ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

新型コロナワクチン

コロナワクチン、打ってきた!

 先日、新型コロナワクチンの1回目の接種をしてきた。65歳以上という枠での接種である。わが市では、市役所近くの体育館で集団接種を行っており、その受付はネットで受け付けている。市内にかかりつけ医を持たない妻は、ここで予約・接種をしたので、既に二日前には1回目が終わっていた。理由は分からぬが、かかりつけ医で予約をとった私は、この集団接種より若干遅れた。周りから聞いていた、傷み、倦怠感等など副作用が出るかと思っていたが、注射患部が少々痛む程度で、普通の筋肉痛より弱めの痛みという程度で済んだ。2回目が今月21日に実施予定であるが、今朝の新聞に気になるニュース。ワクチンの供給が遅れていて、各市町村からの要求に応えられないそうで、この2回目はどうなるのかと懸念が一つ増えた。

 

ワクチン接種の注射

 かかりつけ医なので、毎日少しの人数ずつ接種をしているようで、男7人、女5人、トータル12人の接種で、ワクチン2本分が毎日使われているようだ。テレビの映像で見るあの注射(シリンジ)と同じだ。そこで、はてと思ったことがある。どうして、ワクチン接種は、筋肉注射なんだろう、ということである。血管注射(静脈注射)の方が効き目が早い気がするが…、と思ったわけである。最近予防接種というものをしていないが、そういえば、昔打った色々な接種は皮下注射だったかなーー。

 

色々ある注射と特性

 得意のネットで調べてみました。あとで、かかりつけ医にも聞いてみます。注射の場所については、静脈、筋肉、皮下の三つです。そして、薬剤の効果は、10:2:1と言われているようです。静脈は分かりますが、皮下の方が、傷つくとすぐに血が出るので血管が多いように思いますが、筋肉の方が多いのだそうです。こうした効果と持続性は反比例の関係にあって、皮下注射の方が持続性は長いということになります。

 

なぜ、筋肉注射?

 では、なぜ、コロナワクチンは筋肉注射なのか。皮下注射の方が持続性がありいいではないかと思われますが、そこには、生ワクチンと不活性化ワクチンの違いがあるそうで、生ワクチンは皮下注射だそうですが、コロナワクチンのような不活性化ワクチンの場合、患部の反応が強く出るため、海外でも筋肉注射が一般的なようです。

 更に、コロナワクチン特有の理由があります。コロナワクチンは免疫細胞を刺激する必要がある。そこで、皮下より血流の多い筋肉に免疫細胞が多くあるため、筋肉に打つということなんだそうです。聞けばなるほど、とも思いますが、また新たな疑問が沸いてきます。そこのところは、皆さんご自分で調べていただくとして、一応、筋肉注射の理由が分かりました。

 いろいろ調べてゆくうちに、ワクチンの作り方によって、生ワクチンと不活性化ワクチンがあることやその違いが分かったり、仕事に関係ない現象を調べるってこんなに楽しいもんだ、と気づかされている毎日です。では、また、次回。

            (次回へつづく・・・)

    

 

 

世界おもしろ昔のはなし㉚

 もう15年も前の話になる。フィリピンへで単身赴任となった。そこでの出来事を綴っている。フィリピンという国は、”怖い国”というイメージがある一方で、住んでみると非常に居心地のいい国である。その理由は、フィリピン人が、かって日本人が持っていた家族主義のような考え方をするからだと気づかされた。

 フィリピン物語、スタート、スタート!

