ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

日本は天国

 昨日配信された ”農業新聞” に、農業委員同僚の新聞記事が掲載された。前もって、先月の農業委員会総会で農業委員全員に紹介された話題である。我々農業委員は、時々農地をパトロールし、田んぼや畑に変化があった場合、農地地主に疑問を投げかけ、農地の退廃を防ぐ仕事も担っているのだ。その過程で、徘徊老女を見つけ、一時保護し、警察に引き渡した、という記事である。一緒に農業委員会会長も映っている。立派な行動である。そういう境遇に接すれば、日本人なら当然だと思うが、最近はその当然(の親切)が当然でなくなっている。

農業委員の大金星       Youは何しに日本へのテレビ番組

 外国人が日本の何かに魅せられて沢山やってくる。その外国人に ”どうして日本へ来たの?” と聞く番組がある。”Youは何しに日本へ”という番組だ。ここでは、自国の日本レストランで食べた「餃子」と「カツ丼」が忘れられないと2人の外国人が来日し、美味しい料理や自然を満喫する番組だった。

「餃子」と「カツ丼」の旅

 私は、数十か国を現役時代訪問した。年オーダーの駐在/滞在から数日の訪問まで入れての話だが、それぞれの国でその国の料理を食べた。勿論、日本人が当時は愛したフランス料理も旅行者がよく行くフランス国内のレストランで食べた。そういったときにいつも思うのは、”日本料理は旨い” ということである。今まで食べた料理で、その日本食に匹敵するのは、中国料理の ”北京ダック” しかない、と私は思っている。

 自然もそうだ。中近東は砂漠が多いので自然を満喫すると言ったって、砂漠で夜中を過ごすキャンプくらいだが、定年間際に滞在したフィリピンで、棚田の有名な場所があった。ネットで検索して貰えばすぐ分る。こうした風景も日本には一杯ある。

 私たちは「日本は小さな国だ」と学校時代教わり、その情報が刷り込まれている。しかし、日本は、イギリス・ドイツ・イタリア・ギリシャスウェーデンなどより広い国土面積を持つ。他のヨーロッパの何処の国と比べても比較できる程度の国土の広さなのだ。それともう一つの大きな理由は、南北・東西に長い国土を持つ。北は北海道の(北緯45度31分22秒)稚内、南と東は沖ノ鳥島(北緯20度25分、東経156度04分)、西は沖縄与那国島(北緯23度27分、東経122度56分)で、東西/南北に約3000kmである。

 ちなみに、よく知るアメリカ本土と比べると、アメリカは南北に約3000km、東西に4500kmで、面積では1/30であるが、広さとなれば匹敵できる位であり、寒い/暑いなどの風情のある国になっている。

 そして何より違うのが、日本人の親切な思慮深い気持ちだろう。アジア人は一般的に「親切/家族思い」であるが、一般論として、「家族思い」の国民性は何処の国でもあるが、他人に対しても日本ほど「親切」な国民はいない。昨日の番組で紹介があったが、電車から乗客が降りた後、車掌が全車両残った客がいないか見て回る国はなかなかないそうである。これも親切心の典型だろう。

 こうした目に見えない「親切」に外国人は、日本は住み易いと感じるのだろう。寒さを知っている、(蒸し)暑さを知っている、こうした環境に育った自然と同時に育まれた日本人の国民性にバンザイである。

大きな喜び・満足感

 いつもこの時期になると、他のツツジの花に先駆けて、”霧島” が咲き出す。見事な紅い色だ。もう10年ほどになろうか、余りに綺麗なのでいずれはと思い、株を分けた。その子株も咲き出した。この霧島には思い出がある。会社勤めの頃、庭に色々な木があった。会社の同僚が、「・・・さん家の庭で、何の木が欲しいと言われたら、この霧島にする」と言われたことがあるのだ。我が家の庭の中でもインパクトのある木である。

   我が家の ”霧島”            10年ほど前, 株分けした ”霧島”

