに八か月いたが、この人は綺麗だという人に出会ったことはたった一度しかなかった。一般的に言って、美人の少ない国と言えるのではないかと思う。ただ、スタイルは日本人と違い抜群に良かった記憶がある。 

 当時は、コンピューターも普及していなかったし、携帯電話はもちろん、FAXといったものもなかった。日本との連絡は全て国際電話である。しかも料金が高いときている。会社では国際電話は、余程の緊急事態でないと使わせてくれない。そこで、もっぱら、日本との連絡はテレックスという手段を使った。アルファベットで書いた文字を電気信号に変えてやり取りをするのである。漢字も使えないので文章が長くなる。それを工夫して短くするのである。例えば、「明日連絡する」というような文章は、「asu renraku suru」、だが、それを「asu ren」というようにやるのである。そういえば、定年間近に行ったフィリピンでは、「I miss you」を「I mis y」とやる省略文に出会った。どこにでもあるものだ、と思ったものだ。

 こんなこともあった。駐在員の先輩が、お酒が好きで、しかもワインが大好きである。普通お昼時間は現場で過ごすが、たまに事務所で過ごすときに、この先輩がお昼に誘ってくれた。そうすると、決まってワインを昼から飲むのである。当時は、オーストラリアでは、それが普通に行われていたので、そんなに奇異に感じなかった。二人で、一本を飲み干すのだ。結構の量でほろ酔いの感じになる。昼から現場に行く用事があったりすると、正に、酒酔い運転である。しかし、当時のオーストラリアは、酒酔い運転は認められていて、事故さえ起こさなければ、良いらしかった。(当然ですが、今は、

全くこうしたことはやっておりませんから、念のため)

 現場の作業者ともお昼を一緒にしたことが何度かあった。こうした作業者は、アイリッシュと呼ばれ、アイルランドから移民した人達らしかったが、当時のオーストラリアには、かなりの数のアイリッシュがいた。現場近くのパブに入り、ビールを注文する。カウンターに4、5人で並んで座る。最初の人が、数とジョッキの大きさを言う。「中ジョッキ、五つ」という具合にである。それを飲み干すと、次の人がまた、「中ジョッキ、五つ」と言う。そして、また、次の人がである。つまり、人数分飲んだら終わりになる。ビールのつまみと言えば、カウンターにあるビーナッツだけ。そして、終わると仕事である。酔っ払い運転ならぬ、酔っ払い作業である。それが普通のことだから、誰も何も言わないらしいし、それでも事故など起こらないのだ。ジョッキの大きさを何ていうのか忘れたので、ネットで調べてみた。あった! スクーナー(425ミリリットル)、ミディ(285ミリリットル)だった。「シャウト、4スクーナー」という言い方で注文する。日本流に直せば「注文! 中ジョッキ、4個!」である。ミディは頼んだ記憶がないので、スクーナーばかりだった気がする。いつも、こんな時には、中ジョッキを4杯位は飲んでた計算になる。乱暴と言えば乱暴だった。 

 お酒の話が出たついでにもう一つお酒の話題を。当時シドニーでは、こういったパブが街角のあちこちにあった。その影響か、アル中らしき人が、道路端で寝ているというようなことが良くあった。上野のガード下で寝ている人たちとは明らかに違う、酔って寝ているのだ。

 また、こんなこともあった。駐在員の先輩が、日頃、英語で苦労している私を見て、英語に早く慣れるには、日本でいうスナックのようなところで、そこのバーテンと話をするといいと教えてくれた。そこで早速、ホテル近くのスナックに出掛けた。そこのバーテンはスイス人だったが、英語が達者だった。お互い外国人同士なので、すぐ仲良くなり、英語で会話をした。これで英語も大分上達したと思っている。

