ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

フィリピンの魅力(14.見かけない自転車&バイク)

昔の同僚にバッタリ

 会社員だった頃に隣の部で良く交流のあった同僚がいた。その同僚に、1か月ほど前、我が家の脇で偶然会った。私が庭の木を切ったり、草を引いたりしていた時だった。彼も我が家がここにあるとは分かっていないで、通りかかったらしい。私もびっくりしたが相手もびっくりしたらしい。彼の家は駅が三つほど、20kmは離れているだろうか。私の家が我が町(部落)の大きな交差点にあるので、道路を通る人にとっては見つけやすいのかもしれないが、見つけるために来たのではなく、偶然、その道を通っただけということだった。

 

サイクリング

 彼はサイクリングをしていた。彼に家を出て、海岸線を走る6号国道を通り、そして我が家の近くを西に(山の方向)ハンドルを向けると、最初の大きな交差点が我が家である。つまり、彼は、一旦山の方向に走り、山すそを左、つまり南方向へ折れて彼の家へ戻る四角のルートを通ろうとしていた。この道は良くサイクリングで過去にも通ったらしかった。毎日走っているのか聞くと1週間に1,2度走るとのこと、そして自転車も立派な自転車で、どの位するものか聞いてみたら、30万や40万はするらしいのである。俄然、私も興味を覚えた。かって、学生時代に中古で買ったサイクリング車(3段変速)で、房総半島を一泊で一周したことを思い出した。

 

火野正平、こころの旅

 最近、車で国道などの大きな道を走っていると、サイクリングをやっている人たちに出くわす機会も多くなった。そういえば、火野正平が「こころの旅」という番組で、日本の各地を訪問するのがあった。全国の人からリクエストが来る。自分が昔を思い出し懐かしい、心に残るふるさとなどの風景をもう一度見たいと、火野正平に、その故郷を訪れて欲しいとリクエストする番組。そして、その訪問先で、リクエスト者からの手紙を読むのである。

 

一切見かけない、自転車とバイク

 昔々、父親がお酒の配達をするのに、50ccのバイクに乗っていたことがある。嬉しそうに乗っていた姿を今でも思い出す。

 フィリピンでは、こうした自転車(サイクリング車でなくママチャリ)も、バイクも一切目に入らない、というか、見かけない。これほど見かけないのは、中近東ぐらいだろうか。サウジやドバイ、クウェートなどは、あの白いワンピースのような服を着ていては自転車にも乗れないし、何はともあれ、暑くて自転車等こげないだろう。一番安い乗り物である、自転車やバイクがなぜフィリピン人に好まれないのか。

 

フィリピン人に好まれない理由

 この理由を、じっくりフィリピン人に聞いたことがない。色々な理由が考えられる。フィリピン人が走っている姿を見たことがない。もちろん子供は走り回る。でも、大人が走ってどこかへ行くという姿は見たことがない。前にも書いたが、現地の会社でラジオ体操をすると、ジャンプする運動の時に絶対飛び上がらないのである。

 そして、自転車やバイクがなくても、便利なジープニーやトライシクルという乗り物がある。どこでも止まってくれて、安価にどこへでも行ける。

 三つめは、「良いかっこしぃ」の性格である。運動嫌いで乗り物が便利で、カッコをつけたがるので、自転車やバイクなど、貧乏くさい(かどうかは別にして)乗り物なぞ眼もくれないのである。

 

アジア諸国とフィリピンの違い

 一方、かっての台湾、ベトナムなど訪問した国々では、バイクや自転車が我が物顔で走っていた。交差点などは、まず何十台のバイクが前方を占拠し、その後ろに四ツ車が並ぶのである。日本のように、四ツ車が前にいて、歩道側に申し訳なさそうにバイクや自転車が並ぶのではないのだ。

 こういった意味でも、フィリピン人の性格、フィリピンの国情は、アジアの国々の中も異質と言える。

 一度、改めて、フィリピン人に理由をじっくり聞いてみたいと思う。

  (つづく、・・・)

 

コロナの行方

コロナ感染者の記録

 去年から、毎朝、新聞のコロナ感染者の数を記録するのが日課になっている。私は茨城県北部、福島県との県境にある北茨城市に住んでいる。どこのニュース番組でも、全国、東京は放送するが、茨城の放送でも、茨城県の数値が放送されるだけで、自分の市の状況は放送されない。しかも、茨城県の場合、東京に近いところと、遠い我々のところでは大きく様相が違うのである。

