ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

世界おもしろ昔のはなし(66)

前回は、フィリピンでの「住居」について書いた。これは、日本人駐在員が利用している「住居」である。今回は、その「食事」がテーマだ。

 

食材調達、何でも揃うマカティ、でも・・・

 朝食準備。必ず、味噌汁は作った。フィリピンでは、食材の質を問わなければ、日本同様とまではいかないものの、結構何でも揃う。大根(しわしわで細く短い)、ニンジン(大根同様)、ネギ(細く短い)、玉ねぎ(小さい)、キャベツ、モヤシ(細く長い)、葉っぱ類(特に中国野菜の空芯菜と言われるもの)も同様に、見るからに新鮮ではなく、萎れた野菜の中から良いものだけを選別するのがコツ。これらが一番安いのは、①一般庶民というより、貧困層が出入りする市場。次は、②日本で言うデパートの地下街。一番高いのは、③日本食店や外国人層を対象にした、食材店。①、②、③と質が上がって来るのは当然である。

 

新鮮さがネック

 新鮮な肉・魚は市場へ行けば買えたが、野菜は市場に行ってもなかなか手に入らなかった。新鮮さは良いとしても、何せ市場が汚いのには閉口。また、卵に至っては、あの炎天下、卵をバイクなどの荷台に乗せて売り歩く姿を見て、生で食べるのは止めた。魚や肉は出来るだけ大きなブロックで買い、自分で小分けにして、新鮮味を保った。

 

日本食の調理

 こうした具材を使って食事を作った。朝食は、納豆、卵、海苔、各種瓶詰、缶詰、などなどが多かったが、後半の3年位は弁当作りもしたので、弁当に入れる残り物を朝食で食べたりもした。弁当のおかずには、毎朝、煮物や焼き物などを調理して入れるのを基本とし、殆ど、出来あい、冷凍食品は使わなかった。冷凍食品代わりに前もって自分で作り、冷凍にしておいた。キンピラ、切干大根、ヒジキなども前もって調理して冷凍しておき、おかずに使った。出し巻き卵などは朝調理した。調理、朝食、弁当作りに1時間は掛けた。ご飯は、休日に炊き、1食分毎にラップで包み、冷凍しておいた。

 

弁当作りを始めた

 弁当作りには訳があった。当時、77kgから80kg程度まで体重が増え、なかなか減ることがなかった。昼食は、当時団地内にある日本食レストランで食べるか、そこから配達された弁当を食べていた。しかし、量が多いこと、その割に高い(400ペソから500ペソ=千円程度)ことから、体重を減らす目的も含め、現地の人が食べるレストランに行って麺類なども食べてみた。しかし、味が今一つであり、それまでに「料理作りの楽しさ」が分かってきたことから、弁当作りを始めたのである。これが、ストレス解消に抜群の効果だった。料理作りをすることで話題も出来る、交流も出来る、一石二鳥、三鳥だった。それなりの料理が出来るようになったことから、取引先の社長や当社日本人社員をお呼びして、私のコンドミで食事会を催したりもした。更に、会社のローカルのマネージャー達を招待しての食事会までも催した。日本食を作り御馳走するのである。日本食が大好きなフィリピン人が感激しない訳が無い。人心掌握術の一つに料理を使った。

 

外食を囲んでの歓談

 夕食は、若い従業員とのコミュニケーションの場であり、取引先、グループ会社、顧客などとの交流・接待の場でもあった。ともかく、土、日を除いて、殆どが外食だった。家族持ち駐在員が増えた後半の2年は、彼らの家庭団欒を考え、週1.2回程度の外食のお誘いに減ったが、最初の3年間、週4回は、これらの人達と外食を囲んで歓談した。今でも、この時の楽しい思い出が鮮明に残っている。 

 外食の場合、1回の食事に、千ペソから二千ペソ(三千円から五千円位)位かかったが、日本人の夕食としては、フィリピンでは通常の食事であり、何よりも、この夕食が、単身赴任の憩いの場であり、ストレス解消であり、コミュニケーションの場であり、海外での仲間意識の醸成の場でもあった。当社の日本人駐在員達とも割り勘(多少、職位で傾斜は付けたが)であったが、取引先、顧客なども基本は、割り勘だった。お互いにそうしたお付き合いをさせて頂いた。

 

外国人・日本人の接待

 外食と言えば、接待の食事も何度も経験した。工場から部長クラスが来比した場合、役員の場合など、相手により、食べる場所が変わった。役員以上の会食では、役員が支払いをしてくれた。勿論、親会社持ちである。

 顧客外国人相手の会食では、言葉の問題もあり、非常に大変だった。それでも、アジア人相手の場合は、英語がそれ程お互いに得意でない事もあり、それ程苦労はしなかったが、米国人相手の会食では、話題を何にするかも含め、結構冷や汗ものだった記憶がある。

   (つづく、・・・)