「神田川」の作詞家、喜多條 忠が、74歳で亡くなったと今朝新聞で知った。同世代である。若かりし頃、フォークソングというのが流行った。その一つに数えられるのではないかと思う。今流行りの歌の直接的な表現とも少し違う、演歌の匂いのする歌詞がとても良い。
「・・・洗い髪が芯まで濡れて、小さな石鹸カタカタ鳴った、貴方は私の体を抱いて、冷たいねって 言ったのよ・・・」 あのかぐや姫が歌ったあの曲である。この前半の詞は、大学当時下宿先で、銭湯に行き、出てくるときに出会った若い娘さんの洗い髪を彷彿とさせる詞である。
さりげない奥ゆかしさ
演歌の良さは、全てを文章にしないところが良い。そして、日本文化も全てを曝け出さないところがいいのだ。「さりげなく」ということばが良く似合う。しかし、今の時代は違う。自分を売り出すことで、世界が開けるのである。かっては、世界一になることが難しかったが、つい先日の2020の東京オリンピックを見ていても、十代の若者が世界一になってしまう時代である。「さりげなく」振舞っているだけでは、いつまでたっても「さりげなく」なってしまうのだ。
達成感
今、日本で、お金さえ出せば殆どのモノが買え、殆どのことが叶えられる時代になった。ある意味、「つまらない時代」になったのである。努力して、お金がないのを何とか工夫してみんなで協力して、やっと叶えられるという「ありがたさ」「達成感」というものがない。その分、サッカーなどの試合でご贔屓のチームの応援に没頭し、「達成感」を味わっているのかもしれない。
百三つ
「百三つ」と言うことばをフィリピンで作った。フィリピンの会社で従業員の要望を聞く会を設けていた。色々な要望が出る。その中には、不合理なもの、お金がかかり無理だと思われるもの、ちょっと工夫すればできるものなど、多くのモノが含まれていた。考え方としておかしいものやお金の関係ですぐには無理なものなどは、良く説明をし、納得させ諦めてもらった。でも、会社としてちょっと努力すればできるものは実行に移した。
フィリピンの百三つ
どこでもそうかもしれないが、フィリピンという土壌は、国民性として非常に朗らかで、くよくよしない性格の人たちが多い。従って、誠意をもって説明すれば分かってくれる。その代わり、出来るものはすぐやってあげる、という姿勢が大事だった。そうです、もうお分かりと思うが、百聞いてあげて、三つを実行してあげれば、満足する社会風土なのである。百聞いて百実行したのでは、会社が潰れてしまう。
耐える社会
「我慢する」という重要性である。何でも叶えてあげればいいと言うもんじゃーない。特に、子ども時代には、「耐える」ことを覚えさせる必要がある。何でも自分の思いのままでは、わがままで、ちょっとした、いじめなどの逆境に耐えられなくなるばかりか、いじめをする加害者にもなってしまうのである。「耐える」ことが分かれば、相手の気持ちが分かるようにもなるのだ。
敢えて耐える心
余裕があり、何でも買ってあげられる環境にあっても、敢えて「耐えさせる」訓練をすることだと思っている。その代わり、何かを達成したらそのご褒美として、叶えてあげるという姿勢も大事だ。
「耐える」というのは、貧乏な人の専売特許ではない。貧乏な人でも、贅沢三昧の人は一杯いる。つまり、耐えることが出来ない人である。私も貧乏な人のはしくれだが、親からは、かなり「耐えること」は教わったと自負している。
日本でも「百三つ」の精神は大事だ。