 

茨城県の地理

 茨城県は大きく5つの地域に分けられる。県央(県庁所在地の水戸を中心)、県南(東京に地理的に近い土浦市を中心)、県西(市内を東北本線が走る、栃木県に近い古河市を中心)、鹿行(鹿島から大洗に至る太平洋岸の地域)そして、われらが住む県北(かっての工業都市日立市を中心)地域である。

 県北地域は、真ん中に阿武隈山系が座り、西側と東側に分かれており、山の西側には大子町常陸大宮市などがあり、東側には日立市高萩市などがある。山を越えることから、普通は太平洋岸を南や北に移動するものの、東と山を越えての西への移動は少ない。つまり、細長い経済圏が南北に二つ横たわるのが県北地域と言える。そういう意味でもコロナの感染を考えた時には、南―北に広がると考えた方が良い。

 

地理的条件に左右されるコロナ

 コロナの様相を考えると、この地理的条件が大きく左右する。特に、県南、県西は平野部にあり、周りも平野部で人の往来も多岐にわたり、コロナの感染が広がりやすいと言える。一方、県央、鹿行地域は、県北の山並みや太平洋に阻まれて感染が広がりにくいと言える。特に、県北地域は、西は山並みに東は太平洋に阻まれているので、コロナ軍が攻め立てるにも南から北に行くしか方法がないのである。そういう意味で戦国時代は攻めやすかったとも言える。

 コロナ感染者数に大きくこの地理的条件(経済圏条件)が影響するのだ。細かな数値を並べてもと思うので、大雑把なところから行くと、茨城県の感染者数は、一桁が約1か月続いている。それに対し、県北地域は、ゼロが1か月続いているのである。

 当然、東京に比べれば田舎である。年寄も多い。考え方も古い。スーパーへ行ってもうっかりマスクを忘れようものなら、周りの目が気になって仕方ない。

 

コロナ記録をつけ始めた理由

 なぜ、私がコロナのデータを取り始めたかと言えば、単なる興味ではなく、日本語を教えている外国人に、現在の日本でのコロナの現状を教えてやろうとしたことである。外国生活をしていて、一番困るのが同国人からの情報しか入ってこないことだった。外国人との交流のある、商社の方々のニュースは非常に参考になった。そういった経験から、日本にいる外国人は日本国内のニュースには疎いのではという発想からだった。毎週、コロナニュースを流していたが、ここ1か月は下火になったこともあり、このニュースも流さなくなった。でも、第六波に備えて記録は続けている。

 

いつまで続くマスク着用

 そして、最近、身の回りで、マスクはしているものの、あちこちで飲み会やカラオケなどの人が集まる情報が流れてくるようになった。それでも、2週間以上経つが、コロナ感染者ゼロを維持している。一体いつまで、マスクをして、遠慮しながら宴会をしてという生活を続けるのか。ここでもし、何かを企画し、コロナでも発生させたら、いい笑いものになる、と考える日本人の習性がある。

 

忠実に守る仏教国

 テレビを視ていて驚いた。歩く人歩く人マスクを一切していない。一人や二人マスクをつけている人がいてもいいはずだが皆無なのである。ヨーロッパのどこかの国である。勿論、未だマスクをつけている国もある。だから、ヨーロッパはいつまでたっても下火にすらならないんだよ、と言うことばが聞こえてきそうだ。他人を気にする日本人と他人を気にしない外国人の差と言ってしまえば終わりだが、韓国では、中国ではしっかり、まだ守られているようだ。仏教国とのこれが違いなのか。

 

 でも、今月末には、外国人の送別会を企画した。

フィリピンの魅力(13.溢れるこども)

昭和時代の子どもたち

 昭和時代の子どもたちは、良く、外で遊んだ。そんなに遊びが好きではない私でさえ、学校から帰ると、ランドセルを家の玄関に放り投げ、学校へ行ったままの姿で、遊び仲間たちと色々な遊びをした。鬼ごっこ、かくれんぼは勿論、この地方では「パァー」と言われるめんこやビー玉(遊び)、ベーゴマ(遊び)、縄跳びなど等、男の子も女の子も、時には一緒に遊んだ。そして、1年や2年歳の差があっても同じ遊び仲間だったし、「・・・ちゃん」や「・・・やん」と呼び合ったものである。

 

