ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

他人に迷惑?

他人に迷惑を掛けるな

 「他人に迷惑を掛けるな」という概念。日本独特の概念、と考える方々もいるらしい。海外に、15年もいた私も、「日本独特」とは気付かなかった。なるほどそう言われてみれば、思い当たる節がたくさんある。日本語ボランテア教室で、先生である日本人が、学習者の外国人を待っていても、連絡もなしに出てこない。かと思えば、今日も来ないだろうと高をくくっていたりすると、突然出てきたりする。日本人なら、人に迷惑を掛けてはいけないよ、と諭す所だが、ここは外国人、先生側の事情も後でゆっくり説明する羽目になる。そして、意味が分り、以降、連絡してくる学習者(外国人)もいるが、それでも9割は、連絡なしのかってのままである。

 

空気を読む、何を読む?

 色々調べていると、日本人は空気が読めても、相手の事情は読めない、とあった。なるほど、全部が全部とは言い難いが、一部にはそういう御仁もいるだろう。つまり大衆迎合主義と言われるものである。この考え方はどこから来たのか。

 聖徳太子、十七条憲法、第1条、「和を以て貴しとなす」という考え方ではないのかと思われる。学校でも、家庭でも、「他人に迷惑を掛けてはいけません」と教わり、大人になっても、それが正しいと思い、さらに言えば、あたかもそれが他人への「思いやり」のように思っている。

 

人倫(じんりん)

 「倫理」とか「人倫」といった言葉がある。人倫とは、孟子が言った言葉に「契(せつ)をして司徒たらしめ、教ふるに人倫を以(もっ)てす。父子親有り、君臣義有り、夫婦別有り、長幼序有り、朋友信有り」というのがある。これは他人云々の話ではなく、自分はどう考えるべきか、という考え方である。「親、義、別、序、信」を五教というらしいが、これも、日本の家庭で教わる考え方である。

 

瀬戸内晴美の小説

 昨日、数日前に亡くなった、瀬戸内寂聴さんの訃報が流れ、どのマスコミも故人を文化勲章まで頂いた立派な人との論調で流している。私が高校生の頃だったと思う。新聞の連載か何かに、当時のペンネーム(本名・俗名)瀬戸内晴美の名で連載物が載っていた。確か、不倫を題材にしたか、ポルノまがい(当時はそう思った)の連載だったと思う。こちらが文学的な価値の分からない若者にとっては、当時としては、堂々と読める色っぽい小説だったことから、親の目を気にして読んでいた記憶が残っている。

 

当時の不倫

 当時、1960年代は「不倫」と言えば、「悪」であり、「社会悪」のような言われ方をしたものである。その瀬戸内晴美さんが、不倫をして、小説を書いている、との話だった。そして、半世紀が流れ、今の時代、瀬戸内寂聴さんをマスコミが取り上げ、困った人の話を聞き、説法をし、立派な人であるとの報道を続ける。市中の人の若い女性のインタビューでも同様である。「不倫」は五教に反する行為であり、それを容認し、その人を賞賛しているのだ。そして、政府は、社会は、文化勲章まで差し上げているということである。

 

人は変わる

 人は変わる。今が立派であれば、他人は賞賛してくれるのである。日本の教育は、日々変わっている。進歩?しているのである。「他人に迷惑を掛ける行為」も、いずれ賞賛されるのかもしれない。「他人に迷惑を掛けない」という概念は、日本独特のものであるらしい。

 

フィリピンの魅力(10.家族主義)

常会組織

  昨日、気の合う農業委員の集まりがあった。その席で、「常会」という”ご近所さん会”の話になった。私が住んでいる地域は、400世帯ほどあるが、その中に「常会」というご近所さんの組織があり、市からの回覧板を回したり、地域内で起こることを連絡したりするのである。かっては、お葬式が、この常会単位で行われ、葬式のお手伝いも常会の皆さんが助けてくれたりした、非常に近いご近所さんだった。ところが、新しくご近所に引っ越ししてきた人たちは勿論、今まで、常会に入っていた人たちまでが、脱会したい言い始めたのである。

 

周りのことを考える

 地域で各家共通のことをする場合や問題が起きた場合など、この常会の長、すなわち常会長が中心になって、事に当たることになる訳だが、その常会自体がない地域まで出てきて、問題が起きた時に誰が解決の中心になるのか分からなくなってきているという現実である。消防団を呼んで防災訓練をすることになったが、訓練の始めに挨拶をする人が、常会長がいないから、いない。そこで、その地域出身の市議会議員に挨拶してもらったなどという話も紹介された。

