最近は、私の頭は、大学の同窓クラス会で頭が一杯である。昨日は、地域の集まりがあると言うのに同僚に電話催促があり出席する始末だった。
4/18(金)に、学生時代下宿でお世話になった、同じ同窓同期生に会いに橫浜まで行ってきた。一人は、昨年秋に倒れ、病院に担ぎ込まれ、脳の病気そのものは直ったが、後遺症で、奥様や子どものことが分らない状態らしい。当然ながら同級生の確認も出来ないらしい。もう一人は、同じような病気で入院になり、昔のことは思い出すが最近のことはよく分らないらしい。従って、同窓生の判別は出来るらしいのだ。

慣れない橫浜のJRの駅で降りると大分距離もあるらしいが、運動を兼ねて歩いて行くことに決め、朝の9:30から横浜界隈を歩いた。もうそろそろと言うところで、地図で確認してみるとどうも過ぎてしまったことに気づき数十m戻ると3階建ての施設があった。案内されて1階の小さな相談室に入ると、友人の奥様が先着されていた。しばらく、持って行った写真の説明をしていると、友人が車椅子に乗ってやってきた。
非常に衝撃を受けた。私は両親ともあのような状態になったことが無いので、意識がない、判別できないとはこういうことかと改めて認識した。うつろな目で自分の奥様も私も見るのである。そして、奥様が色々話しかけても、頷きもしなければ声を発することもない。「・・・さんよ、遠くから来てくれたのヨ」と言ってもだ。私も写真を見せながら色々話しかけても何も反応を示さず、これらの写真も効果無しかと多少ガッカリ。
奥様が、「右手がダメなんです」というので、手や指に触ってみたが、硬直していて全く動かない。左手はと思い握ると何となく感触を感じる。そんな状態で、面会は終わった。奥様に最寄り駅まで送って貰いお暇をした。
そして、次は、と私鉄に乗り換え最寄り駅に降りた。施設の場所が分らず地下の駅を出たところで地図を見ながら通りを見ていたら「何かお手伝いしましょうか」声を掛ける女性がいるではないか。「・・・へ行きたいんですが」と持っている地図を見せると、「あの信号機が・・・通りですので、右に曲がれば良いですよ。しばらく行ったら左に曲がることを忘れないでくださいね」と言い、更に、あの通り迄お送りしましょうか」とも言うではないか。あまりの親切さにビックリし、お礼を述べて、一人で歩き出した。無事施設に着いた。1時間ばかり早かったので、少し、面談時間を早めて貰った。
懐かしい、55年振りの再会である。大きな談話室(4人掛けテーブルが20個位あるだろうか)の所に座っている学友を発見。案内者(介護者)が私の来訪を告げるとこちらを振り向く。やや太ったようだが、昔の顔だ。お互い確認し合った。

すると、案内者(介護者)が、「ここでは色んな方が来るので、あの隅のソファーのあるところに行きましょう」と友人を上記写真のような歩行器を使い、そのエリアに一緒に行った。歩行器の利用方法をみていると、どうも、足が自分の思うように動かないらしく、膝を曲げるにも、方向を変えるにも介護して貰っている。”なるほど、これは大変だ”と思いながらソファーに座り、昔話に1時間ほど花を咲かせた。ただ一つ気付いたことがある。友人のパジャマ姿を見て、「これの洗濯はどうしているの?」と聞いた。すると、「女房がやってくれるんだよ」と言うではないか。彼の奥様は、5年ほど前に亡くなっているはずなのにである。
こんな昔の友人と会ってショックを受け、翌日1日は、何もする気が起きなかった。やっと今日になり、ブログも書く気になった。人間いつかはああなるのかと自分でも思った1日だった。