 

弁当作りの理由

 弁当作りには訳があった。当時、77kgから80kg程度まで体重が増え、なかなか減ることがなかった。昼食は、当時会社のある工業団地内にある日本食レストランで食べるか、そこで作っている弁当を配達してもらうかして、それを食べていた。しかし、量が多いこと、その割に高い(400ペソから500ペソ=千円程度)ことから、体重を減らすことも含め、現地の人が食べるレストランで麺類なども食べてみた。しかし、味が今一つだった。そこで、それまでに「料理作りの楽しさ」が分かってきたことから、弁当作りを始めたのである。これが、ストレス解消に抜群の効果だった。料理作りをすることで話題も出来る、交流も出来る、一石二鳥、三鳥だった。それなりの料理が出来るようになったことから、取引先の社長や当社日本人社員をお呼びして、私の住居のコンドミで食事会を催したり、更には、会社のローカルのマネージャー達を招待しての食事会までも催した。日本食を作り御馳走するのである。日本食が大好きなフィリピン人が感激しない訳が無い。人心掌握術の一つに料理を使った。

 会社へ弁当を持って行って食べだした頃、近くにいるフィリピン従業員が物珍しそうに弁当を覗きに来た。買い食いしかしないフィリピン人だからびっくりしたのだろう。しかし、スーパーマーケットに行くと、ちゃんと数種類の弁当箱が売られていたので、決して弁当を作らない人ばかりではなかったと思われる。

 

仲間との団欒、夕食

 夕食は、若い従業員とのコミュニケーションの場であり、取引先、グループ会社、顧客などとの交流・接待の場でもあった。ともかく、土、日を除いて、殆どが外食だった。家族持ち駐在員が増えた後半の2年は、彼らの家庭団欒を考え、週1.2回程度の外食のお誘いに減ったが、最初の3年間、週4回は、これらの人達と外食を囲んで歓談した。今でも、この時の楽しい思い出が鮮明に残っている。 

 外食の場合、1回の食事に、千ペソから二千ペソ(三千円から五千円位)位かかったが、日本人の夕食としては、フィリピンでは通常の食事であり、何よりも、この夕食が、単身赴任者の憩いの場であり、ストレス解消であり、コミュニケーションの場であり、海外での仲間意識の醸成の場でもあった。当社の日本人駐在員達とも割り勘(多少、職位で傾斜は付けたが)であったが、取引先、顧客なども基本は、割り勘だった。お互いにそうしたお付き合いをさせて頂いた。

 

会食

 外食と言えば、接待の食事(会食)も何度も経験した。工場から部長クラスが来比した場合、役員の場合などは、相手により食べる場所が変わった。役員以上の会食では、役員が支払いをしてくれた。勿論、親会社持ちである。

 顧客外国人相手の会食では、言葉の問題もあり非常に大変だった。それでも、アジア人相手の場合は、英語がそれ程お互いに得意でない事もあり、それ程苦労はしなかったが、米国人相手の会食では、話題を何にするかも含め、結構冷や汗ものだった記憶がある。

      (次回は、フィリピンのゴルフについて、・・・つづく・・・)

 

夏至=昼が長い日?

 昨日、新型コロナのワクチンを打ってきた。その話題を、と思ったが、今から述べる夏至(今年は6/21)の話も、時期的にズレてしまうので、先に載せる。

 

どこかにズレが・・・

 二、三日前だった。NHKの天気予報で、視聴者からの質問だったか、気象予報士の人が、「今日は夏至ですが・・・とは、4日程度のずれがあるんです」と説明していた。ボーっと視ていたのでよく覚えていなかったが、いつか、このブログに取り上げようとしていた。いざ、書く段になって、さて、何だったかなー、と考えてもなかなか思い出せない。ネットで一日かけいろいろ調べて、やっと、「これだ!」と思い出した。

 前々から、”どこかにズレが起こるはず”、と思っていたことがあり、その疑問と結びついたのだ。日の出と日の入り、昼と夜の定義である。なんでもそうだが、特に、設計などをやっていると、中心線が重要と思うのは習性なんだろうか。日の出は、太陽が顔を出し始めた時であり、日の入りは太陽が完全に見えなくなったときで、太陽の中心線ではない。つまり、太陽の大きさ分、どこかにズレが生じるはず、と思っていたのだ。普通、何でも中心線をとるものだが、この場合、太陽の中心線を取ったのでは、日の出にも日の入りにもならないからだ。このズレが、4日程度のズレの主な原因だった。