ここでの楽しみはもっと他にもあった。一つ目は食べ物だった。アジアの各国では、それぞれに、その国を代表する料理というようなものが、一つや二つはあるものだが、こちらが貧乏会社員だったせいか、そういった料理には出会えずじまいだった。その中でも、これはうまいと思ったのは、ここの店で出してくれる「オイスター・キルパトリック」だった。その他にお金さえ出せば、ロブスターの刺身を提供してくれるお店はあったが、我々サラリーマンで行けるところでは、ここの牡蠣料理が絶品だった。生ガキにベーコンを乗せオーブンで焼く料理である。味付けはよく分からないが、ともかくシンプルでうまい。そして二つ目は、この店にいるウエートレスだった。日本人受けする顔立ちで、オーストラリア人に見受ける大柄ではなく小柄で、アジア人を思わせる黒髪美人である。一緒に行った日本人にも好みの女性だったようだ。

 このオーストラリア出張から帰って、すぐ、英検2級を受けに行った。それまで何度も受からなかった2級が一発で合格したのである。やはり慣れというのは恐ろしいもので、毎日分からないなりに英語を話していた成果でもあった。その後、サウジやシンガポールなどでも英語で顧客と話していたが、それほど苦痛に感じたことはなかった。

  (次回へつづく。オーストラリアは次回で終わりになります)

 

世界おもしろ発見クラブ

今日は、“世界おもしろ発見クラブ”の発会式が行われた。これは、日立市で行われる子供向けのクラブで、それまであった、外国の学校と写真で交流を図ろうという企画や外国の文化に慣れようというような企画などを一緒にして、有志のボランテアの人たちが子供たちに指導しようとするクラブである。

 今まで市の企画として、希望者を募ってきて、6人の子供たちとそのご父兄の方々が集まって頂いた。せっかくの良い企画と思うのだが、6人の参加というのは意外だった。今後、毎月1回集まって、上記の企画を進めていく。今日は、発会式も兼ねての1回目ということもあり、地域のテレビである、J-Wayというテレビ局のカメラも入った。

 外国の小学校と写真での交流を進めるにあたって、何を海外の小学校の子どもたちに聞いてみたいか、参加した子どもたちの意見をまとめる作業を行った。周りのボランテアやサポーターの大人が、今の子供たちの小学校の様子を知ろうと、子供たちに聞いていく中で、我々おじさん、おばさんたちが当然と思っていたことが、今の時代では大きく変わっていることを思い知らされた。

 一つは、学級委員長、いわゆる級長という制度が無くなっていた。大学生が二人サポーターとして会議に加わっていたが、その人たちの小学校時代に、既に級長制度というのは無くなっていたということを聞いて2度ビックリである。子供たちを平等に育てようという教育界の意向が感じられる。また、もう一つは、授業の中に“総合の時間”という授業があることである。この中では、環境や福祉なども取り上げているらしいのである。恐らく、「教える授業」から「考える授業」への転換もしくは同時並行的な試みだろう。

 このクラブは、外国、特に、ニュージーランドの小学校との写真交換なども企画されていることから、どうしても“英語”を言語として使うことになる。外国には、当然ながら英語では通じない国もたくさんある。私が、社用で行った国の一つ、サウジアラビアでは、当然、一部の人を除いては、アラビア語しか通じない。“サラマレコ-ム”“ワレム・コンサラーム”という朝の挨拶から始まり、“ブックラ”、“インシャーラ”などという、現地の人がよく使う言葉も一時的ではあるが覚えた。そうした言葉を通じて、知り得たことも一杯あった。“ブックラ”を直訳すれば、“明日ね!”だが、事実は“いつかね”や“そのうちにね”に近い。アラビア語にはこうした言葉が多い。つまり、宗教心が強い社会では、自然の法則に従って、“なすが儘に”というような考え方に気付く。

 そうは思ってはいないだろうが、言語は英語ばかりではないし、あくまで人間性を表現する道具であるということ、つまり、人間性を養う勉強をこうした交流を通じて、子供たちにして欲しいと思っている。

 今後が楽しみである。

世界おもしろ昔ばなし②ー1

 その当時、会社の出張先は、中近東か東南アジアに分かれていた。一旦、中近東に出張先が決まると、その後も中近東の仕事が中心になった。一方、一旦、東南アジアの出張が決まると、何度も東南アジアへの出張となった。派遣する方もその方が勝手知ったる・・・で、都合が良かったのだろう。中近東ばかりが出張先だった私は、東南アジア

