ミドさんのブログ

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フィリピンの魅力(48.格差という平等)

 長く、ブログをやっていると、昔この記事書いたなぁーという気がショッチュウするものである。それというのも、面白い話や気にかかった話などは、あちこちで話しているせいか、話したことと書いたことがゴチャゴチャになり、分からなくなるからである。日頃気付くことの他に、海外での、最近はフィリピンの話題になっているが、これとて、何度も同じことにならないように、拙著「サラマッポ」の順番に則って書いている。それでも細かな部分では、重なっていることも多いと思われる。

 今回は、順番から行けば、「格差社会」について書くことになる。フィリピンと言えば格差社会である。拙著の文章をそのまま取り出して書いてみる。

 

格差という平等

 金持ちと貧乏人、日本人とフィリピン人、上司と部下、日本でいう平等という言葉は、フィリピンには存在しないかのようだ。一般的に、日本の場合、上司が偉そうなことを言っても、どこかで、精神的な面で尊敬しているならまだしも、「偉ぶって」という思いを誰しもがもつものである。天皇陛下は別な気もするが、総理大臣ですらそう思うのが日本の国民である。我々だってチャンスとお金があれば、国会議員だってなれる、と思っている”ふし”がある。

 

格差を受け入れる国民性

 ところがフィリピン国民は、特別に聞いたことはないが、どこか、そうは思っていないような感じがする。心底、格差社会を受け入れているような気がしてならない。駐在当時、ある人は、この心理は米国の統治時代、旦那様に仕えるといった、主従の関係ができ上ってしまった結果だと言っていた。

 であれば、外国人に対してだけかというと、フィリピン人同士でも、富裕層に対する貧困層の対応、更には一般の中間層の人たちも同様にこの格差を受け入れているように見えるのである。人種が別とでも思っているが如くである。富裕層の人たちを見る目や態度、言動に、諦めに似た自分たちとは種類が違うといった心情が読み取れるのである。

 

格差の現実

 フィリピンでゴルフをしているとコースの横に大邸宅がある。大きな敷地に、芝生が敷き詰められ、プールまである。こうした邸宅には、メードや庭師など数人の使用人がいるに違いない。

 そして一方では、ベニヤ板だけで仕切ったれっきとした家があり、トイレなどは仕切りだけで屋根などない、掘立小屋に家族一同住む家庭である。まだ家があるのは貧困層とも言えない。現に我々の従業員の家でもこんな家庭があった。中間層の下というところだろう。

 

変わらない格差社会

 フィリピン社会は19世紀から全く進歩していないかのような錯覚に陥る。政治は、富裕層の人たちで占められ、貧困層対策などはおざなり。自分たちに有利な政策を実行し、地元には、そうして儲けたお金の一部を、貧困層対策として還元するのである。そして住民は、それを”ありがたやありがたや”と受け入れる姿は、日本でいえば江戸時代の侍と農民の関係に似ている。

 

急がれる子どもの教育

 こうした関係を、貧困層も受け入れ、決して変えようとしないから不思議である。もっとも変えようとしても、システムが富裕層に合ったシステムであり、それを変えようとしたりすれば、富裕層からの恩恵も受けられないから変えられないという実態がある。貧困層と富裕層の格差がアジアの中で一番深刻な国ではないだろうかと思う。恐らく、あと数十年はこうした状況が続くと思われるからである。

 

 以上だが、フィリピンを去ってもう12年になる。表面上は新しいフィリピンになったように思える社会も、きっと、格差社会のままだ。これを直すのは、”教育”しかないと思うが、その教育の遅れが、結局そのまま格差につながっている。