 労働力不足が巷で騒がれている。その不足に、日本語を教えることで貢献している事例を紹介したい。

 ベトナム人の女性がスーパーで働き出した。昨日、彼女が働いている職場を訪問し会ってきた。あの、スーパーのスカーフと作業服に身を包み、商品を陳列棚に並べていた。彼女は数ヶ月前から我らの日本語の教室で日本語を習っていた。そして彼女の旦那さんは、もう数年前から我らと一緒に日本語を習ってきた仲間である。彼の実力は今やN1(日本語能力検定試験1級)を合格できる程である。

 半年ほど前に来日した奥さんは、当初は日本語を習うことで気を紛らしていたが、近所の人との会話もままならず、暇を持て余し困り果てていたようだ。日本語教室の近くにスーパーがあった。ここで働けないかと考えたらしい。旦那が、このスーパーで従業員募集をしていることを嗅ぎつけ、1週間ほど前に、店長に会い、交渉し雇い入れて貰うことにしたそうだ。当然、このスーパーでは初めての外国人採用である。

 彼女が働き出したことにもビックリしたが、一番ビックリしたのは、旦那が、店長に会い彼女(彼の妻)を雇ってくれるように交渉したことである。この旦那は、つい1週間前も1泊2日か2拍3日で名古屋へ出張していた。もう、一人で日本中を日本人と同様、飛び回ることが出来るようになっていたのだ。

 私が現役時代、中近東、東南アジア、オセアニア、中国と出張・駐在で飛び回っていたのと同じレベルである。頼もしいと感じると同時に、この日本語を教えた人達が日本社会に貢献していると妙な満足感を感じた。

 今は、ジャマイカ人とイスラム系カナダ人に日本語を教えている。教室には14,5人の学習者がいるが、入会前にひらがな・カタカナは履修済で入ってくるのが一般的であるが、この二人はそれが全く出来ない。仕方なく、日本語の教科書にローマ字のルビを振り、ひらがな・ローマ字・英訳の三つを書いた資料を作り始めた。これが以外と時間を取られる。出来るだけ日本語を使って説明したり試みるのだが、まだ、英語90%,日本語10%位の比率である。2ヶ月後には、この比率が逆転出来るよう努力したいと思う。

 自分の作った資料で分って貰えると、これも大きな喜びや満足感に繋がる。外国生活で外国人に助けられた恩返しにと始めた日本語指導だったが、今や、自分の喜びや満足感に浸っている。このブログを見ている方々にも是非お勧めしたい。

気になる言葉

 最近、寝るのが早くなった。4,5年前までは、夜9時には布団に入ることにしていた。今ではそれが1時間早まった。というのも、昔のように熟睡できないのだ。恐らく、これは昼間テレビを見ていてはウトウト、と言うような状態が続いており、ある程度の睡眠が取れているので、睡眠が深くならないせいだろうと思っている。父親も言わなかったが、多分同じ状態だったのではと思う。こたつに入っていてはウトウト、テレビを見ていてはウトウトだった。よく母親が、布団に入っても眠れないと言っていたモノだ。

 私の今の状態は、この母親と同じ心境である。ただ少し違うのは、布団に入って眠れないのではなく、知らず知らずの内に寝ているせいだと最近気付いた。夜中に目が覚め時計をみてテレビを点ける。ずっとテレビを見続けていたような感覚なのだが、いつの間にか1時間が経っているのだ。この感覚が母親が感じていた ”眠れない” 状態だったのだろうと推察する。歳を取ると色々な面白い現象が出没するものだ。 

今朝の新聞記事(左から、看護婦さんの 初心に返る言葉、四国で地震岡潔の言葉)

 そんなわけで、今朝も早く目が覚め、台所の流しの片付けをして、朝刊に目を通した。訃報欄だけではなく、たまには隅から目を通してみるかと考え、記事欄で興味を覚えたのは四国の地震。「四国で初」という言葉。記事を読んで見ると、震度6弱というような震度階級を導入してから初めての四国での地震なのだそうだ。1996年に導入だから、何とこの地震の多い日本で28年間も震度階級に表現されるような地震が無かった、というのは俄に信じられないが、何か前提が違っているか。まァ、ともかく珍しい地震だったらしい。