 

列車内殺傷事件、いじめ

 最近、周りの人を気遣うとか、自分の家以外のことを考えるとか、といった感覚が希薄になっているように感じる。そういう話をすると、それは年寄りが考えることではないか、今どきの若者は違うなどとと、”年寄”連中が言うのである。最近嫌な事件が多い。妻が夫を殺害する、夫が妻に暴行する、挙句の果ては、夫と妻で子供に暴行し殺害するである。こういった家庭の話以外でも、学校でいじめにあって子供が自殺する、列車の中で不特定な乗客の殺害を計画実行するなど、列挙に困らないほど連日報道されている。

 

社会を恨む現象

 核家族になり、夫婦間だけで解決しようとすることから、泥沼に入るということもあるだろうし、周りの人との交流が希薄になり、親身に相談する相手がいないことで悩み苦しみ、短絡的に走ってしまう、更には、こういった家庭で育つ子どもたちは、友達が少ないこともあり、相談相手がおらず、何かあると他人を恨む、社会を恨むという現象になる。

 

フィリピンの家族主義

 すっかり日本の話になり、フィリピンの話から遠くなった。言いたいのは、フィリピンの魅力である。フィリピンでは、日本と違い、末っ子が家の後を継ぐケースが多い。これは家族のつながりが強いことから来ている。貧困であるがゆえに、中学高校を出ると、上の子どもから順番に家を出て、仕事がある都会に行く。お金を稼いで実家に仕送りをする。この仕送りはこの子どもが結婚するまで続く。そして、末っ子は、こうした兄・姉の仕送りに支えられ、高学歴になるまで教育を受け立派に育つ。そして最後まで残ったこの末っ子が両親の面倒を見るという構図である。

 

長男が跡継ぎ、日本

 かっての日本と同じであるが、日本は、周りに働く場所があったので長男が、働きながら一緒に住んで、弟・妹が一本立ちするまで面倒を両親と一緒に見ることが出来た。そしてやがて、子どもができる。両親にとっては孫である。そして世代をつないでゆくのである。日本はこういった形式は、既に崩壊した。しかし、フィリピンはいまだに残る。だから、拳銃所持を認められているような国にもかかわらず、身内や赤の他人を傷つけるような事件は少ない。

 

家族主義が懐かしい、日本

 家族みんなで過ごすのもいいが、核家族の自由さに慣れきってしまった人間には、もう戻れない。あとは、こうした家族をどうやって教育していくかが問題である。社会教育の問題である。隣近所を思う「常会」も無くなりつつある。家族主義が大手を振るうフィリピンのような社会にどうやったらなれるのか、国民みんなが考えるときに来ている。

地域ボランティア

日本語教育ボランテア

 ブログに何度も書いているが、私は、日本語を外国人に教えるボランテアをしている。この拠点になるのが、茨城県県北生涯学習センターである。学習者は20人弱で、教える側は10人程度である。この外国語ボランテアは、日立市を中心に活動しているが、日立市には同様のボランテアが3グループある。

 

ボランテアの楽しみ

 学習者の主な職業は、技能実習生になるが、他に留学生、主婦、エンジニア、教師などとなっている。私が、このボランテアに足を突っ込んだきっかけは、一緒にやっていたカラオケ仲間が紹介してくれたものだ。既に、その紹介者はやめてしまったが、私はもう8年を超える。外国人とはいえ、若い人を相手にする仕事?は楽しいものである。そして、日本語がだんだん上手になっていく外国の若者の姿を見ているのも、これもまた楽しい。

 

外国人の引っ越し

 昨日は、この実習生の一人が、今の職場を辞めて他県に行くことになり、引っ越しなどの相談を受けた。宅急便に行き、費用や手続き方法などを調べてきた。今まで、私自身、海外生活などもあったり、転勤があったりして、転居を何度もしてきたので、引っ越しのことは良く分かっているつもりだったが、30年、40年も経つとすっかり様相が変わってきている。一番驚いたことは、よく行く宅急便では、単身者の引っ越しはやっていないという事実だった。茨城県内でも2か所位しか拠点がなく、そこでないと詳細が分からないという。

 

思うようにならない外国(日本)

 結果的に、いろいろ手を尽くして、調べたいことは分かったが、だんだんと変わるものだという経験をした。この実習生が、今使っているマットレスや自転車を持っていけないかという相談もあったので聞くと、輸送賃だけで、両方で3万円以上もするという。これでは、引っ越してから新品を買った方が安くなるので、実習生と相談し、持っていかない方が良いということになった。

