ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

フィリピンの魅力(21.みんながみんなを気にする社会)

 大分、新型コロナが下火になってきたと思ったら、オミクロン株の騒ぎである。世界各国に広がりつつあるものの、日本の水際対策が功を奏してか、今のところ感染拡大の兆候は示していない。これから年末にかけて寒さも厳しくなることもあり、第六波も含めて要注意である。

 

プレゼントの習慣

 年末が近づいて来ると、クリマスシーズンに間もなく入る。すると、クリスマスプレゼントである。今回は、誕生日プレゼントの話だ。

 これは、日本が世界の常識から外れていると言っていいと思われる習慣でもある。日本では誕生日を迎えると、その人に両親や友達などからプレゼントをあげる。これから誕生日を迎える人に、「今度の誕生日プレゼント、何が良い?」なんて聞いて、好きなものをプレゼントしてあげるというのが一般的な日本の風景である。

 

プレゼントは誰がする?

 ところが、フィリピンはアメリカ文化が入っているせいか、誕生日になる人が他の人にプレゼントするのである。色々な国に行ったが、誕生日の場面に遭遇したことがなかったせいか、また、そのようなお付き合いをしてこなかったせいか、恥ずかしながらフィリピンの習慣を知らなかった。「なんで、誕生日を迎える人が、みんなにプレゼントを贈るの?」と不思議な思いをしたものである。「無事、誕生日を迎えられて良かったね」とお祝いしてもらうか、「今までみんなのお陰でここまで来たよ。ありがとう」とお礼の意味を込めて贈り物をあげるかの違いだろう。

 

他人の誕生日が気になる

 聞いてみれば、「なるほど」と納得できるし、また、その逆の日本の習慣も捨てたもんじゃない。ましてや、自分の誕生日に何かもらえるという意識だから、自分の誕生日は当然知っていても、他人の誕生日にはとんと興味がないし、気にもならない。

 しかし、フィリピンは、他人の誕生日が気になるのである。何かをもらえるという期待が込められている。ましてや貧困、そして騒ぐのが大好きな陽気な国民性である。現地の会社内で、事務所内のみんなが他人の誕生日を知っているのには驚いたものである。個人情報も何もあったもんじゃない。総務の事務員が、事務所内のみんなに他人の誕生日を教えているのだ。かくして、私の誕生日が近づくと、「今度の誕生日には何をプレゼントするんだい?」とみんなが聞いてくる有様だった。

 

マックの誕生日プレゼント

 そういわれてみれば、何週間か前に、私にも、お昼時間に食べ物が机の上に置いてあったことがあった。その時、いい加減に理由を聞いていたので、そんな習慣でやっているとは考えてもみなかったのである。事務所内で誰かが誕生日になると、キャンテーンからお昼ご飯(例えば、焼きそばなど)を出前してもらい、みんなの机の上に昼食を置くのである。事務所に30人いれば、年に30回はご相伴にあずかるということでもある。

 自分の誕生日が来た。さて、何にしようかと悩んだ。キャンテーンから取り寄せたのでは、一般の従業員と同じになってしまう。みんなが期待して待っているのは分かっている。そこで、思いついたのが「マック」である。マクドナルドのパンにハンバーグを挟んだあれである。あれの出前をお昼時間に頼んで、みんなの机の上に置いたのである。このマックは、フィリピン人には大変人気がある。同時に、日本で買うような値段ではなく、物価の差もあり、安価で手に入るのである。

 

みんながみんなを気にする社会

 こんな風習もあり、みんなが他の人のことを気にかけてくれる。そして、みんなが仲良く暮らす社会がフィリピン社会である。そこには、今ほど裕福でなかった昭和30年代の日本の姿があった。あの頃、色々な行事が地域地域であった。地域のみんなが協力して色々なことをやった。その後には、みんなで集まり懇親会である。当然お酒が入ることだってある。

 ところが、今は、お葬式も家族葬。先日、寄付集めに近所を回ったら、「お父さんいますか?」「父は、亡くなりました」という息子の姿があった。「えっ!、いつ?」と思わず聞き返した。そんな世の中になった。

 

 