核家族時代到来

 そこには、いじめなどで仲間外れにすることはなかった。勿論、不合理なことをしたときに一時的な仲間外しはあったが、そういったトラブルもじきに解消したものである。今の時代、子どもが圧倒的に少なくなった。核家族になり、若い夫婦が地域を出て都会(街場(まちば))へ行ってしまった。小さな子供たちは、残された老夫婦の元にはいないのである。都会では、受験戦争やスマホなどの玩具の影響で、子どもがいても家の中や室内で過ごす子どもたちが多くなった。

 

隣に住む子どもの顔が分からない

 昔は、隣に住んでいる人の顔も分からない、と言われたものである。ところが、今では、隣に住んでいる子どもの顔も分からないのである。学校も違う、昼間は塾通い、部活活動など等、「一緒に」という行動パターンはもうない世の中になった。

 

カタカナの時代

 日本の製造技術は、世界に誇るものだった。それは、団体行動、団体意識の賜物だったのである。今は、パソコン、スマホ、アプリ、ネットなど等カタカナの時代である。個人活動、個人の実力が試されている時代である。日本の実力が徐々に落ちているという指標もあちこちで散見されている。

 

子どもでごった返す街

 私が、フィリピンに赴任したのは、今から17、8年前であり、帰国したのは12、3年前である。その間ずっと、フィリピンは同じだったが、子どもたちでごった返していた。大都会マニラである。アメリカ文化やスペイン文化が色濃く残っているフィリピンでである。寿命が短い国のせいか、老人の姿はあまり見かけない。しかし、子どもがいる家庭に老人は必ずいるフィリピン家庭である。

 

人口は日本と同じ、なぜ?

 私が住んでいた町は、マニラ郊外にあったが、そこのアーケード街、デパート、フードコートどこにも、子どもを連れた若夫婦で溢れ、町の空き地のいたるところでは、バスケットに興ずる子どもたちの姿があった。そして、ひだまりには、こうした様子を眺めている老人(老人と言っても60代位である)がいた。日本の人口は1億2千万、フィリピンの人口は今や(2020年)1億1千万である。毎年800万人が増えているそうだ。私がいた時点では8千万位だったはずである。同じ1億越えでも社会の様相は大きく違う。

 

人口ピラミッドの形は?

 2,3年前だが、小学校で外国の話をしたことがある。オーストラリア、中近東、そしてフィリピンと三つに分けて、4年生、5年生、6年生に講義した。その折、フィリピンの人口ピラミッドを紹介したことがある。綺麗な三角形を示していたのはフィリピンだった。一方、日本は?と言えば、歪な頭でっかちの形をしていたことを覚えている。

 

 私が、5年半の任期を終え、日本に帰国し一番びっくりしたのは、「外を人が歩いていない」ことだった。

      (つづく、・・・)

オーケストラは、歌うためにある

 例によって、夜中に目を覚ました。まだ、25時、26時だったので、前の日の番組を引きづっていたようだ。すると、玉置浩二が歌っている。彼を特別に好きでもないし、彼の歌が特別に好きなわけでもない。余程、私には、演歌の方が似合っている。

 

オーケストラは、歌うためにある

 そこで、彼が「オーケストラは、歌うためにある」という名言を吐いた。この言葉は、この番組で初めて聞いたわけではなく、その前にも、幾週間前かに聞いているし、オーケストラをバックに歌っているのを聞いた。また、その歌も、彼に歌い方も、オーケストラの迫力に劣らない唄い方で、興味のない私も番組に引きずられてしまった。

 

生バンドをバックに歌を

 昭和生まれの私たちは、夜の街のスナックでカラオケを使い良く歌った。しかし、その当時、こうしたスナックとは違う、生バンドのいる「クラブ」と称する、生バンドの演奏によって歌えて、お酒も飲めるという、若干割高な飲み屋さんがあった。ここのバンドで何回か歌った経験を持つ私でさえ、オーケストラを相手に唄ったら気持ちがいいものだろうと容易に想像がつく。しかし声量が問題だ。オペラ歌手のように、玉置浩二のように声量がある歌手ならいいが、我々素人の声量では、オーケストラの迫力に押されて、恐らく、声が聞こえなくなる。少なくても素人向きではないし、残念ながら、「オーケストラは歌を唄うためにある」とは言えないし、言うこともできない。

 

