ミドさんのブログ

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国生み島神話

 「国生み島神話」というのをご存知だろうか。私は、昨日まで知らなかった。古事記に書かれている神話だそうである。イザナギノミコトとイザナミノミコトという2神により、日本は、最初に8つ、次に6つの島が作られる。そして、その最初の島が、淡路島だったという話である。

 

松帆台場

 プラタモリという番組があった。淡路島を北から南に向かって、曰くつきの場所を歩く番組である。まず最初に訪れる場所が、松帆台場、砲台跡地である。これは、大阪天保山沖に突如現れたロシアの戦艦ディアナ号に代表される、外国船によって脅かされた幕末開国期の軍事的緊張の中で海防の要所、明石海峡に1861年に作られた砲台跡地なのだ。

 大和政権にとっても、この明石海峡は重要な要所だった。大阪湾を南北に伸びる淡路島が蓋をするような地形になっているが、西からの侵入を防ぐ意味では、北の明石海峡と南の鳴門海峡の防備が必要になる。しかし、鳴門海峡は、有名な渦潮があることから明石海峡だけがネックとなったわけである。

 

淡路島の生い立ち

 阪神淡路大震災の話から始まる。当時有名になった野島断層がある場所が、淡路島の西側を走っている。震災当時の状況を再現している、野島断層記念館の紹介もあった。日本で起こる地震は、そして、この大震災も、ユーラシアプレートの下にフィリピンプレートが潜り込むことから発生している。その現象が、淡路島の誕生に大きく関係しているというのである。実際の滑り込みは、伊勢湾(凹)付近で起こり、鈴鹿山脈(凸)、奈良盆地(凹)、生駒山脈(凸)、大阪湾(凹)、淡路島(凸)、播磨灘(凹)という凸凹地形を生み出した結果として、淡路島が出来た。

 

海産物の宝庫

 そして、かっては、関西地区と地続きであった淡路島は、野島断層のズレによって、窪地が出来、それが明石海峡になったということである。元々湿地帯だった、播磨灘は水深が浅く、明石海峡鳴門海峡は海流の流れが速く、そして大阪湾は水深が深いという、それぞれの海の様相を示し、そこに生息する魚は、200種類を超えると言う。大和朝廷にとっても、海産物の大事な要所であったことが窺える。

 

はじまりの島

 更に、南に下ると、五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡というのがある。ここには、大和朝廷時代に鉄器を作っていた作業場の跡がある。鍛冶屋の村としても有名な場所である。また、この技術は、西から来たもので、そこには航海術が必要になった。漁師としての海人(あま)ももちろん、航海術に長けた海人がたくさん住んでいたことでも知られている。

 

イザナギ神宮

 極めつけは、伊弉諾の尊(イザナギノミコト)が余生を暮らしたとされる、伊弉諾神宮もさらに南下したところにある。ここには、国生み島にふさわしい「陽の道しるべ」がある。日の出と日没の方向に、神話に出てくる神社が多数存在することが示されており、その中心にこの神社があることが示されているのである。例えば、出雲大社熊野那智大社を結んだ線上に、この伊弉諾神社が位置し、出雲大社は、夏至の日の入りの方向であり、熊野那智大社は、冬至の日の出の方向という有様である。

 

読み聞かせの神話

 伊弉諾尊イザナギのミコト)と伊弉冉尊イザナミのミコト)が、天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした地上を掻き混ぜ、このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった二神は淤能碁呂島に降り、結婚する。ここからこの二神は、大八島を構成する島々を生み出していった。そして、最初に産んだのが、淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま、アハヂノホノサワケシマ) =淡路島だった、というのが神話である。

 我々、関東に住む者にとっては、なかなか、縁遠い話ではあるが、子どもに読み聞かせる話としては、面白い。昔のことを考えれば、関西は都会であり、関東は田舎だったというのが分かる神話でもある。

 

 非常に興味深い話だった。国生みの島、淡路島の話も次回(10/2)も続きそうである。そして、淤能碁呂島(おのごろじま)も出て来るらしい。土曜日の同じ時間帯には、演歌番組「人生歌がある」があるが、是非、見てみたい。

      (つづく、・・・)