0.0001%にかける情熱

鹿行(ろっこう)地域

 鹿島アントラーズの話である。ブログを見てくれている人が、関東圏であれば分かると思うが、鹿島地方を車で走るとよく分かる。何が分かるかって? 人がいないことが分かるのである。茨城県は農業県である。特に、鹿島地方、鹿行地域は、農業の盛んな地域でもある。この地域は、西に霞ケ浦、東に鹿島灘の太平洋を控え、細長い平らな地形の砂獏地域なのだ。この鹿行地域は、鹿島市神栖市潮来市行方市鉾田市で形成されている。

 

鹿島臨海コンビナート

 そこに、1969年(昭和44年)、最初の企業、住友金属鹿島製鉄所が操業開始したのが鹿島臨海コンビナートの始まりで、鹿島市神栖市に広がっている。今では、160の企業、2万2千人の従業員が働いている。1964年に用地買収を開始し、1973年にコンビナート開発終息を宣言した工業地帯であるが、茨城県として、それまで県北地区に集まっていた工業地帯を鹿行地域にもと開発された工業地帯でもあった。

 

鹿島アントラーズの名乗り

 鹿島アントラーズの前身は、住友金属工業のサッカー部(蹴球団)のようだ。当時、日本サッカーリーグの2部に所属していたチームだった。そして、1989年にプロサッカーリーグ設立が具体化したのを受けて、このサッカーチームが、鹿島市神栖市の後押しを受けて名乗りを上げたのである。Jリーグの参加チームは、元々は、一つの都市を本拠地とするのが原則だったが、鹿島アントラーズだけは、5市の共同ホームタウンが認められたチームでもあった。 

 Jリーグ参加希望を受けて、Jリーグ設立メンバの一人だった川淵三郎が言った言葉は、「住友金属さんが加盟できる確率はほとんどゼロなのです。99.9999%無理ですよ」。

 

0.0001%の可能性

 普通なら、これじゃダメだ、と諦めるところだが、要望メンバーは、0.00001%可能であればと加盟に闘志を燃やしたそうだ。それは、その時の、川淵が、住友金属の参加を諦めさせる最後の手段として言った、「観客席に屋根の付いた1万5000人収容のサッカー専用競技場を建設できるなら考えましょう」の一言だったという。

 つまり、それまで、Jリーグに参加希望しているチームには、出身母体の会社があり、その会社のある都市は何十万都市という人口を抱え、更には、花形選手を擁したチームばかりだった。そういう点から、川淵三郎は、鹿島アントラーズの参加は不可能だ、諦めさせようとの思いから、99.9999%無理だと言ったのである。つまり最後通牒として、スタジアムの建設という無理強いを要求したのである。

 

Jリーグ参加発案者たちの奮闘

 ところがである。Jリーグ参加に闘志を燃やすメンバーは、安く、短時間に出来るサッカー場を開発し完成させてしまった。そして26万人もの賛同者を集め、ジーコを迎い入れた。そうして、Jリーグへの参加が承認されたのだった。

 Jリーグ参加が決まってからも大変だった。なにせ、マチュア―2部リーグのチームが、プロチームのJリーグ参加である。迎い入れたジーコが練習に参加した時、あまりにも甘い練習態度に怒りを露わにしたという。そうして、プロらしい練習に変わっていった。ジーコの活躍で初戦を勝ち、熱狂的ファンも増えていった。

 

田舎、プロサッカーチームの苦闘

 しかし、田舎町のプロサッカーチームである。熱狂的ファンがいると言ってもホームグランドでの試合は年間30試合程度しかない。それ以外は人が集まらないのだ。元々、Jリーグ参加を望んだメンバーたちは、砂漠の町をサッカーの町にしたかった。そこで、いろいろな趣向を凝らした。スタジアムを診療所として利用する、スタジアムでビアガーデンを企画、スタジアムグルメ、地元の特産品を使った通販サイトの立ち上げなど等だった。

 

鹿島アントラーズの将来

 そうした努力があるが、専門家の分析によれば、こうしたバックボーンが脆弱なチームの将来は、2041年に崩壊すると出た。そこで、発案メンバーたちは企業を募り、メルカリの参入が決まり、現在経営改革に乗り出しているそうである。

