ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

世界おもしろ昔のはなし(64)

住居

 日本にいる時と大きく変わったという点では、自炊生活を強いられたということが特に大きい。

 赴任当初、マカテイ(Makati)と言われる首都圏、日本で言えば、都内のコンドミに住んでいた。フィリピンでの日本人の住居は、赴任当初、マカテイかアラバン(Alabang)のコンドミに住むと言うことが一般的で、セキュリテイ上、住むのに安全な場所と言うのが一番の理由だった。私もそれにならい、最初の1年は安全なマカテイに住んだ。25階建てのコンドミで、最上階の24階に住んだ。フィリピンの全てのコンドミが、所謂、最上階、25階は、コンドミビルオーナーが住んでいたため、一般の人が住む最上階と言えば、1階下の階からが賃貸住居となっていた。日本で高層ビルに住んだことが無かったことから、最上階の住み心地を味わいたくて、最上階の24階を選んだ。ちなみに、住居費は、会社持ちだが、7,8万ペソ(約14、15万円)だったと思う。これでも、グループ会社の社長としては安い住居の方だった。

 こうしたコンドミは、1階にガードマンが1年中、24時間詰めていて、入居者をチェックするシステムになっていたため、安全面上、非常に安心だった訳である。そうした安全もあり、前述の2地区に日本人が集中して住んでいたが、これには、買い物、生活の便利さも理由としてあったものと思う。

 

便利な、マニラ・マカティ

 日本食売店は勿論のこと、各国料理のレストランがマカテイには揃っていた。マニラは、一国の首都であり、その、いわゆる首都のど真ん中がマカティである。レストランばかりではなく、スーパーマーケット、各種レストラン、映画館、遊園地、衣料品店、家具店、工具店、ともかく、何でも揃っていた。しかし、そういった場所への移動には、常に運転手付きの車での移動だった。自転車なら行けそうだが、自転車はおろか徒歩もご法度の場所柄だった。ちなみに、理由は分からぬが、フィリピンでは、自転車にお目にかかったことは一度もない。

 

レストラン

 そして、マカテイに住んだ理由には、もう一つあり、フィリピンのレストランや歓楽街の状況を調査・理解するために、住むことにしたのである。皆で、夕食を取る時などは、出来るだけ毎日違う店を選んだ。それも、日本食は勿論のこと、韓国料理、中国料理、スペイン料理、イタリア料理、フランス料理、ドイツ料理、勿論フィリピン料理、そしてアラブ料理まで経験した。一通りこれらを回ってしまうと、後は、新しく出来たレストランには、試験的に行くが、気にいったレストランに集中するようになった。こうして、殆どのレストランを知ることが出来、日本からのお客様の接待には、困ることはなくなった。何料理が良いですか、とお聞きし、お客様の程度によって、レストランのレベル、雰囲気、食事の質を選んだ。

 

駐在員の別の側面

 駐在員は、その国の状況を把握し、出張者の来訪に備えなければならない、という手法や考え方は、オーストラリア出張、シドニーでの生活でも触れた。その昔、オーストラリアの駐在員に教えてもらった。彼も今では亡くなったが、非常に頭の良い技師長までなった上司に教えられたと言っていた。こういった考え方は、代々、受け繋がれて来るものかと思ったものである。

 

歓楽街

 また、フィリピンのあらゆる歓楽街も経験した。日本で言う、フィリピンパブと言われるカラオケバー、日本ではお目にかかれないゴーゴーバー、ちょっと高級なピアノパブ、演奏付きレストランなどなどで、これらに日本人男性は群がっていた。赴任した2003年~2004年にかけては、誰もが、カラオケバーに出掛けた。入ると、女性(ホステス)を指名し、席に付き、カラオケをステージで歌うのである。歌ってない間は、ホステスとの会話を楽しむ。面白いことに、奥様と出かける赴任者もいる。すると、奥様もホステスを指名しなければならないのである。こうした歓楽街の詳細な状況については、機会があれば、別項で書きたい。非常に奥深いものがある。

 

 かくして、1年目は、25階建て高層ビルマンションの24階に住むことになったのである。

     (つづく、・・・)