バンドとオーケストラ

 その迫力の源である、楽器の種類と演奏する人数に、バンドとオーケストラで違うのか、ネットで調べてみた。明確な違いはないと書いてある。一般的に、人数が多く、金管木管、パーカッションが揃い、大集団なのがオーケストラで、主にクラシック音楽などを演奏する、と説明されてる。確かに、「クラブ」などで演奏する生バンドは、せいぜい20人以下程度の集団だった。

 

オーケストラは聞いて楽しむもの

 その、オーケストラを相手に歌を唄うのである。常識を覆された。オーケストラは聞くためにある。歌うためにあるという発想は、歌が主で、オーケストラは従のように感じる。つまり、自分本位とも受け取られる考え方ではないか。一歩譲っても、同等だろう。つまり、共に楽しむともとれる。従来の発想から言えば、オーケストラは、演奏しているのを聞く、聞かせて頂くというもの。

 

何でもグループで楽しんだ昔

 今晩は、昔流行った歌をテレビ放映していた。オーケストラやバンドとは真逆で、自分でギターを弾き、神田川南こうせつが歌った。当時、玉置浩二も同じ年代だと思うが、フォークソングというのが流行った。自分でギターを抱え歌うのだが、それを皆で合唱するのである。また、グループサウンズというのも流行った。自分たちで演奏するのだが、5人、6人とグループを組み、自分達で演奏しながら歌を楽しむというやり方だった。

 

一人カラオケ

 その時代に生きた玉置浩二が、オーケストラを相手に歌を唄う、そして、「オーケストラは歌うためにある」と言う。時代も確かに変わった。個人が尊重され、個人の特徴が、もてはやされる時代になった。でもなかなか、ついていけない自分がある。「この世は、自分のためにある」とは言わないまでも、せめて、一人カラオケでもして、「カラオケは、自分のためにある」とでも、一回りも二回りも小さな自分で、うそぶいておくか。

フィリピンの魅力(12.陽気な性格のなせる業)

体形を気にする日本人

 日本人は足が短い、と一般的に日本人の間で言われている。その通りだと思うが、しかし、外国で生活していて、外国人からそのような話を聞いたことはない。これはなぜか、である。外国人は、そういった身体的なことを気にしないのか、日本人が気にし過ぎなのか、はたまた、別の理由なのかである。ただ、一般的に、日本人は、気にし過ぎのきらいがあることは確かなようだ。

 

若い女性に溺れる老人

 あの人は背が小さい、あの人は太っている、あの人は美人だ、色が白いなどなど、人の話と言えば、まずは、身体的特徴から入る。フィリピン人と言えば、男女とも、一般的に体は小柄である。そして、特に女性は、華奢な感じがすると同時に、愛嬌が良く、日本的に言えば八方美人的な要素を持つ。だから、いい年をしたおじさんが若い女性に現を抜かすということがよく起こる。5年半の滞在の間に、10、20歳以上も離れたフィリピン女性を奥様にもつ日本人男性をよく見かけたものだった。また、一方で、情熱的なところを持つフィリピン女性は、歳の差をあまり考えない人たちが多いので、こういった現象に拍車をかけるのである。

 

意外と大きいフィリピン女性

 赴任当初、会社で日本人の同僚に、フィリピン女性って、小柄で華奢で可愛いね、と話したことがある。すると、この同僚は、体は小さいけど胸は大きいですよ、という。それ以来、女性の胸に注目してみた。すると、確かに洋服の上からなので実際のところは分からないまでも、日本女性に比べたらはるかに大きいのである。そして、お尻の形もいい。ズボンをはくと、最近は、パンツというらしいが、お尻の下の出るパンツのシワが、お尻の上に出る子すらいる。日本人では考えられないのだ。

 

深夜のコマーシャル

 夜中に目を覚ますことが良くあり、テレビを点けると、特にBS放送だが、シワ取りのCM、お尻をピュッとあげる下着のCM、美容のCMやら体形を変えて見せるCMなど、どこのチャンネンルを回しても、CM、CMのオンパレード。そして、最近のCMは物語風にできており、ドラマかと思ってしばらく見ているとCMであることに気づくというCMもやたら多い。

 