 地域活性化のために、結成発案メンバー、それをサポートするメンバーの「0.0001ならいける!」という発想が素晴らしい。世の中、全てが全てこのようにはいかないだろうが、不可能を覆すことのできるのは、「情熱」しかない。

 

 

 

フィリピンの魅力(20.百三つ)

神田川

 「神田川」の作詞家、喜多條 忠が、74歳で亡くなったと今朝新聞で知った。同世代である。若かりし頃、フォークソングというのが流行った。その一つに数えられるのではないかと思う。今流行りの歌の直接的な表現とも少し違う、演歌の匂いのする歌詞がとても良い。

 「・・・洗い髪が芯まで濡れて、小さな石鹸カタカタ鳴った、貴方は私の体を抱いて、冷たいねって 言ったのよ・・・」 あのかぐや姫が歌ったあの曲である。この前半の詞は、大学当時下宿先で、銭湯に行き、出てくるときに出会った若い娘さんの洗い髪を彷彿とさせる詞である。

 

さりげない奥ゆかしさ

 演歌の良さは、全てを文章にしないところが良い。そして、日本文化も全てを曝け出さないところがいいのだ。「さりげなく」ということばが良く似合う。しかし、今の時代は違う。自分を売り出すことで、世界が開けるのである。かっては、世界一になることが難しかったが、つい先日の2020の東京オリンピックを見ていても、十代の若者が世界一になってしまう時代である。「さりげなく」振舞っているだけでは、いつまでたっても「さりげなく」なってしまうのだ。

 

達成感

 今、日本で、お金さえ出せば殆どのモノが買え、殆どのことが叶えられる時代になった。ある意味、「つまらない時代」になったのである。努力して、お金がないのを何とか工夫してみんなで協力して、やっと叶えられるという「ありがたさ」「達成感」というものがない。その分、サッカーなどの試合でご贔屓のチームの応援に没頭し、「達成感」を味わっているのかもしれない。

 

百三つ

 「百三つ」と言うことばをフィリピンで作った。フィリピンの会社で従業員の要望を聞く会を設けていた。色々な要望が出る。その中には、不合理なもの、お金がかかり無理だと思われるもの、ちょっと工夫すればできるものなど、多くのモノが含まれていた。考え方としておかしいものやお金の関係ですぐには無理なものなどは、良く説明をし、納得させ諦めてもらった。でも、会社としてちょっと努力すればできるものは実行に移した。

 

フィリピンの百三つ

 どこでもそうかもしれないが、フィリピンという土壌は、国民性として非常に朗らかで、くよくよしない性格の人たちが多い。従って、誠意をもって説明すれば分かってくれる。その代わり、出来るものはすぐやってあげる、という姿勢が大事だった。そうです、もうお分かりと思うが、百聞いてあげて、三つを実行してあげれば、満足する社会風土なのである。百聞いて百実行したのでは、会社が潰れてしまう。

 

耐える社会

 「我慢する」という重要性である。何でも叶えてあげればいいと言うもんじゃーない。特に、子ども時代には、「耐える」ことを覚えさせる必要がある。何でも自分の思いのままでは、わがままで、ちょっとした、いじめなどの逆境に耐えられなくなるばかりか、いじめをする加害者にもなってしまうのである。「耐える」ことが分かれば、相手の気持ちが分かるようにもなるのだ。

 

敢えて耐える心

 余裕があり、何でも買ってあげられる環境にあっても、敢えて「耐えさせる」訓練をすることだと思っている。その代わり、何かを達成したらそのご褒美として、叶えてあげるという姿勢も大事だ。

 「耐える」というのは、貧乏な人の専売特許ではない。貧乏な人でも、贅沢三昧の人は一杯いる。つまり、耐えることが出来ない人である。私も貧乏な人のはしくれだが、親からは、かなり「耐えること」は教わったと自負している。

 日本でも「百三つ」の精神は大事だ。

 

 

 

