楽になった現場の管理
工場内の現場管理は、古株マネージャーをランクアップさせた事で、かなり楽になった。そればかりではなく、兼務していた品証マネージャーを生産技術のマネージャーにやらせることにした。一方、日本人の経理担当は帰国し、その代わりタイに本拠地を置く日本人経理担当が、タイとフィリピンの2社を兼務することになった。彼は、タイをメインに、時々フィリピンに来て、その都度2週間程度の滞在なので、そのため、経理をかなり重点的に見ざるを得ない状況になっていた。
一方で経理業務に注力
こうして、二〇〇七年の1年は、経理をしっかり見たことで、今まで見えていなかった細かな所まで見えるようになったのは、大変ではあったが、経営的に非常に役に立ち、特にコスト削減や従業員の意識改革には大きく寄与出来たのである。多忙ではあったが、一方で、非常に充実した1年でもあった。
増えてゆく社外活動
約5年もフィリピンにいると、日本人仲間でも古株に数えられるようになり、自分の会社管理以外の仕事が増えてきた。会社のある団地の社長会であるリマ会、グループ会社の社長会、そしてさらに大きい組織の春光懇話会の代表まで務めることになった。そして、帰国間際に、フィリピンの日本人会のJETRO技術メンバー、ベトナム工業訪問団としてハノイ、ホーチミンの日本企業の工業団地を訪問した。
引継ぎ
ベトナムから帰って数カ月して、後任が入国してきた。それまで、引継書と言うものも書き貯めては来たが、実際の引き継ぎとなると結構書いて残しておくことが多くあった。取りあえずの日常の引継書、フィリピン特有の気を付けたい事項などをまとめ、後任に説明し渡した。私の帰任日が決まると、あちこちの関係者からゴルフのプレーの申し出があった。これまでは、そうした業務中のプレーは極力お断りしてきたが、この時ばかりは我儘を言い、出来るだけ参加した。最後の月などは、月の半分位ゴルフをしたような気がする。
いよいよ帰国(=定年)
そして、全従業員に見送られながら、二〇〇九年五月二十七日帰任したのだった。帰任して見ると、自分の机は何処にもなかった。
今まで、立場上、退職時には、花束を用意し、同僚や部下に見送られながら、帰って行く退職者を何度もお送りして来た。しかし、そのような華々しい見送りは私には一切なかった。辛うじて、何とか面目を保ったのは、あの10周年記念行事に来て頂いた副社長から、「最後だから、会食でもしようか」とお誘いがあったこと位だった。
元々、現地会社は本社所属だったが、本社よりフィリピンへ出向し、現地会社の社長をやっていたので、本社には机も無ければ、所属も無かったのである。これは本社での出来事であるが、工場にも長い間お世話になった方々が沢山いたので、翌日は、日立地区の工場を回り、そういった方々にご挨拶し、39年の会社生活が終わりを迎えたのだった。予想もしていなかった、寂しい退職となった。
これで、現地会社内での業務上の出来事はほとんど網羅した。次回以降は、フィリピンという素晴らしい国をお判りいただくため、本来の業務からは離れ、いろいろ経験した経験談を綴ってみたいと思う。
(つづく、・・・)