ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

楽しみながら、、、

密かな決断

 最近、密かに心に決めたことがある。体力の衰えを感じてのことだ。一昔前と言っても、つい数年前のことだが、体を使うことに嫌気がさしてきたことである。気力が萎えてきたのだろうか。端的な例が庭の整理(草取り、木の選定など)の仕事である。

 

全く興味がない女房

 我が女房は、全く、庭木が気にならない。木の枝が伸びようが、草が生えようが、一切気にならないようだ。5年半のフィリピン駐在の間に、年に1,2回家に戻ってくると、誰もいない民家のごとく、草が背の高さまで伸び放題になっていることが良くあった。そんな時には最低限の草取りをして、また、赴任地フィリピンへ戻ったものだった。この時以来、女房に庭の整理なんて託すことを諦め、自分でやることにした。

 

興味を示さない子供たち

 そのように気にかけていた庭を、最近は整理する気にならないのである。「庭をきれいに保つ」って、何だろうと考えるようになった。女房のためでないことだけは、上述したような理由から確かだ。我が息子夫婦たちも、庭の木々が気にならないらしい。できるだけ、子どもたちが帰省するときは、庭をきれいに整えるようにしてきたが、誰一人、庭がきれいになったとか、あの木の枝を切ったとか、興味を持っているような言動をしたためしがない。もっとも私も若い時はそうだった。

 

なぜ? 

 つまり、女房や今の子どもたちも、庭なんてものに興味がないのである。では、なぜ、私は気になるんだろうと考えてみた。遺伝か教育かどちらかだろう。両親のうち、親父は、庭木に興味を持つことはなかったように思う。一方、母親は庭木に興味があった。庭師に頼んで、庭を改造したりしていた。また、子供頃、どこの親せきに遊びに行っても庭があった。庭というのは、どこの家にもあるものとの意識が、知らず知らずのうちに、子どもの脳裏に焼き付いていたんだろうと思う。そして、その庭が、どの親せきの庭もきれいに整理され、庭木も刈込がなされていた。つまり、それが庭だという意識が昔からあった。

 

子ども時代の刷り込み

 恐らく、そういった刷り込みが、脳裏に焼き付いていたのだろう。つまり、庭というものは、綺麗に整理され、刈込がなされるものだ、という刷り込みである。家は小さな小売り店をやっていたが、商売で忙しいこともあり、決して裕福な家庭ではなかったが、それでも、庭師にお願いし、近所の人に頼み、庭をきれいに保っていた。つまり、そういう意識というか刷り込みという教育がなされてきた。だから、庭の整理が出来ていないと、どこか、落ち着かなく、どうにかしなければ、という一種の強迫観念みたいなものが芽生えるのではないかと思う。

 

放置では、何も変わらない

 一方、実際に、そうした庭に手を着けるとなると、サラリーマンの年金生活者で、庭師を頼んだり、シルバーの人たちを頼んだりするのは、お金もかかり、贅沢であるという気持ちもあり、今まで、自分でしようと頑張ってきたこともあった。ところが、それが億劫になり、やる気が起こらないのだ。それを「体力の衰え」で片付けてみても、状況は何も変わらない、そのままである。

 

小分けして実施する

 そこで、この庭の手入ればかりでなく、いろいろなことで、心を入れ替えてみた。一度に何かをする体力はもうない、と諦めるのである。その諦めが肝心だ。でも、その何分の一かは、まだ残っている。例え、1/2でも、2回続ければ、昔の1回になるだろうと。少しづつ、続けることだと。続けるのも、頑張らない。無理をしない程度に続け、頑張るのである。二日続けて、やる気が起こらなかったら、一日休み、そして、また再開するのである。そうして、1か月、2か月と続ければ、昔と結果的に同じになるのではないかと。

 

続ける努力、続けれる努力

 このブログもそうだ。無理をしない、でも、続ける努力はする、である。庭の手入れも、そうした気持ちで始めた。2時間とか、1時間半とか、それ以上は、体力があっても、やる気があっても、止めて、次の日に残すのである。そうすることで、「庭の手入れは大変!」という気持ちを無くし、「楽しみながらする」という気持ちに切り替える努力である。昨日は、庭の手入れを2時間ばかりした後、その庭の一角で、庭木を眺めながら、ビールを昼間から飲んでみた。気分は最高である。

 

「時間」はふんだんにある

 どこまで続くか分からないが、ともかくやってみよう。毎日5時間も6時間もやって、1週間かかった庭木である。単純計算でも、それが毎日2時間弱なら2週間や3週間はかかるだろう。でも、楽しみながらやれればいい。

 そうだ! 年金生活者には、「時間」という貴重なモノはふんだんにあるのである。

       (つづく、・・・)