世界のヘソ

ヘソの緒

 臍(へそ)で茶を沸かす、臍を曲げる、などの言葉にも使われる「ヘソ」である。まだお腹の中にいた胎児のとき、母親と唯一繋がっているのがヘソであり、栄養分を母親から分けてもらい、人間として一人前に育つ。そして、臍の緒を切ってもらい、人間の社会で生活するようになる。従って、母親とのつながりは、一時的な営みで誕生する役割を担う父親とは違い、実に深いものがある。その後の人間としての生活の過程で、いくら育休を取って頑張ってみても、本能的な母親とのつながりに敵わないのは当たり前である。昔は、自宅でお産をし、「産婆さん」という人が、各地域にいて、その人たちの助けで子どもを産んだものだった。私も、もうなくなったが、今住んでいる昔の実家の納戸で産婆さんに取り上げてもらったと聞いた。

 

日本のヘソ

 「日本のヘソ」は、・・・県・・・市、などとよく聞く。つまり、その対象とした地域の中心を「ヘソ」と呼んだりする。日本にも、「日本のヘソ」と呼ばれる市町村は複数存在するようだ。我々北関東の人間からすると、日本の中心は中部地方にあるような気がしていたが、関東のど真ん中にある市や関西の市がそう呼ばれている例もあるようで、見方によって変わっても来るのでどこが正しいというものでもなかろう。それぞれの市町村が、わが市が・・・と思い宣伝すればいいことではないかと思う。

 

思い出のないトルコ

 40歳前後に、中近東クウェートに駐在することになり、私は3年半、家族は学校の関係で3年滞在した。毎年夏にというか8月に、2,3週間の休暇がもらえ。それは、日本へ帰っても、どこかへ旅行してもいい、但し、健康診断は受ける、という条件付きだった。そこで、私たちは、ヨーロッパ旅行を計画し、3年間、3回に分け、ヨーロッパ各国を回った。殆どの国を回ったが、ヨーロッパかアジアか分からないトルコだけは、その計画から抜けたのだった。その時以来、トルコは何か気になる国になった。

 

考古学者、大村幸弘氏

 つい数日前、大村幸弘という考古学者のインタビュー番組に出会った。大村幸弘氏は大学卒業後、一貫して遺跡発掘に身を投じてきた人のようだ。エトロフ島事件でロシア人の捕虜となった大村治五平の子孫であり、親族にも色々な名の知れた方々がいる。この番組で、大村氏が強調していたのは、考古学そのもの、つまり、古い時代の詳細を明らかにすることだけではなく、それを後世に伝える人を育成することや考古学ではいろいろな分野の人の協力が不可欠だが、そうした協力の心の醸成が必要と力説していたように思う。

 

考古学に対する当時の認識

 私は理系出身だが、学校を卒業した1970年頃は、製造技術で世界を追い越せの時代であり、理系が当たり前で文系と言うと、少し下に見られていた時代。そして、そうした文系の中でも、考古学と言えば変人扱いに等しいような印象を与えたものだった。私の数年後輩に従弟がいた。彼は、考古学を専攻した。すると、私の両親は、「・・・ちゃんは、考古学を勉強するんだって、」と何かとんでもないことをする人のような言われ方をしていたものだった。そういう時代に、海外で、定職を持たずに?、遺跡発掘に執念を燃やす青年に向ける目はどんなだったか、容易に想像がつくというものである。

 

カマン遺跡の逆襲

 高松宮様が現地を訪問し、カマン遺跡の発掘作業に、高松宮家が協力するようになった。そして、公費(日本・世界)を投入するようになった頃から、カマン遺跡の発掘作業に対する潮目が変わったような気がする。今ではいろいろな関係施設ができ、継続して発掘作業を進める資金も集められるようになったようだ。

 世界のヘソと呼ばれるトルコ。北は黒海、西はエーゲ海、地中海に囲まれ、アジア大陸から西にピョコンと飛び出した、正に「ヘソ」である。現地を訪問する機会ももうないだろうが、この番組で、考古学に対する考えが大きく変わったことだけは確かである。

 

 

フィリピンの魅力(19.モノのありがたみ)