 そして、いつもの「編集手帳」。面白い言葉が載っていた。「私は数学なんかをして人間にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けば良いのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた」。別のページに小学校の数学の試験や国語の試験問題が載っていた。数学はなんとか分るものの、国語は分らない問題が満載。今時の小学生はこんな問題が出来るのかと唖然としてしまった。

 初心に返る言葉では、「出世や金だけが目的の人間になるなよ。人は品格だ。」会社生活39年、私もこの言葉通り生きてきた。同感である。そして介護施設の厨房で働く77歳の女性。「水分補給した方がいいわよ」と温かいお茶を差し出してくれた看護婦さんに感激の記事。差し出さないまでも「水分補給って大事よね」「水分補給したら」「水分補給した?」なんて言葉はあるだろうが、実際に出してくれるのと,言葉だけとは全く異なるよなァー、なんて感じた今朝の朝刊だった。

時間の有効活用

 筍(たけのこ)の季節がやってきた。我が家の竹林は、家から歩いて数分の場所にある。竹林と言っても200坪程度のものだ。それでも一軒で食べる筍の量は遙かに超える。毎年、4月末から5月初めにかけてのゴールデンウイークが収穫の最盛期となる。この時期に見に行くと既に数本は竹になりかけているほど伸びた筍に出会う。今年はそれを避けてみようと、2週間も早い昨日見に行った。普通なら採り頃の筍が数本見つかった。

 今年の初物を記念して、少し早いが2本採ってきて、筍ご飯用に出汁・醤油・みりんで煮た。今日は、これで ”筍ご飯” を炊こう。

           筍が頭を出した!           昨年買った桜が咲いた!

 あと2週間もすれば、あちこちに筍が頭を出し採りきれなくなる。この竹林は、昨年、近所の人が綺麗に下刈りをしてくれたお陰で、筍がどこにあるか一目で竹林を見渡せるようになった。この季節になるとその方に何かお礼をしなくちゃーと考えるが、時期が外れるとその恩もすっかり忘れてしまう。困ったモノである。今年は忘れず何か贈り物をしよう。

 昨年買った桜の木。時期が外れた今の時期に桜の木を買うと半額で買える。ホームセンターに昨日出掛けたら色々な花の木が半額で売っていた。除草剤を買うついでに見てきた。庭の草が伸び放題に伸び、酷い状態。少し暖かくなってきたので草取りをしようと思い、草を取った後に蒔く除草剤を買ってきたのである。

 草取り前                草を取った後

 草取りも、以前は午前中一杯出来たモノだが、今では2時間続けると腰が痛くなり限界になった。年々この時間が短くなる。70歳の頃は、午前中も午後も出来たが今では何をやっても1,2時間というところである。僅かな庭の広さだが、一気に出来ないので、今日はここまで、と決めてもうちょっと出来そうだと分っていてもそれで終わりにし、翌日その続きをすることにしている。

 毎日、根気よく続ければ、若い時期と同じ成果が生まれると信じ、この方法で全て処理している。年寄りには若い人にないものがある。それは ”時間” だ。パソコンで日本語教育の資料を作っても、こうしたブログを書くのだって、時間を数回に分けることで、若いときと同じように、時間はかかるが出来る。”時間の有効活用” である。若いときのような少ない時間の有効活用ではなく、あまたある時間の有効活用法である。

最後のお弁当

 体中の筋肉が痛い。私たちの地域では半ば常識だが、”義務人足” というやらなければいけない労働が義務づけられている。勿論誰でもというわけではない。農地を所有している地主に対しての義務なのである。その昔、農地解放以前は、”地主様” は威張って ”小作人” に対し、作業を強要していれば良かったが、農地解放以降は、”一般住民” ,即ち、小作人、地主、関係なく、義務が生じたのだ。

