ミドさんのブログ

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世界おもしろ昔のはなし㊹

買い手が見つかる古い製造機械

 色々な会社が噂を聞き付け、古い今は稼働していない機械を見に来た。また、世界に散らばっている、特にアジア地区に配置された、親会社の営業マンの人達も応援してくれた。そうして、10社余りの、中古機械を購入したいという会社が現れた。

 所が、一番大物の押出機で古いものは、古物品のような機械もあった。親会社での稼働も含めて、20年以上の古い機械だったのである。撚り線機は22台もあったが、小型である事から移送が簡単で手軽ということもあり、比較的引き取り先が早く決まった。そして伸線機は、比較的新しい機械であったことから、一番先に買い手が見つかった。

 

1年半かけた古い機械の処分

 こうして、フィリピン国内にある日系の会社、ベトナムの電線メーカー、そしてインドの電線メーカーなどに、これらの機械は引き取られていった。我々としては、輸送費も一切掛けず、1年半の年月が掛ったが、全て綺麗に売り切った。確か、既に、二〇〇八年半ばになっていたと思う。事業撤退決断から、機械の撤去まで、3年間も撤退のプロジェクトをしていた計算になる。この時、赴任してから4年が経過していた。

 

後に残された機械の固定穴

 跡には、機械が床に固定されていた穴と、だだっ広い空間が残った。私が赴任した当時の工場の状況を思い出していた。

 工場は、全部で1万6千㎡位あったが、その内、電線を作っていたのが、主工場の建屋で、1万1千㎡あった。また、この空間は、一部隅の方で新製品と他の残った製品をを製作していた。そして、4千㎡が倉庫と言われた、何も置いていない空間だった。残り1千㎡弱が事務棟だった。

 それが、私が赴任して、新製品と言われるものが増え、倉庫と言われた空間が工場に変わり新しい機械で一杯になった。しかしその一方、今、電線製造跡はただの広い空間と化した。そんな寂しい工場になってしまったのだった。これで良かったのか。自分で仕掛けた事業撤退だったが、現実に空しい何もない空間を眺める度にいつも感じた。

 

新生会社の誕生 

 83人の仲間が会社を去って行った。売上は、撤退前の1/5にまでなったが、従業員の数は、2割減っただけで、8割が残っている。幾ら人件費の安いフィリピンでも、経営が苦しくならない訳がない。事業縮小前から、事後の青写真を敷き、当初の赤字を黒字にする道のりも出来あがっていたのだが。

 解雇した直後、残った従業員の心のケア―も考え、多少大風呂敷ではあったが、今後の拡張計画、事業計画などを、残った従業員の前で、親会社役員、部長が来比、来社し、説明して頂いた。これは、事業縮小に当って雇ったコンサルのアドバイスであった。要は、冒頭に述べた、売上内容、従業員の構成を知っている従業員が、会社に諦めを付けて辞めて行ってしまう事を懸念して、このようなアドバイスをしたのである。

 

辞めてゆく従業員

 事業縮小をする場合、通常は、売上比率の小さい、儲かっていない事業を縮小してゆくものである。しかし、数年先を見通し、売上比率の大きい、現時点では利益の源である事業を止めてしまったのである。幾ら楽天的なフィリピン人従業員でも、不安にならない筈がない。現に、これから先は大丈夫か、何か事業が増えるのか、日本から仕事を持って来て欲しい、と、会社をこよなく愛する従業員から、何度も、何度も、私に言って来ていた。また、現実に辞めてゆく従業員も少しずつ出始めていた。

 

新生会社の方向性 

 しかし、今や、「少ない売上で利益を上げる」事が命題になったのである。やる事は簡単、事業を拡大する事とコストを安くすることだった。事業拡大にも色々ある。販路を広げる事や事業の種類を多くすることも事業拡大だ。しかし内需のないフィリピンでは、それも期待できず、事業の種類を多くする事に集中せざるを得なかった。

(つづく。次回より経営的な話から、残された従業員の動きについて・・・)