技能実習生のボーナス

 技能実習生たちと話す機会があった。そこで、ボーナスの話をした。すると、ボーナスの話はしないでくれという。理由を聞くと、技能実習生にはボーナス支給がないそうである。でも、これは企業によって異なるとも言っていた。

 しかし、技能実習生から特殊技能というワンランクあがった職種になれば、ボーナス支給もあるというのだ。今や、技能実習生は企業にとって貴重な戦力である。その人たちに、普通の従業員並みに、雀の涙でも、支給してあげれば歓ぶのになーと、ついつい甘い考えをしてしまった。

 

子どもの頃のボーナス時期

 日本では、12月に入ると、早い会社は12/10頃からボーナス支給が始まる。私の家は、小売店をやっていたので、ボーナスを支給される親の気持ちなどはよく分からなかったが、それでも12月になると、ボーナス商戦で、売り出しをやるので、そういった意味でボーナス時期は子供なりに理解していた。会社員のおじさん達が嬉しそうにボーナスが入ったと顔をほころばす様子を見ると、もらっていないこっち迄嬉しくなったものだ。

 

現金支給のボーナス

 そして、私が会社員になってボーナスを支給され、分厚い封筒に入った現金をスーツの内ポケットにしまい込んで家に帰る。何とも心豊かに幸せな気持ちにさせられたものだった。その頃、つまり、昭和40年代後半、1975年頃、には、スーツの内ポケットを狙う「スリ」や「強盗」などが跋扈した時代でもあった。半世紀前である。この頃から計算機、パソコンといった機械化と称する波が、現場作業ばかりでなく、事務作業にも及び、「振込」という形態に変わっていった時期でもあった。それまで分厚い封筒で心の豊かさを実感し、家に帰っては、その分厚い封筒を家族に見せ、お父さんの存在を見せつける場も無くなっていった。

 

フィリピンのボーナス支給

 さて、一方、フィリピンである。私が赴任したのは2003年11月であるから、それから4半世紀が過ぎていた。

 現地会社の通用門に従業員が溢れている。そして、皆一様に30kgの米袋を担いでいる。ボーナス支給日の退勤時の風景である。フィリピンの私の会社は、ボーナスにお金の他にお米を支給するのである。会社は、工業団地内にあったが、日本企業の現地会社は、結構、このお米の現物支給が多かった。当然、従業員たちはニコニコ顔である。なぜ、こうした現物支給が行われるかである。お米が買えないからではない理由があった。

 

なぜ、お米が支給される?

 前にも書いたが、(一般的に)フィリピン人は貯金というものをしない。ある現金はパッパッと気持ちよく使う。そして、なくなったら、知人友人からお金を借りる。もうちょっと行くと、日本でいうサラリーマン金融から借り入れをするのである。そして、ボーナスを支給されると、そのお金は家族まで届かず、借入先に直行してしまうのだ。家族はボーナス日でも何も受け取れないということが起きるのである。そこで、現物支給となる訳だ。一番食べるのに大事な「お米」の支給となるのだ。現物であれば、家まで届き、家族も潤うのである。

 

日本のお米配給制

 日本でも昭和30年代半ばの頃迄、「米穀通帳」というのがあり、お米の配給制度というのがあった。これはお金を払ってお米を買う訳であるが、必要以上に買えなくなっていた。しかし、時代が進むにつれ、自己流通米が出回り始め、昭和40年代には、そうした「米穀通帳」も機能しなくなっていった。今は、モノ余りの時代であり、お金を出せば何でも買える時代である。「モノのありがたみ」が分からなくなっている時代である。買って手に入れたものは、誰に感謝することなく、使い、食べるのである。

 

「モノ」のありがたみ

 フィリピンでは、家族の誰かが働いて、お金を持ってきて、それを「使えるありがたみ」、そして、そのことで、会社からお米を支給され、お米が食べられるという「モノのありがたさ」を実感できるのである。一方、日本は、モノが溢れ、お金で何でも処理してしまう、「お金」至上主義のような、心のない感激の薄い時代になってしまった。

 もう一度、日本も各家庭で、「働けるありがたみ」「お金のありがたみ」「モノのありがたみ」を話し合って、若い世代に、特に、子どもたちには教えてあげる機会を作るべきではないのだろうか。

