ミドさんのブログ

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鉄道開業150年、「駅弁」に感謝!

鉄道開業150年

 あまり昔を振り返っても仕方ないが、今日の朝刊一面に ”鉄道開業きょう150年” の文字。ちょっと振り返る気になった。

開業当時の記念写真、記念品の数々(ネットから抜粋)

団塊の世代

 私たちは、団塊の世代1947年(昭和22年)〜1949年(昭和24年)生まれ)と言われ、小学校から始まり就職し定年まで、同世代が多く、「競争」が人生の大半を占めていた。入社が1970年(昭和45年)である。その頃、既に東海道新幹線は運航していた。

 我々が高校通学の頃は、田舎育ちの私は、駅が2,3個先の高校へ行かざるを得ず、当然汽車(昔は汽車と言った)を使わなければならなかった。茨城県北部の海岸近くに住んではいたが、この辺までくると関東平野も平野が少なく小高い山が海岸線まで迫っていた。だから、私の乗車駅から北も南も一つ先の駅まで行くには、汽車はトンネルや橋を渡った。70歳以上のお年寄りはご存じだろうが、蒸気機関車(汽車)が、トンネルを走るときには、真っ黒な煙が汽車を襲った。当然目など開けてはいられない。そして、ガタ・ゴトと鉄橋を通るときには、「ガタン・ゴトン、ガタン・ゴトン」と金属音を響かせ、私たちのいたデッキから下を眺めれば川面が見えた。

 

私と新幹線

 そんな時代を育った人間が、1964年に開催された第一回目の東京オリンピックの時、高校2年の時、街場(”まちば”)では、東海道新幹線が開業したのである。それから10年、会社に入社して2年目には、初めての海外出張だった。個人的にも海外なんて行ったこともないし、田舎では、”海外に行く人” として、英雄視されたものだった。

 そして、それから数年が経ち、一人前の会社員として認められるようになると、国内への打ち合わせ出張も多くなった。主に、東京や大阪をはじめとする関西方面が多かった。そこで利用するのが「東海道新幹線」「山陽新幹線」である。「こだま」と「ひかり」の時代だった。

のぞみ運行記念式典(ネットより)、駅弁コーナーやロゴ(やなさんのブログから抜粋)

 

新幹線と駅弁

 「のぞみ」は、1992年運行だそうなので、入社して22年が経っていた。当時は、我々のレベルでは、会社から「ひかり」しか乗ってはダメと言われ、「のぞみ」には乗れなかった思い出がある。

 そして、何と言っても思い出は、「駅弁」である。会社に出勤し、一仕事終えて、大阪での午後の打ち合わせに出ようとすれば、昼時間は必ず新幹線の中となり、駅弁が必要になる。上野駅や東京駅で駅弁を買って、新幹線に乗り込むのだ。

 

昔懐かしい、寝台特急「瀬戸」

 紙面が足りなくなってしまうので、この辺で、寝台特急の話をしたい。この前もテレビで放映していたが、寝台特急「瀬戸」である。会社員として新米だったころは、新幹線にも乗れず、四国での打ち合わせには、寝台特急「瀬戸」を使った。

寝台特急「瀬戸」新型車両と往年の寝台特急「瀬戸」旧型車両

 東京発10時(22時)頃の発車時間だった。会社で仕事を終え、それから上野、東京と移動し、「瀬戸」の寝台特急電車に乗り込むのである。ここでも、「駅弁」にお世話になった。駅のホームで駅弁を買い、2段ベッドの寝台特急に乗り込み、一人寂しく駅弁を食べるのである。当然ながら、缶ビール一本付き。明日の打ち合わせの段取りを考えながらの遅い夕食を食べ、眠りについた。

 

 新幹線、特急電車と言えば、「駅弁」を思い出すから不思議である。青春の思い出でもある。