特に、シンガポールへの出張者がうらやましくて仕方がなかった。そんな時、突然、オーストラリア出張を命じられた。初めての英語を母国語とする国への出張である。ここでの体験に少し触れてみたい。

 中近東で、英語はそれなりに慣らしたと思っていた。でも、英語を母国語とする国の言葉はまるで違う。その試練は、入国時のイミグレーションで早速訪れた。「passport please」までは良かった。しかし、その後は、何を言っているのか、さっぱり分からないのだ。イミグレーションのおばちゃんが、恰幅が良かったせいばかりでなく、理解できないから、相手の勢いに押され、こちらも無言になる。今なら、聞き直すなり、適当なことを言ってなんとか通り抜けることができるが、その当時は、英語そのものに苦手意識があった。その苦手意識は、半世紀経った今でも変わっていない。

 空港を出ると、当時駐在員をしていた三つ年上の先輩が出迎えてくれた。それでホッとするのも束の間、朝から現場で「ジョイント・サーべイ」をするという。日本語でいう合同調査である。発注者と請負者の現場での打ち合わせである。発注者は、シドニー電力省。請負者には、我々、元請けと下請けも入っての3者打ち合わせである。仕事は、シドニー市内の変電所から変電所まで電力ケーブルを敷設する工事だ。場所は、シドニーの中心街から車で南へ10分程度行った、小高い丘があって、アップダウンの多い道路がある、サリーヒルという地名の場所だ。日本では、電力ケーブルは地中に埋められた配管の中に入れていくので、ケーブル敷設時に道路を掘削することはないが、当時、オーストラリアでは、直埋方式といって、道路を掘削し1m半ぐらいのところにケーブルを埋設するのである。従って、どこをどう掘削するかという打ち合わせが必要になり、ルート上にある街角での打ち合わせになった。当然英語での会話だ。いくら英語ができると言っても日本人の英語はたかが知れているということで、オーストラリアでの工事では、オーストラリア人の監督代行者を歴代雇っていた。従って、具体的な現場指示などオーストラリア人同士の会話の場合、ほとんど必要はないが、それでも、顧客との折衝などとなると、この代行者では用をなさないので、直接、監督者とオーストラリア人との会話が必要となった。

 現場に、顧客、この代行者、下請け会社と我々が7、8人集まり、打ち合わせが始まった。ところが、さっきのイミグレーションでの会話と同じだ。全く、何を話しているのか分からないのである。オーストラリア人達は、日本人に話しても分からないとばかりに、オーストラリア人同士でドンドン話を進めていく(ように思えた)。そして、時々、こちらを見ては「いいかい、マイク?」聞いてくるのである。マイクとは、私に付けられた愛称〈ニック・ネーム〉であり、この愛称とて、いつ付けられたか分かっていない有様。

 こういった引け目があったせいでそう思ったのか、そればかりではないと思うが、当時のオーストラリアには、白豪主義の面影が残っていたと思っている。顧客はもちろんのこと、下請け会社の人たちまで、われわれ日本人を蔑むような態度、言動だったのである(と思っている)。それを当時は痛烈に感じ、今でも、その思いが残っていて、いい国のはずなのに、オーストラリアの国がいまだに好きになれない。東南アジアの国々、中近東の国々は、後進国という位置づけから、我々が製造した電力ケーブルを輸入するのは当然と言えば当然だが、その当時、オーストラリアでは電力ケーブルを製造する会社がなく、遠く日本から輸入に頼っていたのである。しかしながら、顧客のエンジニアたちは、一流大学を出て、電力ケーブルの知識もあることから、日本から輸入することに一種の憤りと劣等感を持っていたのではないかと思っている。その裏返しが、白豪主義の片鱗である。