 地域の農地に関係する畦道の草を払ったりする”草払い人足”、用水(”排水” と区別して田んぼに供給する水をこう呼ぶ)の掘を掃除する ”掘り払い人足” と言う義務が、農地面積に応じて2日、3日とあるのだ。昨日は新年度最初の人足 ”掘り払い人足” だった。用水路内に貯まった泥や草を排除する仕事である。昨日は8時から11時半位までだった。最近は、この人足に来ないで「欠務費」を払う人も多くなり、人足の人数が少なった分だけ、出席する人の作業が大変になった。写真を撮れば良かったが、写真がないのが残念。次回は写真をアップしよう。

 さて、今回は弁当の話をしたい。皆さんは子どもの頃の弁当の記憶があるだろうか。私は、特に、学校へ持って行った弁当の思い出がないのである。昨日の朝のテレビ番組でバナナマンが、”最後のお弁当” 特集を放映していた。小学校、中学校、高校などへ弁当を持って行った思い出、そして、それが最後となった時の思い出。弁当を作っていた親の思い出と作って貰っていた子どもの思い出である。

最後のお弁当

 一杯思い出が映像とともに紹介された。写真は、新幹線 ”つばさ” が走り出した記念に買ったお弁当の空箱を取っておいて、”つばさ”と我が子に名前をつけた、その子の高校生最後の日に、この弁当箱を利用して作ってあげたお弁当の写真だそうだ。子どもが大好きなおかず満載のお弁当。こんな話題が次々と続く、涙腺が弱くなった我が輩には、映像がぼやけて見える。羨ましい限りである。弁当を作ってくれなかった両親に恨みはないが、思い出がないことを残念に思う。

 記憶に残る中学校時代、当時心臓弁膜症で運動を禁止された私は隣町までバスや汽車で通学していた。地元の中学校は自転車で行かねばならず、心配した両親が親せきを頼って、歩くことで行ける隣町に越境入学したのである。そして、そこでの毎日のお昼は、食パンにバタピー(バターピーナッツ)を挟んだパンと牛乳1本が毎日の昼食だった。今考えると、来る日も来る日も、良く毎日同じ昼食で飽きなかったと思う。

 家では小売店をやっており、朝晩は忙しく、子どもの弁当作りなどやっている時間が無かったのだろう。よく考えてみると、母親がお勝手に立って料理を作っている姿を見たことがなかった。近所の奥さんにお手伝いをお願いし、昼間、洗濯・掃除・食事(昼ごはん・夕ごはん)の準備をしてくれていた。

 そんな思い出に浸りながらこの番組を眺めていた。皆が忙しい時代だったのである。 

痛風の痛み

  前回記事を書いてから大分経った。それには理由がある。痛風の発作が起こったのだ。これで3回目か4回目である。自費発行本の中に書いたと思っていたが、チェックして見たら痛風の記事は載っていなかった。

 最初に痛風の発作が出たのは、確か40歳近くだったような記憶。30年以上前だ。その時は、タンスの引出しを開けるので、膝を曲げ足指を大きく曲げた時に、”ギク!”と音がしたように感じ、足の親指に激痛が・・・。その内、足の親指の付け根がドンドン腫れてきて痛くなった。最初は、指の捻挫かな、位に思い整形外科へ。そこで痛風と分った。それ以来の付き合い。原因がプリン体に関係する尿酸であることも、その時初めて知った。

 それ以降、お酒を飲むとき、モツなどを食べるとき、プリン体が多く含まれると言われる食品を飲んだり食べたりするときには、この激痛が思い起こされた。

     ”木久ちゃん”に関する投書            痛風の症状

 その時は、足をギブスで固め、会社へはサンダル履きで出勤した。その後、2,3回起こったが、ギブスはやらず薬を飲むだけで凌いだ。最初の時はまさに”風が足に当たっても痛いと感じる痛風”だったのであるが、その後は痛さ加減が分かり、薬で何とか凌げるようになったということなのだろう。