 

北茨城市桃源郷(ARIGATEE)

 話が大分それたが、こうしたボランテアの拠点の、県北生涯学習センターで、いろいろなボランテアの紹介があり、体験コーナーがあった。10日ほど前に紹介した記事「伝統を守る」もこの時紹介を受けたボランテアであるが、その時、もう一つ紹介されたものがあった。「北茨城市桃源郷」である。これは、茨城県福島県の県境にある市、北茨城市に芸術家夫婦が移り住み、”桃源郷”化しようと活躍しているボランテアである。

 

我が町に移り住む芸術家夫婦

 同じ市に私も住んでいるが、そういえば市の広報誌で紹介があった活動だった。ボランテアに参加してみた。4,5日前のことだが、良く晴れ渡った天気のいい日だった。勝手知った道を福島県境と西に向かって進む。30分も車を走らせると、古い民家を改造したARIGATEEという建物が見えた。そこが今日の集合場所である。学習センターで同様にこの”紹介”を聞いて参加した人が、他に3,4人いた。このボランテアを始めた芸術家夫婦は40歳前後の方たちだった。70歳を過ぎた老人にとっては、若い元気のよい人たちである。

 

桃源郷”活動

 数年前に活動の一環として植栽した桜の木のメンテナンスの仕事だった。今までの添え木を外し、新しい添え木を立て、それに大きく育った桜の木を固定する仕事である。そして、作業の合間に、ボランテアの内容もいろいろ紹介して頂いた。炭焼きをしたり、休耕田を利用したレンコン畑やお花畑を作ったりと活動も多彩だった。そして、そうした活動の間に、芸術活動をしているということだった。

「生きるための芸術」とネットで調べると色々出てくるので、興味のある方は、是非、眺めて欲しい。

 

私の社会貢献

 よく考えてみれば、私は企業に入り、40歳と言えば、中近東のクウェートで家族で3年半生活していた時期である。企業を通しての社会貢献活動をしていた訳だが、この人たちのように、地域を良くしようと、活動している姿を見ると、頭の下がる思いである。もっとも、会社員でしか食べて行けなかったので仕方ないと言い訳がましいことを言うが、その罪滅ぼしに、今、外国人に日本語を教えるというボランテアをしている。私のとって、この夫婦がされている活動は、我がふるさとでの貢献でもあるので、応援したいと思っている。

フィリピンの魅力(9.他人の振り見て、我が振り直せ)

現地でもらった賞金

 お金にまつわる話を二つほど。フィリピンの製造会社だったが、大きく分けて二つの部門があった。その一つが、キャノン(フィリピン)が顧客だった、納入製品の成績が良く、不良品部門や納期遵守部門などで、毎年のように表彰を受けた。表彰式には、毎回出席し、表彰状をもらい、賞金を受け取り、受賞挨拶をして、会社へ戻るのだが、この賞金の処理で、当初もめた。

 

賞金の行方

 賞金金額は10万程度なので、部門全体で考えるとそれほど大きな金額ではない。でも、関連部門の従業員が200人としても、一人500円程度となる。この10万円の処理を関係部門で相談させてみた。すると、出た結論は、全員で均等割りにするという結論。フィリピンで500円と言えば、日本で考えれば1000円位の感覚ではあるが、それでも、なかなか日本人の感覚では、そういう結論にはならないだろう。お金の価値を重要視する日本人と、ぱっと使いたい感覚を持つフィリピン人の感覚の違いである。

 

金欲を物欲に変える

 ここには、全員で分けるという問題と、関係部門だけで分けるという問題の二つがあった。そこで、関連部門だけでなく全従業員で、しかも物品で分けるという結論にした。

 何でもお金にしたがる国民性を持ち、社内でも不良率をよくしたら、フリーランチをご馳走してくれ、という従業員たちである。この何でもお金にしたがる性格を変えたいという気持ちもあった。また、一部門の成果ではあるが、人のやりくりなどで、他部門も協力してくれた成果であることから、全社で受賞を喜びたかったのだ。

 