色々な人種が集まったフィリピン

 フィリピン人には、色の白い人たちと色の浅黒い人たちがいる。鼻が低いというのもフィリピン人を表現する一般的な表現である。しかし、日本人程度の高さなら、フィリピンにはごまんといる。日本人は、色が白くて、ホリが深くて、華奢でスタイルの良い、女らしい女の子を好むことから、カラオケに行くとそういった女性ばかりが働いている。夜の街には、日本人しかいないような錯覚を何度も受けたものである。現在はどうか分からないが、10年前は、どこの夜の街へ出かけても、客の9割は日本人だった。

 

家族のため

 ここで勘違いしてはいけないのは、日本人の夜の街では、そういう仕事が好きで働いている人も一杯いる。自分の生活のために働いている人もたくさんいる。しかし、フィリピンは違う。家族のために働いているのだ。自分だけの生活を良くするために働いている女性は皆無だろう。そのためには、お客に愛嬌も振りまくし、嫌なお酒の一つも飲む。みんなの前で水着姿で踊ったりもするのである。実に健気な女性たちである。朗らかで楽天的な性格がなせる業なのだ。

   (つづく、・・・)

 

耳鳴り

塩竃神社

 今日は、忙しかった。ブログを書くことも忘れていた。私の地域には塩竃神社という地域の守り神がある。宮城県塩竃神社から、その昔分社した神社である。地域の神社だから、社務所などがある大きな神社ではなく、小高い小山の中腹に太平洋を見下ろすように建てらた神社である。元旦には、ここで初日の出を眺めたり今でもしている。

 

神社の清掃

 その神社を、地域の有志で年に数回清掃をしているが、今日はその清掃日だった。丘の斜面を草刈機で草刈りをしたり、境内に積もった枯葉を箒で掃いたり、参道になっている石の階段を履いて綺麗にしたりするのである。清掃が終わると、少しは、神様のために何かしたような気になって、気分的にも清々しい気分になるから不思議だ。

 

旨く選別する補聴器

 その仲間と色々話しているうちに、その人の耳に補聴器が着いているのが見えた。前々から耳が幾分遠くなり、興味があったので色々と聞いてみた。色々なことが分かった。補聴器のメーカーは日本ではなく欧米であること。日本製は劣るらしい。そして彼が付けている補聴器は、30万円だそうである。前に10万円の補聴器を買って付けたことがあるが、それだと声や音が大きくなるが、音の方が大きくなってうるさいそうである。高い値段だと、音か声かを選別して声だけを大きくするらしいのである。うまく出来ている。そしてボタン電池で動くらしい。1週間で交換すると言っていた。また、一度補聴器を付けてしまうと、外すことが困難になるらしい。

 

耳鳴りと人間の機能

 そして一番興味を覚えたのが、「耳鳴り」に対する話だった。補聴器を買うときに医者に相談したら、耳鳴りについて話をしてくれた。

 人間の耳は、声や音を聞くように出来ている。だから、耳が遠くなると、音や声が聞こえなくなるので、聞こうとして、耳鳴りがするのだそうだ。つまり、聞こえない音や声の代わりに、常時、「耳鳴り」を引き起こして、音を出すという、人間本来の機能の結果だそうである。それが耳鳴りだ。

 それは本当か、と初めて聞く説だったので、彼に聞くと、医者が言っていたので間違いのではないかという。じゃー、補聴器をつけて音や声を聞こえるようにすると、耳鳴りはなくなるのか、と補聴器をつけている彼に聞いてみたら、昔は耳鳴りがしたが、補聴器をつけてから、耳鳴りが気にならなくなったというではないか。

 

補聴器の着け時?

 耳が遠くなったときに、耳鼻科に行って医者に聞くと、補聴器を着けるような程度では、未だないから着けなくてもいい、と言っていたので、それほど不自由ではないのでそのままにしていた。ところが最近、やはり着けた方ががいいか、という事件が起こった。

 日本語を外国人に教えているのだが、その中で、日本語能力試験というのがある。この試験は、語彙、読解、聴解と三つの部門に分かれ、トータルで半分とか60%とか、それぞれの等級で取得しないと受からない試験なのである。この前の土曜日に、試験を受ける外国人に「聴解」の模擬試験をやらせた。会話を聞かせて、会話の内容を聞く試験である。ところがである。この日本語がうまく聞き取れないのだ。学習者でなく、私自身がである。日本人だから会話の内容を把握して、細部まで聞き取れなくても問題そのものは出来るが、かなりショックだった。

 

やっぱり買おう!