 このジョイントサーベイから以降、「針のむしろ」が始まった。毎日顧客に作業予定や作業結果などの報告を行うが、電話での連絡が出来ず、いちいち顧客事務所まで出掛け、対面で報告するのである。オーストラリア人の監督代行者との連絡も英語が通じないばかりに、相手のいる場所まで出かけて行っての話となる。不効率極まりない。現場へ行って下請け業者の作業員と話すのも、まともにできない。そんな日々が何か月も続いた。八か月経って帰る頃には大分解消されたものの、それでも、ネイテブなオーストラリア人とは対等に話が出来なかった。(以下、つづく)

増える引き算

 このブログを始めたことを知らせようと、色々メールでやり取りしている、かっての上司、同僚、出張先で出会った方々、今お付き合いしているボランテア仲間、等などにラインやらメールやらを送った。みんなから返事も来たが、その中に、大学時代の友人からの返事があった。色々と検索した結果なども送ってくれた。なかなか、こういったアドバイスを頂ける方もいない。ありがたいことだ。昔、2階やの下宿先で、1階の屋根に布団を干し、そこでいろいろ話した事やキャベツをつまみに酒盛りをしたことなど、大学時代が思い出された。あの時から結構世話を焼いてくれたし、彼のお陰で、田舎者の私に友達の輪も広がった。感謝である。そして、その昔知り合った大学仲間のラインまで教えてくれた。

 今も、ボランテアをいろいろやっているが、そうしたことをきっかけに、お友達にさせて頂いている方も結構いる。そういった方が先日亡くなった。78歳だった。最後にお会いしたのは、1年にも満たない昨年だったような気がする。癌だそうである。その他にも60歳代で亡くなった小学校時代からの同級生などもいる。

 こういった人たちを見ていて、自分もいつどうなるか分からないと思い、ブログを始めたことも確かである。最近は、民放番組を殆ど見ない。民放専門の女房とは、完全に好みが分かれる。私に、どうせ私の方が長く生きるんだから、とウソブク女性である。そんなこともあり、幸いにテレビも複数台あるので、別々のテレビを見て楽しんでいる。たまに、見たいと思う番組のある民放などを見ていると、コマーシャルが入る。すると、即座に、チャンネルを変える。なんで、商品の売り込みに加担して、自分の残り人生をコマーシャルに捧げる必要があるのかと・・・。理屈はそうだが、そんな訳ではない。イライラするだけなのだ。年取ると気が短くなって仕方がない・・・。

 いつからか、訃報欄を毎朝見るのが日課となった。そして、すぐ引き算を始める。頭の体操だ。そういえば、大学時代に心理学の講座を受けた時の先生が多胡先生だった。そしてこの多胡先生が、「頭の体操」という本を書いて、その言葉が今一人歩きしている。78歳で亡くなった先輩の訃報欄を見て、あと、5年だ。急がなきゃ-、と毎日、日曜状態の自分に拍車をかける。そんなに早く歩けるわけでもないのに。今日も新聞の訃報欄を見ては、引き算をする。引き算が増えるばかりである。

 年寄りは、これだから困る。病気の話と訃報欄の話ばっかり、と言われないようにと書いたつもりが、いつの間にそうなっている自分に・・・。では。

 明日は、海外の話題で明るくいこう!

世界おもしろ昔ばなし①ー3

 最初の出張の時の話が長くなった。今回で終わりにして、次回より次の国の話にしたい。この最初の出張時、当時の上司に昨日、一昨日とお会いしに行った。80歳を過ぎて皆さん元気で、昔の話に花が咲いた。

 

先回は、サウジに入る前まで。いよいよ、初めてのサウジ、初めての海外への第一歩。これから、定年までの間、15年間も海外で過ごすことになろうとは・・・。

サウジであろうが、クウェートだろうが、カタールだろうが、ともかく湾岸諸国の風景は変わらないと思う。今、ドバイが有名になったが、高層ビルが立ち並ぶあの姿は,ほんの街中だけである。つまり都心だけがああいった高層ビル、アスファルトで覆われた地域だが、ちょっと郊外に出ると、果てしなく砂漠が広がり、そこに、1本のアスファルト道路、何とも、殺風景な、私にとっては懐かしい光景が開けるのである。