お金の貸借

 もう一つの話は、お金の貸し借りの話である。赴任したての頃、ドライバーと常時行動を共にしていると、その内、ドライバーが一時的にお金を貸してくれ、と言い出す。そうして貸したお金が戻ってこないと、日本人がぼやくのを何度も聞いていた。私のドライバーも同様に言い出した。そこで、どうしようか考えた。日本人の中には、もうフィリピン人にはお金は貸さないと決めている者もいた。でも、それでは可愛そうなので、貸すには貸すが、支払い計画を立ててあげた。1万ペソなら、給与日に1000ペソずつ返す計画である。そして毎月給与日に1000ペソを返金してもらったら、支払い計画表にサインしてあげるというものである。すると、2万ペソや3万ペソを貸すこともあったが、一回も貸倒はなくて済んだのである。

 

フィリピン人の性格

 つまり、どういうことか。一つは、フィリピンには、お金持ちはお金を持たない人に施しをするのは当たり前という考え方がある。だから、ドライバーと日本人を比較すれば、日本人の方が裕福なはずだという論法。それと、もう一つは、毎月毎月支払うなんて、フィリピン人の性格からして、面倒で堪らないのである。きちんと計画を立ててあげれば、それは実行できるが、計画自体を考えることすら面倒であり、パッパッと処理ししたいのである。決して、間違っても踏み倒そうなんて考えは毛頭ないのだ。

 

他人の振り見て我が振り直せ

 しかし、当時の日本人の間では、フィリピン人はズルイという評判が立っていた。その評判自体間違っているのである。長くフィリピンにいればこうしたことも分かるが、ちょっとばかりフィリピンをかじった程度では分からない。「・・・人は、こうだよ」と我が知り顔で話す御仁もいるが、フィリピン人には迷惑な話である。決してそんなことはないフィリピン人達である。

 この手の話は日本人の間にも当てはまる。原因は他にあるのに、いかにもその人が悪いように言う人である。「他人の振り見て我が振り直せ」という諺もある。人を正しく理解したいものだ。

蒸気機関車

 このブログは、いずれ本にするつもりでいる。だから、自分の記録的な要素もある。そのことから、読んで下さる方々に興味のないことも時々載せるのでご承知いただきたい。

 

「汽車」と呼んだ

 テレビを視ていたら、蒸気機関車の写真が出てきた。そうだ!と思い立ち、蒸気機関車のことを書いておこうと思った。私が小さい頃だからもう60年も前の話だ。

 蒸気機関車が引く列車のことを、「汽車」と呼んだ。そして、それから10年も経つと、一部常磐線も電化された。その時から「電車」と呼び方が変った。なかなか電車という呼び方が板につかず、よく汽車と言っては、周りのみんなから注意されたりもした。その汽車の時代の話である。

 

物珍しい「汽車」のお通り

 家は、道路に出て西の方を見ると、常磐線の踏切が見える場所にあった。よく親せきの子どもたちが家に来ると、電車をあまり見つけない子供たちは、汽車が通るのを間近で見るために、その踏切まで行ったものだった。そして、その踏切は自動の警報機が付いていたが遮断機はなかった。交通量が少なかったせいなのか、近くの別の踏切には遮断機があり、係のおじさんがその遮断機を手動で上げたり下ろしたりしていた。

 

改札通らずに「汽車」に乗り込む

 駅に一番近い踏切にはこの遮断機が付いていて、汽車に間に合わなそうになると、この汽車を遮断機の前で見過ごし、汽車が通ったすぐ後、遮断機があがると同時に線路内に入り、線路わきを通り、ホームまで走り、汽車に乗り込んだものだった。つまり、駅の改札を通らずに汽車に乗り込むのである。よくしたもので、遮断機を操作する係のおじさんがいたが、高校生の私が線路脇をかけて行くのを黙って見過ごしてくれたものだった。

 

「汽車」のデッキ

 そして、汽車には、デッキという場所があった。客室に入る前に外の風がぴゅうぴゅう吹くデッキである。学生たちは客室に入らず、このデッキにたむろしていた。前の車両と後ろの車両に両方にデッキが付いているので、ここだけでも10人程度は立っていられるのだ。遠くに行く時などは、汽車でいく人と見送る人は、このデッキで「じゃね」などと別れを惜しんだものである。今のように客車内に入り、ガラス越しのサヨナラではないのである。

 

トンネルを抜けると

 ところがである。私が通う駅間にはトンネルが二つくらいはあった。汽車が電車に入るとどうなるかである。蒸気機関車が吐き出す黒煙がデッキに押し寄せてくるのだ。もちろん列車の前の方だとひどいことになるが、いつも後ろの方の車両だったので、それほどひどくはないにしても、当然ながら口なんて開いてはいられない。耳や鼻などに黒煙のすすが入り込むのである。