 

夏至と昼の一番長い日

 つまり、夏至とは昼が一番長い日である。一方、冬至は夜が一番長い日である。そして、春分の日秋分の日は、昼夜の長さが同じ日である、と教わってきた。お恥ずかしながら、つい、冒頭の天気予報士の話を聞くまではそう思っていたから、「どこかにズレが?」と感じていたのだろう。しかし、実際には、一番長い日は夏至の4日後、冬至は4日前に訪れるのである。ただ、太陽の高さ、低さということで言えば、それらは当たっているので、勘違いなさらぬよう。

 

ズレの原因

 ネットで調べると、4日のズレは、この太陽が見える大きさ分の他に、地球の軸が傾いていることなどでトータル4日となるようである。太陽の大きさ分ズレが生じるはず、と思った時期はいつか忘れたが、それでも、そんなに前ではないはずである。そんなことは、とっくに気付いているよ、そんなことも分からなかったの? と言われそうだが、小学校の頃からそう覚えさせられてきたのが大きい。子供には分かり易いように、という配慮だろうが、でも、学校では、ややこしいので本当のことを教えないまでも、示唆するくらいはして欲しい気がする。

 

天気予報士のプレゼンテーション 

 話は変わるが、冒頭の天気予報士は、非常に活舌もよく、分かり易く説明してくれているが、全国放送の天気予報士で、視聴者の方を殆ど見ない人もいる。視聴者がテレビ画面を見ていると同じように、そっちを見ているのである。この予報士も上司から注意されたのか、最近は、多少、視聴者の方を見るようにはなったが、私に言わせれば、プレゼンテーションの仕方としては不合格である。我々、会社でしっかり教育を受けた。聴取者の方を見て話すのが基本である。そして、画面を指し示すのは最短にするというのは、常識の範囲である。その点、民放の予報士は上手だ。言ってみれば、説明することを、自分のものにしているかしていないかの問題と思うがどうだろう。

        (次回につづく・・・)

 

世界おもしろ昔のはなし㉙

 こうして、最初の(マニラの)コンドミでは、これらを揃え、洗濯や掃除を自分でやった。基本的には、メイドを雇い、メイドに洗濯・掃除・食事作りまでやらせるというのが日本人の駐在員の基本だが、トラブルを避け、5年半の滞在中、半年だけメイドを雇ったが、残り5年は自分で全てやった。メイドとのトラブルがあったからであるが、その話題については、後で述べる。

 

洗濯、アイロンがけ

 洗濯を自分でやる駐在員は少なかったが、理由は簡単で、アイロンかけが嫌でやらないというのが理由だったらしい。私は、全て自分でやった。私の考え方の基本は、「自分で全てまずやってみる」だった。そうしないと、やっている人の大変さや何がコツなのかが分からない。この「コツ」が、人と話した時に、「話のタネ」になり、何度も相手の興味を引いたり、話を長く続けることが出来る。資材時代に、取引先相手に話が長い間出来たのも、この考え方があったからだった。

また、洗濯やアイロンがけは、結構、他の事を考えながら、出来る作業なのである。さて、今日は何をやろうか、朝礼で何を話し、何を指示しようか、あのトラブルをどう解決しようか、などなど、この作業中に考えたことは一杯あったし、アイデアも沢山出た。また、ストレス解消にはもってこいの作業だった。洗濯ものを全て干し終わった時の爽快感、アイロンを全て掛け終わって、ハンガーに掛け、洋服ダンスに並べた時の達成感は格別だった。

 

