ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

パラリンピックから学ぶ

民放の報道姿勢

 パラリンピックが始まっているのに、一度も、記事にしていない。なんでかなーと考えたが、オリンピックほど競技そのものを見ていないことに気づいた。NHKは昼間やBSなどで常に放映しているようだが、民放に至ってはさっぱり放映自体をしない。

 コロナのニュースだってそうだ。感染がどんどん蔓延している時は、東京の感染者が4千人超えた、5千人超えた、何週連続前週を上回る、なんて情報が、アナウンサーがここぞとばかり唸りまわしていたのに、減少傾向にあるときは、三文週刊誌と同様、おとなしくなるのである。

 

身障者の運動能力

 それにしても、どうしてあんなことが出来るのだろうか。足の指に挟んでボールを上げ、口で咥えたラケットで打つ卓球、両足がなく、しかも片手が肘より先がないのに、クロールで200mも泳ぎ切る、眼が見えないのに水泳でコース上をまっすぐ泳ぎ切ってしまう、サッカー・ゴールボールラグビーに至っては、想像を絶する動きである。

 人間努力をすれば、殆どのことが出来るということなんだろうか。パラリンピックが始まる前、テレビで身障者の話題が取り上げられた。5人だったか子どもがたくさんいる家庭での出来事だった。一番下に女の子が生まれた。みんなで可愛がった。そしてある時、この子に障害があることが見つかり、医師から運動は出来ません、と言われ、寝たきりを覚悟した家族。ところがである。両親は勿論のこと、兄弟みんなが妹を可愛がり、励まし、褒めてあげているうちに、不器用な動作ながらも、よちよち歩けるようになっていった。そして、小学校に入るようになっても、運動能力は健常者に劣るもののそれでも、みんなと運動ができるようになった。そして、この子が底抜けに明るいのである。

 

我慢する喜怒哀楽

 健常者は、喜怒哀楽を普通に表現できる。身障者だってできるはずである。でも、他人に対して怒り、絶交なんて、絶対できないだろうなって思ってしまうのである。常に自分の感情を押し殺さなければならない。最近、大学時代の先輩後輩が感情のもつれから、先輩が後輩に硫酸を掛ける事件が発生した。後輩が先輩に対して態度が良くなかったということが原因だったと報道された。

 こうした場合、身障者にはこうしたことは絶対に出来ない。怒って硫酸を掛けたいと思っても、硫酸の置場所が分からない、掛けてやりたい相手を見つけることが出来ない、ましてや相手の勤務先まで追いかけていくことも、待ち伏せすることもできないのだ。何をやるにしても、全て、家族や他人にお世話にならないとできないのである。そういった意味では相手の気持ちを考えることが重要になってくるのである。

 

感謝すべき健常者

 健常者は、神様から授かった五体満足に感謝し、怒っても他人に危害を加えるようなことはせず、両親はもとより周りの人たちに感謝し過ごさなければとの思いを新たにした。”普通の幸せ” が、”特別な幸せ” でないと満足しなくなっている昨今である。

 そして、更に、自分の気持ちも重要だが、他人の気持ちを推し量る能力を身に付けないと、と感じる。

 

高年齢者も参加できるオリンピック

 パラリンピックを見ていて、目立つのは高年齢の参加である。身体機能の幅が大きいせいか、40代、50代の高年齢でも参加できる競技が多いのである。私のような老年齢者は、パラリンピックやオリンピックへの出場は無理だろうが、せめて60代までの人には、出場できる枠を広げるルール作りをしたら、オリンピックも「見る競技」から「やる競技」への脱皮が図れるのではとパラリンピックを見ていて感じた。

 パラリンピックの障害の程度によっていろいろとクラス分けされている競技に誘発されたし、パラリンピックに学ぶことは多い。老若男女、特に「老」も楽しめるオリンピックであってもよいように思うがどうだろう。

       (つづく、・・・)