 アブダビ石油の現地事務所へ入り、挨拶を済ませると、これから現地の拠点とするムバラス島(人工島)に行ってくれと言う。どうやって? ヘリコプターだそうだ。すると、そこにいる日本人が、「ヘリの予約を取ってね」と、事も無げに言う。相手は欧米人らしい。当然英語だ。しかも電話で予約するという。日本で、外国人と英語で話したことすらない! しかも電話でだ! カラチで英語に遭遇するとどうなるかは実証済みだ! 出来るわけないだろう? と言ったって、相手はお客様。ともかく何とか、しなきゃ-。英語で電話した経験のある人なら、しかも、初めに。やってみる。とにかく通じない。でも何とかして、ヘリに乗れることになった。もちろん、お客は私一人である。パイロットの白人と私だけ。耳栓をして機上の人に。ヘリも初めてだ。ともかく、最初は怖かった。飛行機のように、大きな箱(飛行機の機体)の中にいて、その箱がゆったり飛んでいるという感覚でないのだ。体自体が空を飛んでいるという肌感覚を覚えるのである。空中に体を投げられた感覚なのである。陸地を後にして、飛び立つ。真っ青なペルシャ湾。やがて、海上に砂の島が見えてくる。ここがサウジでしばらく滞在する基地だ。宿舎に荷物を置く。流石に、石油会社の基地である。小さな島ではあるが、何でもある。身の回り品を売っているお店や、日本食が食べられる食堂まであった。島自体は、数百m程度の大きさの島である。流石やることが凄い。埋立てをして海上に島を作ってしまったのだ。

 そして、翌日、更に、ペルシャ湾を沖に出るという。また、ヘリである。海上にCFP

という”櫓(やぐら)”が建設されていて、油井の維持管理をこのやぐら上でやっているらしい。CFPは、Central Facility Platformの略である。中央監視所位の意味かもしれないが、ともかく宿泊設備も整っているやぐらであった。そこに1泊して、ケーブルの立ち上げ位置を確認してくるのである。そして、また、ヘリの乗員になった。

 CFPが見えてきた。海上数十mを飛んでいると思ったら、急降下。機首を下げて、真っ逆さまに海に機体ごと飛び込むような姿勢である。”あー、落ちる!”と思った瞬間、今度は急上昇! 今度は目の前に、CFPの鉄骨のやぐらの足が見える! ”あー、衝突!”と思ったら、CFPの上にピタリと着陸。 どうも、こういった操縦法をするらしいが、初めての経験で、本当に肝を冷やした。

 何といっても、CFPでの醍醐味は夜だ。正確には分からないが、最上階はヘリ着陸場、次は、居住地区、そして、その次は、変電設備などになっていたように思う。そして、更に下に降りると、海上から数mのデッキに降りられる。そこから眺める海上が何とも言えない光景なのだ。CFPの大きさは、今思うと、50m×50m位の大きさだったろうか。とにかく、そこから遠く海上を眺めると360度何も見えない。真っ暗闇なのである。そこに、不夜城のように、今自分がいる”やぐら”が煌々と光っている。その光が海上に映る。何とも幻想的な風景だった。船乗りの生活もこんなものなのかなー、なんて、遠く東を眺めながら日本に思いを馳せるのである。

 そして、思い出深いのはイカ釣りである。真っ暗闇の中に明かりとくれば、イカ釣り漁船である。しかも、この海一帯が水深20m程度の透明度のある海である。イカの泳ぐ姿が見える。光があるので集まってくるのだ。そこでの釣りである。音が全くない暗黒の世界で自分のところだけスポットライトを当てられているようなものである。次から次から、イカが釣れる、釣れる。釣り堀状態だった。

 半世紀前の思い出である。次は、ダーランにあった、アメリカの企業アラムコに出張したことがあったが、サウジ、サウジと続いてしまうので、40数年前に出張したオーストラリアの話を書いてみたいと思う。