 これまでも、外国人に教えていて、質問を受けて内容が聞き取れないがゆえに、聞き直すといったことも何度かあり、補聴器をと考えていたところだったので、耳鳴りの話を聞いて、やっぱり、補聴器を買う気になった。

 それにしても人間の体は旨くできているのものだ。うまく出来ているが故に、耳鳴りという厄介なものを引き起こすのである。同様に、人間関係において、あまり気が利きすぎるのも良くないのかも、と思ったりした。もっとも、私はどっちだろう?と考えさせられた。  

フィリピンの魅力(11.みんなで、一緒に)

昔の芸能人ショー

 私が子どもの頃、親たちは、良く、・・・一泊旅行と称して「鬼怒川・塩原温泉一泊の旅」などと、当時の国鉄(今のJR)などが企画したバスツアーなどに良く行っていた。私の家は、小売店を営んでいたが、こうした小さな町の商店街が集まり、芸能人(主に、歌手)を呼んだものである。「島倉千代子ショー」「三橋美智也ショー」ご招待などと銘打って、売り出し期間などを設けた。一方、住民は、こうした商店街で買い物をし、招待券をもらい、当日は、近くの学校の体育館などで、こうしたショーを近所の人たちと楽しんでいたものだった。

 

昔の国内旅行

 それだけ、その昔は、近所の人たちと一緒に楽しむことが当たり前になっていた。そして、遠くに、二泊三日の旅行にでもなると、誰もが行ける旅行ではないので、そういった時には、近所の人たちにお土産を買ってくるというようなことも、当然のようにやっていた。その後、核家族化が跋扈し、プライベートという言葉が金科玉条のごとく言われ始め、近所の人たち、親せきの人たちまで一定の距離を置くようになった。

 

昔の集団行動

 そして、この核家族の影響は、会社のリクリエーションにも大きな影を落とした。もう3、40年も前になるが、その頃、会社(工場)では年一回、運動会があった。工場従業員は、2000人以上いたが、これを4集団に分け、競い合う運動会である。1か月も前から早朝、昼休み、そして退勤後にみんなで練習を重ね、10月10日の運動会には、4集団がぶつかりあうのである。この様子は、海外で仕事している我々にもビデオで届けられたものである。

 また、課単位の旅行会も催された。20人弱の同僚が同じ温泉地などへ行き、名勝地をめぐり、宴会を催すのである。課にいる同僚の性格など、日頃計り知れない意外なところが垣間見えたりする機会にもなった。

 

なくなった集団行動

 そうした集団行動も、20年前には、全てなくなっていた。新しく入ってきた社員たちには、こうした集団行動は不評だったのである。それが、不平や不満となった。こうした集団行動より、家庭での行動を優先したいという希望が噴出した結果だった。

 

残る集団行動

 私が、フィリピンに赴任が決まり、何度も、日本/フィリピンを往復する頃であるから、もう15年以上も前になるが、その頃、羽田空港・成田空港の搭乗手続きカウンターでは、大きな荷物を抱えた人たちが目立った。こうした人たちは、その前、つまり、20年以上も前にもいた。フィリピン人の女性たちだった。いわゆる、ジャパユキさんの一団である。

 一度、現地で、こうした現象は何で起こるのかをフィリピンの人達に聞いてみたことがある。あの荷物は何だと。すると、あれは、家族は勿論、日頃お世話になったご近所の方々へのお土産なんだそうである。もうすっかりなくなった、数十年前の日本がフィリピンにはあったのである。このお土産は、彼女たちの留守中、親せき・ご近所に自分の家族がお世話になったお礼も兼ねてたものだったのである。

 

嫌な事件

 今、日本では、嫌な事件が多い。列車内での殺傷事件など最たるものである。こうした特定の人を狙った犯行でない事件も多い。団体行動で発散するエネルギーが、どこへも持っていきようがなく、他人を傷つけてしまうというような事件に発展するのである。家庭主義でもいい。でも、上手に発散できる人とできない人がいるのである。

 

昔を思い起こさせるフィリピン

 フィリピンは、フィリピン人は、幸か不幸か、まだまだ団体で行動しなければならない環境にありそうである。フィリピンばかりでない。アフリカなど貧しい国は全部そうである。裕福になると、より幸せを求める。そして、贅沢を引き起こし、自分勝手になる。そして事件が起こる。こうした悪い循環を断ち切る手立てはきっとある。

 フィリピンのような生活を懐かしむのは、私たち年寄りだけだろうか。

    (つづく、・・・)