ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

最後のお弁当

 体中の筋肉が痛い。私たちの地域では半ば常識だが、”義務人足” というやらなければいけない労働が義務づけられている。勿論誰でもというわけではない。農地を所有している地主に対しての義務なのである。その昔、農地解放以前は、”地主様” は威張って ”小作人” に対し、作業を強要していれば良かったが、農地解放以降は、”一般住民” ,即ち、小作人、地主、関係なく、義務が生じたのだ。

 地域の農地に関係する畦道の草を払ったりする”草払い人足”、用水(”排水” と区別して田んぼに供給する水をこう呼ぶ)の掘を掃除する ”掘り払い人足” と言う義務が、農地面積に応じて2日、3日とあるのだ。昨日は新年度最初の人足 ”掘り払い人足” だった。用水路内に貯まった泥や草を排除する仕事である。昨日は8時から11時半位までだった。最近は、この人足に来ないで「欠務費」を払う人も多くなり、人足の人数が少なった分だけ、出席する人の作業が大変になった。写真を撮れば良かったが、写真がないのが残念。次回は写真をアップしよう。

 さて、今回は弁当の話をしたい。皆さんは子どもの頃の弁当の記憶があるだろうか。私は、特に、学校へ持って行った弁当の思い出がないのである。昨日の朝のテレビ番組でバナナマンが、”最後のお弁当” 特集を放映していた。小学校、中学校、高校などへ弁当を持って行った思い出、そして、それが最後となった時の思い出。弁当を作っていた親の思い出と作って貰っていた子どもの思い出である。

最後のお弁当

 一杯思い出が映像とともに紹介された。写真は、新幹線 ”つばさ” が走り出した記念に買ったお弁当の空箱を取っておいて、”つばさ”と我が子に名前をつけた、その子の高校生最後の日に、この弁当箱を利用して作ってあげたお弁当の写真だそうだ。子どもが大好きなおかず満載のお弁当。こんな話題が次々と続く、涙腺が弱くなった我が輩には、映像がぼやけて見える。羨ましい限りである。弁当を作ってくれなかった両親に恨みはないが、思い出がないことを残念に思う。

 記憶に残る中学校時代、当時心臓弁膜症で運動を禁止された私は隣町までバスや汽車で通学していた。地元の中学校は自転車で行かねばならず、心配した両親が親せきを頼って、歩くことで行ける隣町に越境入学したのである。そして、そこでの毎日のお昼は、食パンにバタピー(バターピーナッツ)を挟んだパンと牛乳1本が毎日の昼食だった。今考えると、来る日も来る日も、良く毎日同じ昼食で飽きなかったと思う。

 家では小売店をやっており、朝晩は忙しく、子どもの弁当作りなどやっている時間が無かったのだろう。よく考えてみると、母親がお勝手に立って料理を作っている姿を見たことがなかった。近所の奥さんにお手伝いをお願いし、昼間、洗濯・掃除・食事(昼ごはん・夕ごはん)の準備をしてくれていた。

 そんな思い出に浸りながらこの番組を眺めていた。皆が忙しい時代だったのである。