食材探し

 朝食準備。必ず、味噌汁は作った。フィリピンでは、食材の質を問わなければ、日本同様とまではいかないものの、結構何でも揃う。大根(しわしわで細く短い)、ニンジン(大根同様)、ネギ(細く短い)、玉ねぎ(小さい)、キャベツ、モヤシ(細く長い)、葉っぱ類(特に中国野菜の空芯菜と言われるもの)も同様に、見るからに新鮮ではなく、萎れた野菜の中から良いものだけを選別した。これらが一番安いのは、①一般庶民というより、貧困層が出入りする市場。次は、②日本で言うデパートの地下街。一番高いのは、③日本食店や外国人層を対象にした、食材店。①、②、③と質が上がって来るのは当然である。出張者にフィリピンの現状を分かってもらうために、この①や②に案内し、我々の生活を理解して頂く努力をしたものである。理由は簡単、出張してくる駐在員の上司に、駐在員の奥様の苦労やフィリピンでの生活の大変さを分かって頂くためである。

 

食事の準備

 こうした具材を使って食事を作った。朝食は、納豆、生卵、海苔、各種瓶詰、缶詰、などなどが多かったが、後半の3年位は弁当作りもしたので、弁当に入れる残り物を朝食で食べたりもした。弁当のおかずには、毎朝、煮物や焼き物などを調理して入れるのを基本とし、殆ど、出来あい、冷凍食品は使わなかった。冷凍食品代わりに前もって自分で作り、冷凍にしておいた。キンピラ、切干大根、ヒジキなども前もって調理して冷凍しておき、おかずに使った。出し巻き卵などは朝調理した。調理、朝食、弁当作りに1時間は掛かった。ご飯は、1食分毎にラップで包み、冷凍しておいた。朝ご飯を炊くということは殆どなく、休日に炊き、冷凍しておいたのである。この手法は、日本へ帰ってきた今でも実践している。

 

 次回は、弁当作りをしていた訳を中心に書きたい。(次回につづく・・・)

懐かしい浜辺

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矢指海岸のサーファー

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矢指海岸の釣り人



 一昨日は暑かった。まだ、6月末だというのにムシムシして暑かった。そこで、海風にでもあたろうと、家から5分ほどの海岸に行ってみた。時々歩く散歩道でもある。

 

懐かしい浜辺の思い出

 かって、この海岸では、小学校の頃、野球と称して、ソフトボールに興じたものだった。浜辺が広いと言っても、野球をするのには狭く、三角ベースで角度を60度位に絞り、楽しんだものである。その海岸も、堤防が大分前に出来、浜辺が一時は殆どない状態までになったが、20年以上経って、大分、浜辺も昔のように広く変わってきた。孫の代には、昔のように砂浜で遊べる日も来るかもしれない。

 

何を釣っている?

 その海岸で何人かが釣りをしていた。昔、父親と釣りをした記憶が残っている。昔は竹竿だったが、今はグラスファイバー製の釣り竿である。釣り人に聞いてみたら、セットで10万円位はするそうである。もちろんピンキリで高いものはいくらでもあるのだろう。ほとんどがまだ釣り上げていないようだったが、一人だけ釣り上げた魚の血抜きをしてる釣り人がいたので、何という魚か聞いてみたら、マゴチというのだそうだ。この海岸では、イシモチかヒラメだったはずだがと思い、他の釣り人にも聞いてみたら、やはり、ヒラメが狙い目だそうである。マゴチとは変わったもんだ。昔、このような海釣りと言えば、50過ぎのおじさんが定番だったが、今は、殆どが若い人である。

 

サーファの集まる浜辺

 そうやって、釣り人を眺めながら砂浜を歩くと、今度はサーファーの集団が楽しんでいた。もっとも、サーファーは、この海岸には一年中集まっている。帰りがけに、バーベキューを楽しんでいるサーファーに、「どこから来たの?」「東京からです」「ここまで来なくても、途中に一杯あるでしょう」「いや、ここがいいんです」だって。何が良いのかよく分からないが、多分、波がいいということなんだろう。それとも、安い旅館があるので、そうした宿泊施設も含めてのことだろうか。

 

堤防がここに必要?

