ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

蒸気機関車

 このブログは、いずれ本にするつもりでいる。だから、自分の記録的な要素もある。そのことから、読んで下さる方々に興味のないことも時々載せるのでご承知いただきたい。

 

「汽車」と呼んだ

 テレビを視ていたら、蒸気機関車の写真が出てきた。そうだ!と思い立ち、蒸気機関車のことを書いておこうと思った。私が小さい頃だからもう60年も前の話だ。

 蒸気機関車が引く列車のことを、「汽車」と呼んだ。そして、それから10年も経つと、一部常磐線も電化された。その時から「電車」と呼び方が変った。なかなか電車という呼び方が板につかず、よく汽車と言っては、周りのみんなから注意されたりもした。その汽車の時代の話である。

 

物珍しい「汽車」のお通り

 家は、道路に出て西の方を見ると、常磐線の踏切が見える場所にあった。よく親せきの子どもたちが家に来ると、電車をあまり見つけない子供たちは、汽車が通るのを間近で見るために、その踏切まで行ったものだった。そして、その踏切は自動の警報機が付いていたが遮断機はなかった。交通量が少なかったせいなのか、近くの別の踏切には遮断機があり、係のおじさんがその遮断機を手動で上げたり下ろしたりしていた。

 

改札通らずに「汽車」に乗り込む

 駅に一番近い踏切にはこの遮断機が付いていて、汽車に間に合わなそうになると、この汽車を遮断機の前で見過ごし、汽車が通ったすぐ後、遮断機があがると同時に線路内に入り、線路わきを通り、ホームまで走り、汽車に乗り込んだものだった。つまり、駅の改札を通らずに汽車に乗り込むのである。よくしたもので、遮断機を操作する係のおじさんがいたが、高校生の私が線路脇をかけて行くのを黙って見過ごしてくれたものだった。

 

「汽車」のデッキ

 そして、汽車には、デッキという場所があった。客室に入る前に外の風がぴゅうぴゅう吹くデッキである。学生たちは客室に入らず、このデッキにたむろしていた。前の車両と後ろの車両に両方にデッキが付いているので、ここだけでも10人程度は立っていられるのだ。遠くに行く時などは、汽車でいく人と見送る人は、このデッキで「じゃね」などと別れを惜しんだものである。今のように客車内に入り、ガラス越しのサヨナラではないのである。

 

トンネルを抜けると

 ところがである。私が通う駅間にはトンネルが二つくらいはあった。汽車が電車に入るとどうなるかである。蒸気機関車が吐き出す黒煙がデッキに押し寄せてくるのだ。もちろん列車の前の方だとひどいことになるが、いつも後ろの方の車両だったので、それほどひどくはないにしても、当然ながら口なんて開いてはいられない。耳や鼻などに黒煙のすすが入り込むのである。

 

鉄橋を通る「汽車」

 また、何本かの川もあった。鉄橋をガタンコトン、ガタンコトンと乾いた音を響かせ汽車は進むが、デッキから眺める鉄橋や川も、この音が軽快で爽快だった。今の時代にああした乗り方をしていたら、すぐ、安全対策をという所だろうが、そんなことを言う人もないし、振り落とされるなんて事故も聞いたこともなかった。みんなが注意していたのである。

 

ホームの売り子

 そして、私は四つ目の駅で降りるが、二つ目の駅は、私の乗車駅より少し大きな町だった。そこでは、駅弁や土産物の饅頭などが入った平らな木箱を首から下げた弁当売りのおじさんがホームにいた。そして、それを買いたい人は、客室の窓を開け、そこから首を出してこの売り子のおじさんに向かって、「弁当、二つ下さい!」。すると、それに気づいたおじさんが、木箱を首から下げたまま、走って近づいて来て売ってくれるのだ。中には、発車寸前にこれをやる乗客もいる。すると、汽車は走り出すわ、弁当は買わなきゃならない、おじさんは売らなきゃ-ならない、お金ももらわなきゃーと大忙しになるのである。みんながこの二人の様子を笑いながら眺める。

 

置き去りになった「のどかさ」

 そんなのどかな風景も、汽車が電車に変わったことでなくなった。そして、デッキに立って危険ということに自らが気が付き注意する癖がついていたのに、安全が騒がれ、自分で気を付けなくても相手が考えてくれるようになり、いつの間にか自分の身に降りかかる危険も蚊帳の外になってしまった。

 こうして、注意やのどかさなどがいつの間にか置き去りになっていった。