ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

13の星

通勤電車

 今朝も、地域の小さな町の駅前でラジオ体操をやった。ホームが見える。若い人たちが、ホームで通勤電車を待っている。この子たちが生まれた頃、当時、私もこうして同じようにホームで電車を待っていたなー、と思い起こした。

 特に、若いお嬢さんは可愛い。私が男だからかと思っていたが、他人の娘でも、どんなに不美人でも、若い子には若さがあり、可愛いもんだ。

 

骨髄バンク利用、第一号者

 こんな年になって、毎日、新しいことを教えられるのも、教えられることに気付くのも特徴だろう。若い頃は、気づかず、何気なく知識として入り込んだものも、歳をとると、古い本が並ぶ書棚に新しい本が並ぶように目立つらしい。

 昨日のNHKプロジェクトX” がそうだった。骨髄バンク第一号利用者の話だった。勿論、白血病も言葉としては知っていた。白血病とは、骨髄ががん細胞に侵され、正常な血液が作られなくなる病気で、3分の1は、薬で治すことも可能なようですが、残りは、骨髄の移植で人命を助けるいう病気である。

 

骨髄バンクが出来た頃

 平成元年と言えば、今から、35年ほど前、つまり、私が40歳のころに、日本に初めて骨髄バンクというものが出来た。理由は簡単、骨髄には何万という型があり、型が一致しなければ移植はできないという厄介な病気である。だから、いろいろな人の骨髄を登録することになるのである。

 

骨髄バンクの立ち上げに、一人の女性

 この病気に、一人の女性が立ち上がった。彼女も白血病だったが、たまたま母親と型が同じだったこともあり、移植して助かった。ところが、入院中に知り合ったもう一人の女性は型が合う骨髄が見つからず、10代の若さで亡くなった。

 それをきっかけに、自分の主治医の先生と相談し、当時アメリカにあった、骨髄バンクを日本にも作ろうと奔走したのである。

 

立ち上げに難関

 これには、色々な難関があった。骨髄提供者、つまり、骨髄バンク登録者とするには、骨髄の型を調べる必要があるが、この調査にお金がかかり、その資金調達に苦慮したことである。そして、二つ目は、提供者として手を挙げても、実際に骨髄を採取するとなると、太い注射器を体に10本も打たなければならないことから、二の足を踏む人たちが出てきたのである。

 

利用者、第一号

 そういった難関はあったものの、骨髄バンク利用者の第一号が見つかったのである。個人情報の関連から、誰から誰に骨髄を提供するのかは一切明かされない。そんな中、一人の市役所職員の骨髄が、必要とする患者に一致することが分かり、採取する段階になった。親から、「人のためになれ」と子ども頃から教え込まれていた彼は、提供者になることを決断したが、家族の中で、母親だけが難色を示したらしい。

 彼は、実際の採取に当たり、太い注射を見てビックリし、躊躇したものの、採取した骨髄は患者に無事移植され、患者も白血病が完治した。

 

提供者と利用者の初顔合わせ

 そして、その骨髄を移植してもらった人が骨髄バンクの集会で、「この中に、私の命を救ってくれた人はいませんか?」という呼びかけに、会場に来ていた提供者が名乗りを上げ、初めてお互いに顔を知り、名前を知ることとなった、という実話のドラマである。

 骨髄バンクを提唱し、立ち上げに奔走した人も素晴らしければ、提供者も素晴らしい、出来そうで出来ない行為でもある。

 

当時の自分の環境

 この頃、私は、海外クウェートから、それも、小学生・中学生の子どもたちと一緒に3年間赴任し帰国したばかりだった。それも、平成元年9月と言えば、帰国して数か月で父親が亡くなった月でもある。ある意味、会社でも脂がのり切っていた時代でもあった。勿論、それを言い訳にするつもりもないが、「骨髄バンク」という言葉も知っていたし、中身も知っているような気がしていた。やっと、本当のことを知ったような気がした。

 日々、会社で、毎日の仕事に追われていた、そんな時に、骨髄バンクに奔走していた人がおり、骨髄を提供し、他人の命を救っていた人たちもいたということである。

 

13の星

 今でも、提供した人の腰には、骨髄を採取した注射の跡があるという。お風呂で子供に体を洗ってもらう時に、綺麗に並ぶ13個の跡を、子どもたちから指摘されるたびに思い出し、彼は、これを ”13の星”と呼んでいるという。

 現在、ドナー登録者は15万人。そして、その代表者が言う。「30万人の登録者が集まるまで頑張る」と。

 今回も、素晴らしい話を聞かせてもらった。感謝、感謝!