ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

世界おもしろ昔のはなし㊻

 そこで、私は、君の退職届にはサインはしない。ただ、休暇扱いにするので、その休暇を使ってその会社で働いてみたら良い、と告げてそのまま放っておいた。どうも、総務と相談して、何とか退職扱いにして、退職金も貰い、その会社に行ったようだった。その後、マネージャーにユージンと連絡を小刻みに取らせ、新しい就職先の様子を聞かせていた。

 

後を追う後輩たち

 そうこうしているうちに、ユージンと同じ製造課に属するエンジニアが二人、辞めたいと言って来た。ユージンに触発されて言ってきていることは明白であった。それ程ユージンは、その製造課では兄貴分のような存在で、ユージンのいない現場、会社には居たくないということで、就職先を探して来たようだった。この男は、余り優秀ではなかったが、勤続年数は長いということで、スーパーバイザー(SV)にランクアップしてやったばかりの男だった。その退職理由は、ドバイに出稼ぎに行きたいと言うことだった。彼には退職を認めた。そして、もう一人は、ユージンの行った同じ会社に移りたいと言って来た若いエンジニアがいた。彼の扱いは保留とした。

 

減って行くエンジニアの数

 事業縮小以来エンジニアの数も大幅に減り、エンジニアは10人もいなかった。これらのエンジニアが、製造に4人、品証に2人、生産管理に1人、生産技術に2人と配置してゆくと、200人も300人もいる製造現場に3人、4人しか配置できないのだ。しかも昼、夜間勤務であるから、1人でも辞められてしまうと、他の残ったエンジニアでその現場を切盛りすることは非常に困難を極めた。また、大卒の事務部門スタッフも同様だった。総務に3人、資材・営業に3人、経理に3人という具合に配置した、せっかく育てた幹部従業員が、いとも簡単に、今月で辞めさせて下さいと辞めてゆくのである。

 

出稼ぎ人

 しかし、彼らの立場を考えてみれば当然と言えば当然だった。その昔、「ああ上野駅」という井沢八郎の歌が流行った。これは、「出稼ぎ人」の応援歌、悲哀歌でもある。彼らは、家族の為、子供の為、そして、親戚・一族の為に、海外に働きに出なければとても生計を立てられないのだ。

 スーパーバイザー(SV)で月一万五千ペソ(三万円)前後の給与である。その当時中近東に行けば、十万ペソ(二十万円)も貰えるのである。生活費を引いても半分は仕送り出来るのだ。家族と一緒に住みたい、子供と一緒にいたいのは、万国共通である。そんな気持ちを、感情を抑え、そうまでして行かなければならない従業員を止める権利もなければ、勇気もなかった。従業員の幸せの事を考えれば、勇気を持って、ある種期待も込めて、頑張ってこいよ、と応援し送り出さざるをえないのである。

 

歩留まりの悪い社員教育 

 そうした中での従業員教育は、非常に歩留の悪い事業であった。折角教育しても、5割も残ってくれれば良いという世界だった。それでも一部の一生懸命やってくれる従業員の為に、将来他の会社に行っても通用する社員にとの一心で育てた。彼らにも、その話を日頃からした。会議での厳しい追及も彼らの訓練の場だった。ともかく「考える」事を習慣づけた。自分で対案を考え、自分たちで実験・検証してみるよう仕向けた。そうして育ってきた、私が誇れる従業員である。マネージャー達も、私の思う通り育ってくれた。在任後半の1年は、私が何か言えば、意味を察してくれるようになった。自分たちで、ものを考え、部下に指示をし、やらせるようになった。

 

ユージンから「戻りたい!」 

 こうして育ちつつあるユージンの話である。ユージンが辞めてから、確か1カ月程度経っていたと思う。ユージンに探りを入れさせていたマネージャーから、ユージンが「戻りたい!」と言ってきている、との連絡が入った。やっぱり、来た!

       (つづく、・・・)