 

鉄橋を通る「汽車」

 また、何本かの川もあった。鉄橋をガタンコトン、ガタンコトンと乾いた音を響かせ汽車は進むが、デッキから眺める鉄橋や川も、この音が軽快で爽快だった。今の時代にああした乗り方をしていたら、すぐ、安全対策をという所だろうが、そんなことを言う人もないし、振り落とされるなんて事故も聞いたこともなかった。みんなが注意していたのである。

 

ホームの売り子

 そして、私は四つ目の駅で降りるが、二つ目の駅は、私の乗車駅より少し大きな町だった。そこでは、駅弁や土産物の饅頭などが入った平らな木箱を首から下げた弁当売りのおじさんがホームにいた。そして、それを買いたい人は、客室の窓を開け、そこから首を出してこの売り子のおじさんに向かって、「弁当、二つ下さい!」。すると、それに気づいたおじさんが、木箱を首から下げたまま、走って近づいて来て売ってくれるのだ。中には、発車寸前にこれをやる乗客もいる。すると、汽車は走り出すわ、弁当は買わなきゃならない、おじさんは売らなきゃ-ならない、お金ももらわなきゃーと大忙しになるのである。みんながこの二人の様子を笑いながら眺める。

 

置き去りになった「のどかさ」

 そんなのどかな風景も、汽車が電車に変わったことでなくなった。そして、デッキに立って危険ということに自らが気が付き注意する癖がついていたのに、安全が騒がれ、自分で気を付けなくても相手が考えてくれるようになり、いつの間にか自分の身に降りかかる危険も蚊帳の外になってしまった。

 こうして、注意やのどかさなどがいつの間にか置き去りになっていった。

フィリピンの魅力(8.メンテナンスフリー)

日本の空き地

 6号国道沿いに公園らしきものがある。そういった目で見てみると、各地に点在している。「公園らしき」という表現なのは、公園のように広大な敷地ではなく、道路を作った時に、少し余り、道路わきに10坪、20坪といった土地のことだ。こうした土地の管理は、道路管理者なのか市町村なのかよく分からないが、道路建設当初は、公園らしく植栽をしたり、公園内道路らしく作ったりして整備してあったが、日にちが経ってくるとそのままに放置され、年一回位、その時だけ申し訳なさそうに、草刈などして整備される。つまり300日以上放棄地状態で、草ボウボウの状態である。

 でも、さすがに、日本の場合は、有名な場所へ行けば、四六時中整備が行き届き、いつ行っても周りは綺麗に整備されているところが多い。

 

フィリピンの名所旧跡

 しかし、フィリピンは違う。フィリピンで唯一といってもいい位、”拙いよなー”と思わせるところでもある。フィリピンは、マニラでも、郊外でも、スペイン統治時代の遺跡といわれるものが、そこかしこに存在する。

 マニラ市内で有名な・・・教会へ行った時のことだ。ガイドブックに載っているような教会なので、中はどんなになっているのだろうと、期待を膨らませ、訪問してみた。日本のように、こういった場所は、入口の表示があり、説明文がしっかり書かれており、そして、内部に入れば、通路の表示があり、といったところだが、ここには何もない。しかも、中に入れば、ガラスは割れ、床も傷だらけ埃だらけの有様だった。もう、何年も放って置いたとしか思えない代物だった。

 そして、郊外の美術館と言われている建物に行った時のこと。絵画が十数点の美術館ではあったが、絵の表面には白い埃がこびりつき、絵自体が全体的に白く見えるような状態だった。そういう目で見てみると、マニラ市内の公園と言われるような公共施設全てが、長く放置されたままなのである。フィリピンであるので、作った当初は、それはそれは華美なセレモニーなどやったことが容易に想像はつくが、全てが万事この調子なのである。

 

予算の出どころ

 これは、貧困がなせる業であり、そんな公共設備を整備するくらいのお金がある位なら、貧困家庭を何とかしろ、という訳である。でも、貧困ばかりではない。何度も書いているが、フィリピンは1%の金持ちと99%の貧困者で成り立っている国であり、そして心ある金持ちが貧困者に施すという文化である。しからば、金持ちがこうした公共施設は何とかできないものかと思ってしまうが、そこがフィリピン人たる所以なのだろう。きっと、お金がないのではなく、無頓着なのだろう。

 お金持ちと言っているフィリピン人は、日本人のいうお金持ちとは桁が違う。従って、その気にさえなれば容易なことだ。

 