 

高尿酸と肥満の話し

 高尿酸は、よく贅沢病と言われる。なぜか理由はよく分からないが、”牛肉を食べてはいけない”と言われていることに関係があるかもしれない。

 35歳前後の頃、サウジアラビアに仕事で1年滞在した。帰国して検診を受けに行ったら、尿酸値が高く、それ以来、尿酸の薬を35年以上飲み続けている。途中で止めたいという気持ちもあって、当時、お医者さんに聞いたら、尿酸の薬は、一旦飲み出したら半永久的に止められないと言われ、それ以来、我が分身同様である。

 尿酸値の高い人が気をつける食べ物に、プリン体を多く含む食べ物飲み物、納豆、アルコール(特に、ビール)、牛肉、動物の内臓などがあげられる。一般的に、お酒のつまみになるようなものは、控えなさいと言われてきた。そして、尿酸値が高くなった時の原因として、サウジアラビアで毎日食べ続けた牛肉が問題だった、と今日まで思っていた。サウジアラビアでは、豚肉は宗教の関係で、市内では販売もしていないので食べられず、牛肉ばかりを食べていた。更に、悪いことに、工事隊と一緒に、日本で洋食屋さんをやっていたコックの人を同伴して出張していたため、どうしても牛肉料理が多くなり、毎日のようにビーフステーキを食べていたのだ。だから、尿酸値が高くなったんだ、と思い込んでいたのである。

 ところがである。1ケ月ほど前、毎月定期健診に行っている、かかりつけのお医者さんが、この飲み続けていた尿酸の薬を止めてみよう、言い出したのである。理由は、腎臓のバロメーターである尿素窒素の数値が許容値より高かったため、尿酸の薬が悪さをしているかもしれないと先生が思ったためのようだ。検診の結果については、ここで終わったが、前から気になっていたことを聞いてみた。

 牛肉をたくさん食べ続けたことと尿酸値が高くなることに因果関係があるのか聞いてみたのである。すると、驚くことを言うではないか。牛肉を食べ続けて、一時的(たとえ、1年でも)に尿酸値が高くなっても、食べるのを止めれば、尿酸値は下がるというのだ。つまり、日頃の習慣の問題で、サウジ滞在期間中、牛肉を食べ続けていたことは関係ないというのである。

 今まで、止めることはできないと言われてきた尿酸の薬である。1ケ月が既に経過するが、いつも、尿酸値が高くなると必ず出る症状、つまり、左足の親指の付け根がムズムズする症状が、今のところ出てこないのである。今、2ケ月目に入っている。このまま止めることが出来たら、それはもう天にも昇る気分である。何せ、35年も付き合った、悪ガキとの決別が出来るかもしれないのである。

 ついでに出た話が、肥満の話である。これは、高尿酸は遺伝するのか、との私の質問に対する答えとして出てきた話である。我が息子も、35歳過ぎて尿酸値が高いと言っているから聞いてみたのだ。

 肥満は、小学校高学年までで決まるという。それまでに肥満だった人は、大きくなっても肥満になるというのだ。それ以降に肥満になった人、つまり、大人になってから肥満になったような人は、一時的な肥満で、食生活を変えれば、スリムな体形に戻るという。これは、肥満細胞の数と肥満細胞の大小の関係らしい。つまり肥満細胞の数は、小学校高学年までで決まり、以降、数は増えも減りもしない。だから、肥満の人がダイエットして痩せて、腰のあたりに肉がだぶつく、あれは肥満細胞であり、切除するしか方法がないのだそうだ。一方、スリムな人が、肥満になった場合は、習慣さえ変えれば、痩せてスリムな体形に戻るそうだ。もちろん、肉がだぶつくなんてことはない。元々、肥満細胞が少ないからだそうである。

 我が息子の尿酸値が高いのは、遺伝ではなく、食べ物の好みが似ているといったことが原因だそうである。なんかホッとしたようなそうでないような。でも、肥満の話が聞けて良かった。