 砂浜では、靴に砂が入り、また歩きにくいので堤防に戻った。堤防が出来て、地域の人たちの散歩道になった。堤防の上を舗装したことで、同時に、サーファーたちの車の通り道にもなった。堤防が出来て良いことって言ったらそんなところだろうか。もっとも、津波に対する災害防止に役立つことはもちろんだが、これは何十年に一度か、何百年に一度か、永久に来ないかもしれない災害に対しての備えである。

 前にも書いた。東北の陸前地方のリアス式海岸なら別だが、この海岸のように何キロも、十数キロ続く一直線の砂浜に堤防は必要なんだろうか。こんなに気象予想が発達した世の中で、子の代、孫の代で起こるかもしれない津波のために?と首をかしげてしまうのは、私だけだろうか。

 この堤防建設で、土木業者が潤い、政治家が蠢く。

                (つづく・・・)

世界おもしろ昔のはなし㉘

前回に続く。赴任1年目に、マカティ(首都圏) に住み始めた理由について。

 

マカティに住んだ、もう一つの理由

 そして、マカテイに住んだ理由には、もう一つあり、フィリピンのレストランや歓楽街の状況を調査・理解するために1年と決めて住むことにしたのである。皆で、夕食を取る時などは、出来るだけ毎日違う店を選んだ。それも、日本食は勿論のこと、韓国料理、中国料理、スペイン料理、イタリア料理、フランス料理、ドイツ料理、勿論フィリピン料理、そしてアラブ料理まで経験した。一通りこれらを回ってしまうと、後は、新しく出来たレストランには、試験的に行くが、気にいったレストランに集中するようになった。

 こうして、殆どのレストランを知ることが出来、日本からのお客様の接待では、困ることはなくなった。何料理が良いですか、とお聞きし、お客様の程度によって、レストランの雰囲気、食事の質を選んだ。

 駐在員は、その国の状況を把握し、出張者の来訪に備えなければならない、という手法や考え方は、前にこのブログにも書いた、オーストラリア出張、シドニーでの生活でも触れた。その昔、オーストラリアの駐在員に教えてもらった。この駐在員は、既に亡くなった上司に教えられたと言っていた。こういった考え方は、代々、受け繋がれて来るものかと思ったものである。

 

歓楽街とカラオケバー

 また、フィリピンのあらゆる歓楽街も経験した。日本で言う、フィリピンパブと言われるカラオケバー、日本ではお目にかかれないゴーゴーバー、ちょっと高級なピアノパブ、演奏付きレストランなどなどで、これらに日本人男性は群がっていた。赴任した、2003年~2004年に掛けては、誰もがカラオケバーに出掛けた。入ると、女性(ホステス)を指名し、席に付き、カラオケをステージで歌うのである。歌ってない間は、ホステスとの会話を楽しむ。面白いことに、奥様と出かける赴任者もいる。奥様もホステスを指名しなければならないのである。こうした歓楽街の状況については、機会があれば別項で書きたいが、非常に奥深いものがある。

 カラオケバー以外は別だが、カラオケバーについては、日本の・・・通りというのと同じように、・・・通りに集中してあり、ここにあるカラオケバーは、ホステスが若い女性揃いのところだった。そして、決まったシステムは、店の入り口入ると、お客にありついていないホステス全員(20名はいるだろう)が一列に並び、「いらっしゃいませー」の独々のイントネーションで客を迎える。そして、客はその中から、このホステスと、そこで指名するのである。こうした女性を選ぶというシステムに最初は躊躇したものだが、だんだん慣れていった。

 

 かくして、1年目は、25階建ての24階の高層ビルマンションに住むことになったのである。ちなみに、このマンションは、赴任(2003年11月4日) 前の10月に出張して、契約を交わしてきていた。短い出張ということもあり、手ごろな所で手を打った結果だったが、まずまずの住居だったと思っている。

              (つづく・・・)

 