 フィリピンにはそうした環境がまだまだある。

補聴器

 補聴器を購入した。当然ながら今まで聞こえていなかった音や声が聞こえるようになった。

 

日本語能力試験

 前にも書いたが、日本語能力試験という日本語を勉強している人の検定試験がある。N5からN1まであり、N1が一番難しい試験である。それぞれの試験に、語彙・文法、読解、聴解という三種類の試験があり、総合点で合格を決める試験である。片言で話せて、日本人の言うことも、何度か説明しているうちに分かる程度は、N3・N4レベルである。N2レベルになると、発音の仕方で外国人と明確に分かるが、日本人の言うことはほぼわかる。ただ、自分の言いたいことが日本人が分かるようには話せないというレベル。N1になると、外国人の名残が発音に残るが、日本人の言うことも分かるし、自分の言いたいことも日本語で伝えられるというレベルになる。

 

補聴器を買うきっかけ

 補聴器を買おうと決めたのは、N2の聴解という試験がきっかけだった。7月と12月にこの試験があるが、その受験勉強の一環として、学習者の方々に聴解の模擬試験を行った。当然その試験に立ち会うが、6月にやった聴解の模擬試験では、問題の言葉が聞き取れたものが、11月にやった模擬試験で、一部聞き取れなくなってきたのである。

 それまでも、テレビなどを見ていて、明らかに音が出ているはずの場面で全く聞こえないということも何回か経験していた。

 

二種類ある補聴器

 補聴器というのは、テレビのCMで宣伝している数万円の補聴器と数十万円する補聴器の大きく分けて二種類がある。前者は、正確には補聴器とは言わないらしい。各人によって音の聞こえ方は色々ある。耳鼻科や補聴器を売っている店(メガネ屋さん)に行くと聴力検査をやってくれるので、どの音域が聞こえないかが明らかになる。

 例えば、低い音域がー2dbのレベル、中音域も-2db、高い音域が-6dbという風に出るのである。正常値は、全て0dbである。つまり、低い音域も中音域もやや聞こえにくいが、高音域になると極端に聞こえないという現象である。

 そこで、前者の安い補聴器だと、全体の音量を上げるので、それぞれ、+4、+4、0というように、一番聞きにくい音域を正常値に合わせる。従って、高音域、中音域は大きくなってうるさくなるという現象が起こる。しかし、数十万円の補聴器は、各音域とも0(正常値)に調整することが出来るのである。人間の耳は、自分に都合の良い音だけを拾うように出来てはいるが、それにも限度があるようで、うるさくて仕方ないという現象が出るようだ。

 

補聴器を購入した。どうなった?

 そして、聴力検査をして、補聴器がメガネやさんに届いた。早速行って購入。色々調整して頂き、先ほど述べた各音域のレベル調整と全体のレベルをどこに合わせるかの調整である。それをつけて家に帰った。確かによく聞こえる。廊下に絨毯らしきものが敷いてあるが、今までスリッパでここを歩く音は全く消えていなかったが、これが聞こえ出した。凄くうるさい。そして、自分の執務机の右上にある時計の針の音が異様に大きく聞こえる。最初、今まで聞こえていなかったので、何の音か分からず音源にたどり着くまでしばしかかった。

 

必要な音量調整

 そこで、全体の音量を2段落下げてもらいに、またメガネ屋さんに行った。帰ってくるとこれで正常な感じがして、現在もこのままである。そして、懸案のN1の聴解試験、模擬試験を聞いてみた。きちんと聞こえるではないか。ひょっとして、自分の認知能力が落ちたのかともと思ったが、そうではなかった。今まで、「やさい屋さんに行って、はくさいを買う」という文章だとすると、「や」と「は」が聞こえなかったりすると、「・・さい屋さんに行って、・・くさいを買う」となる。そこで前後の文章からこのの単語を類推する訳だが、それを考えているうちに、言葉はどんどん進み、文脈として、何を言っているのか分からなくなるという現象である。

 

