ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

えこひいき

えこひいき

 昔、小学校に通っている頃、学校で ”えこひいき” という言葉が流行った。勉強のできる子、性格のいい子など、学校の先生が気に入った子などに、学校の重要な役目(例えば、クラスの委員長など)を任命したりすることである。「あの子は、先生に“えこひいき” されている」などと言ったものである。

 もちろん、標準語である。辞書で調べると「依怙贔屓(えこひいき)」と書き、「依怙(えこ)」だけでも同じ意味を持つ。「皆に公平でなくある人を特にひいきにすること」とある。

 

お金の絡む、えこひいき

 今朝、森喜朗元首相の胸像ができる、とのニュースを聞いていて、ふと、昔の「えこひいき」のことを思い出した。

 今、話題になっている元統一教会問題での一連の贈収賄事件である。「贈収賄」とは、お金などをもらって、見返りに特別な配慮をする行為である。つまり、お金をもらって、その代わりに「えこひいき」をする、という行為である。もちろん、昔の先生はお金など貰っていないので、全くこういった行動とは違う。

 

育ちが良くない

 我々子ども頃、「訳もなく人からお金をもらうことは、卑しい人」との教育を受けて育った。「訳もなく」とは、「自分が困ってもいないのに」とか「誰かに肩入れすることを約束して」とかも入るのである。こうした「卑しい人」を指して、世間の人は「育ちが良くない」などと言ったものだ。「育ちが良くない」とは、貧乏に育って、学校へも満足に行けなく、義務教育を終わるとすぐ就職してお金を稼ぎ家計を助ける、言わば、生活の困窮していた人という意味だったが、それが転じて、生活に困窮してもいないのに、お金に対して、性格がゆがんだ人たちを指した。

 

卑しい人たち

 今話題になっている、五輪組織委員会に関係する人たちは、決してお金に困窮している人たちではない。つまり、私に言わせれば、「卑しい人たち」である。勿論、一部の人間である。

 その人に、「胸像問題」が出ているというのである。

二宮金次郎銅像、ブルータス胸像、福沢諭吉胸像(いずれもネットから)

 森喜朗元首相の胸像を作ることが、適当か否かは私には分からない。しかし、図書館とかといった公共の建物の内外に、それに貢献された人の胸像が立っているなんてことは、是非論は別にしてよくあることではある。自分の家の敷地内に、先祖の功績をたたえた碑文があるご家庭だってある。

 つまり、胸像を作る作らないではなく、それを設置する場所が問題ではないのかと思う。森喜朗元首相のご家庭の敷地内に置くのであれば、誰も文句を言うまい。

 

心卑しい

 いずれにしても、私は両親から「卑しく育てられた」思いはない。卑しくなったら、育ててくれた両親に申し訳ないということである。

 話題になっている人たちは、ご両親・ご先祖様に顔向けができるのだろうか、と他人事ながら心配してしまう。この人たちは、有り余るほどのお金を持っていても、もっと欲しい、もっと欲しいと思っている、心卑しい人たちなのである。

 

武士は食わねど高楊枝

 「武士は食わねど高楊枝とは、たとえ貧しい境遇にあっても、貧しさを表に出さず気位を高く持って生きるべきだということ。また、やせ我慢することのたとえ」

 政治家、人の先頭に立つ人など、俗にいう「偉い人」は、こうした ”やせ我慢” の精神も必要ではないかと思う。もっとも、今のそうした人たちに、「やせ我慢」をしなければならぬほど困窮者はいないと思われるが、、、。