ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

アフガニスタンの医師、中村 哲

「医師、中村 哲」という人

 クリスチャンで、1946年生まれ、72歳、アフガニスタンで銃弾に倒れた、医師の中村哲さんの話である。亡くなったのが2019年12月4日。その直後にも色々なマスコミ放送があり、記憶の片隅に残っていたが、詳細は覚えていなかった。1週間ほど前だったか、中村さんに関する放映があったので、色々な彼の記事を調べてみた。丁度、私の年齢近くで亡くなったこともあり、ブログに取り上げて見たくなった。

 

ハンセン病患者に靴製作供与 

 私の2年先輩で、医者ということもあり、九州大学医学部を1972年に卒業と紹介されている。そして、それから12年後の1984年から活動が始まる。クリスチャンNPOの派遣医師としてパキスタンペシャワールに派遣されるのである。そこで見たものは、飢餓と食糧難に苦しむ住民だった。そして、裸足で歩く住民たちがハンセン病(ライ菌で酷くなると足切断などになる)に苦しめば、靴職人を雇って、専用の靴を製作し彼らに無償供与した。そして、そうした靴製作の助手に職を失った小作人を雇った。

 

アフガニスタンで見たもの

 そして、1991年には、活動拠点がアフガニスタンに広がっていった。アフガニスタン、カブールである。この頃のカブール近郊の山岳地帯には、医師も診療所もなかったそうだ。ここに初めて診療所を開設すると連日何百人という患者が押し寄せた。この頃、アメリカで同時テロが起こり、首謀者ビンラデンへの報復攻撃として、近くにも連日攻撃ヘリの来襲があった。また、同時に大干ばつも重なり、食糧難と水不足に住民は悩まされた。子供は、こういった状況下、水があれば泥水でも飲んでしまう。それに栄養失調が加われば、小さな子供はひとたまりもない。

 

水の確保に井戸掘り

 そこで、水を確保することだと気づき、井戸を掘ることを決意する。日本に帰国し、活動の現況や現地の状況をマスコミを通して訴え、基金を募った。約半年で、8億円もの基金が集まったという。そうして、1600本もの井戸を現地で掘った。そのことで、病気も大分減った。しかし、ここから、また苦境に晒された。大干ばつと井戸掘りで、地下水の枯渇を恐れた政府が、井戸掘りの禁止を命じたのである。

 

25kmの用水路建設

 そして始まったのが、有名な用水路建設だった。「緑の大地計画」と名付けられた建設計画は2003年に発表され始まった。貧困が争いの元凶であると信じていた中村は、枯渇した大地を、クナール川の水をこの地域に導くことによって、この地が潤うと考えたのである。アフガニスタンの中央部に東西に長いヒンドゥークシュ山脈。この山脈の北側の地にクナール川が流れる。この山脈から流れ出す雪解け水を利用したのが、用水路である。建設では、当初、スコップ・手掘りで始められたらしい。何の用水路の知識もなかった中村は、日本で自分の故郷の筑後川の山田堰の技術を江戸時代から200年ぶりにアフガニスタンで復活して見せた。そうして、2010年、総延長25.5km、10000㌶の灌漑地が完成したのだった。農地が戻って来た。住民の生活が確保された。そして、その周りには木々が植えられている。

 

中村哲さんの想い 

 以上は、ネットで中村さんに関する記事を読み、色々な場所から抜粋したので、内容の細かい点で、違っているかもしれない。紙面の関係でここに紹介できない記事が一杯ある。興味のあるかたは、そうした記事を是非読んで欲しい。涙腺が弱い私には涙無くしては読めなかった。

 “作業地の上空を、盛んに米軍のヘリコプターが過ぎてゆく。彼らは殺すために空を飛び、我々は生きるために地面を掘る。彼らはいかめしい重装備。我々は埃だらけのシャツ一枚だ。彼らに分からぬ幸せと喜びが、地上にはある。”

 そして、こうした争いで命を落とした同僚を想い、

 “今、必要なのは、憎しみの共有ではありません。憤りと悲しみを友好と平和への意志に変え、今後も力を尽くすことを誓い、心から祈ります。”

 と述べている。

 事あるごとに、日本国憲法9条で命を救われたと言っていたそうである。