精神的な副産物は大きい

 耳鳴りは、気にならなくなる、と言っていたが、これはその通りで、なくなる訳ではなく、耳鳴りも聞こえてはいる。でも、「私は耳が遠い」と思いこむ必要がなくなって、聞こえない言葉は堂々と聞き直すことが出来るようになった。そして、いちいち「耳が遠いもんで」と言い訳する必要もなくなった。これだけでも数十万の価値は十分にある。

フィリピンの魅力(18.スプーンとフォーク)

イカラな料理

 私が子供頃だから半世紀以上も前になる。食事は、三食ともご飯に味噌汁、たくあんの漬物、それとおかずが一品か二品と決まっていた。そのおかずは、魚・野菜が主流で、肉というのは余り出たことがなかった。今のような料理番組どころか、テレビがない時代なので、本でも読まない限り、料理の仕方などは自力では分からない。だから、母親に教わるのが唯一の手段でもあった。従って、女性がお嫁に行く時には、花嫁修業と称して、料理を教える学校に通い母親が教えてくれた以外の料理を、しかも、当時でいう言う「ハイカラな料理」を覚えてきたものだった。

 

ナイフとフォーク

 その頃、当時の大きな食堂(レストラン)へ行くと、日頃食べ慣れていない肉料理が出た。大きな食堂へ入ること自体が、田舎者にとっては一大事だった。テーブルに白いクロスがかかり、膝の上には白い布が置かれる。そして、前菜から順に料理が出てくる。そして、食べ慣れた箸ではなく、スプーンとフォークである。何もかも、経験したことのない出来事だった。普段、カレーライスなどを食べるときにはスプーンを使っていたが、こういうハイカラな料理でスプーンとフォークが出てきてそれをどうやって使うものやら。と、マァー一大事だったのである。肉は、ナイフとフォークで食べるものと、物知り顔の人たちが教えてくれ、悪戦苦闘として食べたものだ。

 

スプーンとフォーク

 そして、所変わって、フィリピンである。フィリピンに限らず、東南アジアは、全てそうった言い方をするが、食堂(大衆食堂)は、「キャンティーン」と発音する。フィリピンの会社へ赴任し、会社内のキャンティーンを見て、最初に不思議に思ったのが、ナイフとフォークではなく、スプーンとフォークだった。子供の頃からナイフとフォークが「対」のように教えられ育った人間としては異様に見えた。実に器用にスプーンを扱うのである。日本人が、カレーライスを食べるとき、おかずが何がしかあると、箸とスプーンを準備するのと同じ考えである。箸は食べ物を持つのに使うが、時には、魚などの場合は、身を千切ったりする。更に千切れない食材だと、一方を箸で押さえ、スプーンで引っ張って千切ったりする。この箸の代わりにフォークがあると考えれば容易に想像がつく。

 

テーブルマナーで外国人差別

 そして、その頃、フィリピンの新聞に記事が載った。カナダに移住したフィリピン家族の子どもが現地の学校で差別を受けているというのである。つまり、低学年の学校で先生が子どもたちにテーブルマナーを教えようとすれば、右手にナイフ、左手にフォーク、そして音をたてずに食べるようにと教える。ところがこのフィリピン生まれで育ちの子どもは、スプーンを使った。すると先生は、何とかして矯正しようとしたのである。それが外国人差別という話に進展した。

 

気にする欧米人

 日本でも和食を食べるときに、同様な厳しいマナーを要求する家庭や環境もあるだろうが、日本はそこまで厳しくないというのが一般的だろう。しかし、洋風の外国、特に欧米は、食事に関するマナーは一般の人まで厳しく躾けられるようである。そうした欧米人が日本に来ると、日本の食事マナーに興味を持つ。日本食はどういったマナーで食べるのかと気にするのである。

 

気にしない東南アジア

 その点、仏教徒はあまり厳しく躾けられないのが一般的だろう。東南アジアの国々に行ってみても、手で食べるのを始め、箸を使ったり、スプーンを使ったり、ナイフ、フォークを使ったりと多種多様である。フィリピンは箸を使うことはないが、殆どがフォークとスプーンで食べる。フィリピン料理の中には汁物が結構多い。従って、そうした食べ物から、食べやすい食べ方になっていったのかもしれない。

   (つづく、・・・)