ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

フィリピンの魅力(28.メイド・イン・フィリピン)

日本のお手伝いさん

 日本では、かっては、お手伝いさんという職業が、あちこちにあった。金持ちの家、共稼ぎの家、何かの家業に忙しい家など一杯あったのである。そうした家では、お手伝いさんを雇った。ある種、分業である。私の家は、小売り業だったから、家の中の掃き掃除などはお手伝いさん任せだったし、昼ご飯や晩ご飯なども、お手伝いが用意した食事を食べたものである。

 

お手伝いさんの変化

 小学校の頃は、学校から帰ると、お手伝いさんが待っていて、おにぎりを作ってもらって食べたものである。外国でいう上下関係があったわけでもなく、近所の奥さんが小遣い稼ぎも兼ねて、お手伝いをしてくれていたのである。もっとも、学校に上がる前の頃、昭和30年代前半は、本当のお手伝いさんだった。この時は歴然と上下関係があった。洋風に言う、いわゆるメイドである。

 メイドに慣れていない日本人が、メイドなどを雇うととんでもないことになる。完全な上限関係であり、相手の人格を否定するような行動さえ許される世界なのである。そうした世界には、日本人は慣れていない。

 

フィリピンのメイド

 フィリピンにいる間に二人のメイドを雇った。雇う必要もなかったが、雇ってくれという依頼があったからである。

 今でもはっきりと覚えている。それだけ印象深い出来事だったということだろう。最初の1年目で起こった出来事である。それまで、夕食は外食だったが、いつも行く日本食の食堂の経営者がフィリピン女性と結婚した日本人だった。その奥さんの姪っ子が、田舎から出てきてブラブラしているという。メイドとして雇ってくれないか、という誘いである。当初は、そのつもりがなかったが、それでも、いつも仲良くしてもらっている日本人だったので、断り切れず、面接して決めようということになった。

 面接では、この日本人夫婦、そして姪っ子、私と4人で、この食堂で会った。いかにも田舎の娘という感じだった。年を聞くと16歳(この当時は、高校卒が16歳だった)。フィリピンでは、18歳以上でないと働けない仕組みになっていたが、知り合い同士の親せきということで雇うことにしたのである。

 

メイドの実情(一人目のメイド)

 ところが、雇ってみて驚いた。英語が話せなかったのだ。面接時に恥ずかしそうに下を向いて何も話さなかったのは、若い子供だから恥ずかしくて話さないのかと良いように解釈したが、そうではなかった。英語が話せなかったので、何を話していいか分からなかっただけだったのである。それからが大変だった。ご飯の炊き方(電気釜で炊くのに)、みそ汁の作り方を見よう見まねで作って見せて覚えてもらうのである。

 そして、1,2か月経って、事件が発生した。外線の電話代が異常に上がったのである。私が住んでいたマンション(フィリピンではコンドミという)は、電話は、外線にかけるときは、ゼロを回せば、後は、国番号、エリア番号、電話番号で、世界中どこへでもかけられるようになっていた。日本には原則月一回と決めていたので、電話料金もほとんど毎月同じ金額だった。ところが、これが跳ね上がった。振込通知書が届き、その内訳を見て驚いた。フィリピン国内のマニラ以外の局番が毎日数回ずつ、かけたようになっていたのだ。よく見ると、同じ番号が並んでいるのである。

 原因は、メイドと分かった。分からない英語で、問い詰めてやっと分かった。昼間の寂しさで毎日、田舎の両親や親せき、友達に電話していたのだった。初犯でもあるし、本人も反省しているように見えるので許し、様子を見たが、次の月も同様だった。食堂のおじさんには訳を話し、辞めてもらうことにしたのである。

 

二人目のメイド

 そして二人目のメイドが決まった。このメイドは日本語は出来るし、スタイル満点、美人ときている。それもそのはず、地方都市のカラオケのホステスだった。マニラに行きたいというので誘ってみたら来た。動機が不純なので、やはり、拙かった。料理もそこそこにやるにはやるが、毎日渡すお金を自分の嗜好品に使うのである。最初のうちは、領収書の内訳なぞ見ないので、最後の金額が合っていれば良しとしていた。ところがである。辞めてもらうことにして帰るときの様子を見て、またまたビックリ。来るときは、小さなバッグ一つできたのに、たった数か月で、帰るときには、大きな紙風呂だったか、スポーツバッグ二つに変身していたのである。それだけ自分のモノを買ったということなのだろう。

 こうして、フィリピンでのメイドを使うことは諦め、以降、自分で自炊生活が始まった。メイドの顛末記でした。慣れていないことはするもんじゃないという教訓だった。

   (つづく、・・・)