メンテナンスフリー

 冒頭にあげた日本の例も含め、私は、これを称して「メンテナンスフリー」と言っている。つまり、メンテナンスしない、ということ。メンテナンスというのは、日本でもそうだが、最後の最後に追いやられてしまう。そして、余りモノのように、予算があればやるが、なければやらないということなのだ。しからば、そういったものを最初から作らなければよいようであるが、そうもいかないようだ。

 我が家の植木も庭も全く一緒。メンテナンスフリー状態を何とか解消すべく、毎日2時間ずつ、時間を決めて整備するようにしているが、老体に鞭打つのも大変である。

          (つづく、・・・)

 

 

聖徳太子1400年忌

千年札の肖像画の1400年忌

 かって、千円札の肖像画になった聖徳太子である。今年は、1400年忌になるのだそうだ。すなわち、亡くなったのは、622年4月8日だそうでだが、この命日も色々説があるらしい。本名は、厩戸皇子(うまやどのおうじ)と言われるのは、誰しもご存知のところだろう。聖徳太子という名前は本名ではなく、正確には諡(おくりな)とか尊称といわれるものだそうだ。

 

聖徳太子の生涯

 あまり話題にならないのが不思議だが、1週間ほど前にこの話題をマスコミで取り上げていたので興味を持った。あまり詳細を知らないという人が多いのではないだろうか。じゃー生まれたのは何年かご存知でしょうか。574年2月7日だそうで、48歳で生涯を閉じたことになる。今の時代なら早死にという所だが、当時は平均的な生涯だったのではと思われる。ただ、叔母である推古天皇より早く亡くなった。また、その偉業は、48年間で出来るとは思えないものであることは確かだ。そういう意味でも卓越した才能の持ち主だったのだろう。

 

摂政としての功績 

 叔母の推古天皇のもとで摂政として、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制を作ったり、遣隋使を派遣し中国の文化を取り入れたり、日本人に仏教の考え方を根付かせたのも聖徳太子の功績だろう。そういった意味で、日本人の外国にはない、日本人の心の創設者と言えるかもしれない。

 

法隆寺

 聖徳太子と言えば、法隆寺が必ず出てくる。我々が高校生の修学旅行先と言えば関西で、必ず、法隆寺を訪れたものだった。この法隆寺は、推古天皇聖徳太子が建立したと言われているが、670年に一度焼失したと日本書紀に記述があり、現存する法隆寺は再建されたものらしい。その法隆寺内の金堂内部にある、薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。

 

法隆寺内の建物構成

 関東圏の人間にとっては、私だけかもしれないが、京都も奈良も区別がつかない。法隆寺は奈良にある寺院で、一般のお寺のように建物が一つでないことはご存じのとおりである。その法隆寺の構成を見ると、敷地内には、先ほど触れた金堂、そして五重塔を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられるそうで、西院伽藍は、現存する世界最古の木造建築物群だそうだ。いずれにしても、法隆寺内の建物の創建時期、焼失時期、そして、何と何が焼失して、何が再建されたか、一度よく、ネットなどをよく読んで、まとめてみたいと思っている。

 

聖徳太子のお墓は大阪

 そして、聖徳太子のお墓はどこにあるかであるが、大阪府の叡福寺にあるのだそうだ。なぜ、奈良に法隆寺を作り、奈良の明日香で政治を司っていた聖徳太子が、大阪に祭られているのかが不思議に思ううが、生前から亡くなったら現在叡福寺のある場所にと言っていたらしい。叡福寺は、聖徳太子が亡くなってから、当時の天皇である叔母の推古天皇が建てたとされている。聖徳太子の墓は、叡福寺内で古墳となっている。

 叡福寺のある場所、大阪の磯長一帯は、太子の他、用明天皇推古天皇といった曽我系皇族の陵墓があるそうで、そういったことから、聖徳太子は、この地域にと言っていたらしい。

 

歴史はおもしろい

 色々調べていくと分からないことだらけである。分からないことを調べ始めると、これほど面白いことはないように思える。なぜ学生時代に興味を持たなかったのか、興味を持っていたら、自分の進む道もエンジニアという方向ではなかったかもしれない。そういった意味でも、いろいろな学問に興味を持つということは、自分の人生をも左右する大事なことだと改めて知らされた。

 今年は、聖徳太子の1400年忌であり、丁度1400年目という節目に生きていたことをラッキーと思いたい。