 日頃、痛風になるときというのは、足指に”ジクジクと嫌ーな感じ”があり、それが起こると要注意ということも分り、事前にお酒を控える、プリン体系の食物は食べない、などの対処法をとり避けてきた。

 今回はその感覚が、年齢のせいで鈍くなった、ということかもしれない。改めて、痛風にならないためにはということをネットで調べてみると、口から摂取するプリン体と体内で作られるプリン体の比率は2:8で圧倒的に体内で作るプリン体の方が多いようである。今まで注意してきた、例えば納豆なども、ワンパックくらいなら一回に食べても良いようだ。特に、”体”と考えてみると、水分摂取2㍑/日、運動最低15分/日は厳守のようだ。しかし、中でも、水分摂取の2㍑は意外と出来るようで難しい。

 痛風や尿酸の話になると2時間や3時間話せる程度のことは頭にあるがいい加減に止めにする。

 毎日読売新聞を眺めるが、必ず見るのが、”訃報欄”と”気流”という投書欄。訃報欄は、近場の人、知り合いなどのお葬式はないかと見るわけだが、最近はこのポイントが多少違っている。亡くなった人の年齢が気になりだしたのである。何時しか自分の年齢と重ね合わせ、年上か年下かに目がいく。最近では年下の人も徐々に多くなってきた。

 そして気流欄である。冒頭に挙げた記事の投書者は70歳と76歳。年齢層が同じだと同様のことを感じるモノである。私が書いているこのブログも、同年代の人にとっては、気軽に、”ほんとうにそうだよなぁー”なんて読んで貰えていると信じている。

 投書者と同じなって、涙を流すことも度々である。

新しい門出

 軽トラの新しい門出である。今まで乗ってきた軽トラを廃車にして、新しい軽トラを買った。我が家には、妻が乗っている軽自動車、そして私が乗っている乗用車とそれに軽トラと3台の車があった。

 軽トラックは、10年程前、家を改築した折、業者さんが乗っていた軽トラを譲って貰った車が最初の所有。しばらく、調子も良く乗っていたが、2,3年前、この軽トラが、走行中に突然、何の前触れもなくエンジンがストップするようになった。なんか気持ち悪いし、気になりだし、別の中古車に買い換えた車が今度廃車にした車。これは古い中古車で、前より車の程度は悪いモノとなっていた。

 そこで、この度、新車の購入をする事にした。76歳になって新車購入とは、いささかやり過ぎの感はになめないが、そこには事情がある。軽トラの需要は、農業委員として月に数回田んぼを見て回る時に使用するのと、庭の手入れをして出る枝木や草などを焼却場まで運ぶために使うのが主な役目であり、それなりに需要がある。

  旧車両                新しい軽トラック

 年老いた老人が、2人で3台の車は贅沢すぎると前から思っていて、今般、それを2台にしてしまおうと決心した次第。そこで妻の車も私の乗用車も、ほぼ10年乗っていることから買い換えの時期でもあり、思い切って乗用車1台と軽トラックとの2台にする事を決めた。その両方を新しく買い換えるのである。車に乗れるのも、あと10年だろうと考えると妥当な所である。

 軽トラを止めて、乗用車2台も考えたが、軽トラの役目は乗用車では出来ず、この結論に至った。そこで、妻にそのことを話すと、「それは良いかもね。他所でもそうしているみたいよ」。更に付け加える。「乗用車は私が乗るから、お父さんは軽トラね」だって。こういう言葉が平気で出るのが、我が妻でもある。

 果たして、今後の私の乗用車代わり、庭作業用、農業委員用に活躍する車が昨日手に入った。今までと大きく違うのが、エンジン音である。耳が遠いのも手伝って、エンジンがかかっているか、かかっていないか(エンストしたか)が分らないほど静かである。勿論、傷1つ無い車であるが、10年後にはどうなっているか。

 我が家の「・・・じまい」ならぬ、「車じまい」の始まりでもある。乗用車の納車は何時になるか分らない状況らしいが、6月頃には来ると予想されているらしい。その新しい乗用車が来れば、「我が家の車じまい」も完了である。