瀬戸大橋

 私たちには、一般的な「瀬戸大橋」より「本四連絡橋」の方が通りがいい。一昨夜、テレビの番組で、瀬戸大橋のドクメンタリーを放映していた。

 テレビの放映は、ケーソンと言われる橋の橋脚の工事で四国側工事事務所長をしていた杉田秀夫さんを取り上げていた。通常、橋の橋脚を作る場合は、矢板工法と言われる橋桁の大きさに四角に矢板を組み、その中にコンクリートを流し込むという工法をとるが、矢板に相当する枠組みを現場で作るのが現場状況から難しいことから、枠組みそのものを近く(岡山)で作り、それを浮かして海上輸送し、現場でそれを沈設するという工法が取られた。この枠組みの大きさ、重さが半端な数字ではなく、常識では考えられない工法だった。この工法の発案・実行者が、冒頭の杉田秀夫さんだったのである。

 この工事するまでの間の杉田さん及び家族、そして同じ工事事務所の部下の様子を描いたドキュメンタリー番組だった。杉田さんは、それまで国鉄(JR)職員だったが、出向を命じられたことを機に、片手間ではできないと一大決心をして、国鉄を退職して、本四連絡橋公団に移籍した。そして、家族思いでありながら、仕事一筋に勤めた。しかし、襲い掛かる不幸。一番応援してくれていた奥様をガンで亡くした。それまで一切奥様の病気のことは、士気が落ちると、部下には一切告げなかったが、さすがに、お葬式では仕事を休んだ。そのお葬式では、途中、抜け出して仕事に復帰ということもした。この時ばかりは、自分の母親にもなじられたそうである。

 この基礎が無事据え付いた後は、今度は一転して、3人の娘の世話に明け暮れ、そして、62歳という若さで生涯を閉じた、という伝説の人である。現在では坂出市、瀬戸大橋記念館に銅像が建てられている。

 

 なぜこのドクメンタリーに興味を持ったかと言うと、30歳の頃だったと思うが、会社で先輩たちが、これに係るケーブル(電線)工事の設計を長年やっていたからだった。通常は、数か月、長くて1年程度では終わる設計の仕事が、この仕事ばかりは10年位かかったように記憶している。

 当時、詳細設計に関与しておらず、お手伝い程度だったのでよく分かってはいないが、それでも設計の難しさはよく知っていたつもりである。

 この橋には、人・車ばかりではなく、鉄道も添架され、そして私たちが設計・製造していた電線(通称:ケーブル)も添架されている。ケーブルは電気を通すものであり、電気を通すと発熱し伸びる。こうした現象は一般的であり、そうした伸びをどう吸収するか工夫が必要になる。ケーブル設計者にとっては、こうした現象は、当然であるので、それほど難しいことではない。

 しかし、さらに加えて、これが一番の問題であるが、橋の温度差による伸縮、もっと大きいのは鉄道などの重量による伸縮である。つまり、何百トンという電車が通るときに、部分的に橋が沈み込むのである。この長さを吸収する装置を考えておく必要があった。この沈み込みはいくらだったか覚えていないが、数mであったと思う。電車が橋脚を通るたびに、1日何回となく沈み込むのだ。橋脚の沈み込む形状を想像すれば分かるが、左からくる電車、右からくる電車では沈み込む形状が異なる。同時に左右から来れば、さらに複雑な形状となる。まっすぐに電線を敷設しておいたのでは、引きちぎれてしまう。そういった現象を実証するため、設計や実験が繰り返された思い出である。

 

 このドキュメンタリーに出てくる、杉田秀夫さん、こういう人物が日本にいて、この発展があり、大きなことが成し遂げられて来た。その杉田さんが、母校丸亀高校の講演で、下記の言葉を残されている。

『橋を作る経験が人より余計にあったからといって、これは人生の価値とは全く別の

 ことなんです。人生の価値とは何か・・・偉大なる人生とは、どんな人生を言うの

 か。これは非常に難しい問題なんです。戸大橋を作るより、はるかに難しい問題

 なんです。』

          (次回につづく・・・)