ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

オーケストラは、歌うためにある

 例によって、夜中に目を覚ました。まだ、25時、26時だったので、前の日の番組を引きづっていたようだ。すると、玉置浩二が歌っている。彼を特別に好きでもないし、彼の歌が特別に好きなわけでもない。余程、私には、演歌の方が似合っている。

 

オーケストラは、歌うためにある

 そこで、彼が「オーケストラは、歌うためにある」という名言を吐いた。この言葉は、この番組で初めて聞いたわけではなく、その前にも、幾週間前かに聞いているし、オーケストラをバックに歌っているのを聞いた。また、その歌も、彼に歌い方も、オーケストラの迫力に劣らない唄い方で、興味のない私も番組に引きずられてしまった。

 

生バンドをバックに歌を

 昭和生まれの私たちは、夜の街のスナックでカラオケを使い良く歌った。しかし、その当時、こうしたスナックとは違う、生バンドのいる「クラブ」と称する、生バンドの演奏によって歌えて、お酒も飲めるという、若干割高な飲み屋さんがあった。ここのバンドで何回か歌った経験を持つ私でさえ、オーケストラを相手に唄ったら気持ちがいいものだろうと容易に想像がつく。しかし声量が問題だ。オペラ歌手のように、玉置浩二のように声量がある歌手ならいいが、我々素人の声量では、オーケストラの迫力に押されて、恐らく、声が聞こえなくなる。少なくても素人向きではないし、残念ながら、「オーケストラは歌を唄うためにある」とは言えないし、言うこともできない。

 

バンドとオーケストラ

 その迫力の源である、楽器の種類と演奏する人数に、バンドとオーケストラで違うのか、ネットで調べてみた。明確な違いはないと書いてある。一般的に、人数が多く、金管木管、パーカッションが揃い、大集団なのがオーケストラで、主にクラシック音楽などを演奏する、と説明されてる。確かに、「クラブ」などで演奏する生バンドは、せいぜい20人以下程度の集団だった。

 

オーケストラは聞いて楽しむもの

 その、オーケストラを相手に歌を唄うのである。常識を覆された。オーケストラは聞くためにある。歌うためにあるという発想は、歌が主で、オーケストラは従のように感じる。つまり、自分本位とも受け取られる考え方ではないか。一歩譲っても、同等だろう。つまり、共に楽しむともとれる。従来の発想から言えば、オーケストラは、演奏しているのを聞く、聞かせて頂くというもの。

 

何でもグループで楽しんだ昔

 今晩は、昔流行った歌をテレビ放映していた。オーケストラやバンドとは真逆で、自分でギターを弾き、神田川南こうせつが歌った。当時、玉置浩二も同じ年代だと思うが、フォークソングというのが流行った。自分でギターを抱え歌うのだが、それを皆で合唱するのである。また、グループサウンズというのも流行った。自分たちで演奏するのだが、5人、6人とグループを組み、自分達で演奏しながら歌を楽しむというやり方だった。

 

一人カラオケ

 その時代に生きた玉置浩二が、オーケストラを相手に歌を唄う、そして、「オーケストラは歌うためにある」と言う。時代も確かに変わった。個人が尊重され、個人の特徴が、もてはやされる時代になった。でもなかなか、ついていけない自分がある。「この世は、自分のためにある」とは言わないまでも、せめて、一人カラオケでもして、「カラオケは、自分のためにある」とでも、一回りも二回りも小さな自分で、うそぶいておくか。