ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

メールの「こころ」

別れ文

「まさか本気じゃないですね 弱音まじりの別れ文 生きてゆけないひとりでは・・・」で始まる、市川由紀乃の新曲(演歌)である。

 朝早く目が覚める。すると、いつもの癖で、テレビを点けて見る。色々な放送局で朝演歌を流していることに出くわせることがあるが、今日は運が良かった。大好きな市川由紀乃である。そして、「別れ文(ぶみ)」と言うことば。辞書で引いてみた。「別れ話」はあるが、手紙の意味をさす「別れ文」は出てこなかった。作詞家が作った言葉だろう。

 文章というのは記録に残す、相手に意思を伝える、などの役目があるが、ここでは手紙の意味だから、当然、自分の意思・気持ちを伝える役目である。

 

メールの意図

 そしてメール。字のごとく、手紙の意味Mailである。1対1なら、電話も大いにありであるが、それでもメールは使い勝手が非常に良い。同じことを多人数に伝える場合は、特に有効な武器となる。情報共有するにはもってこいのツールでもある。そして、1対1であっても、相手の時間を邪魔することなく(気にすることなく)、自分の都合の良い時間に相手に当方の意思を伝え(送っ)ておくことが出来る。

 

メールの歴史

 メールはいつ頃から出始めたのかネットで調べると、なんと1971年だそうである。しかし、言葉の問題があり、日本語のメールは1990年代になるらしい。まだ30年足らずである。私が、フィリピン駐在(2003年~2009年)したころは、毎朝メールを見るが大変だった。数十件のメールが溜まっているのを午前中一杯かけて、返事を書いたり、処理をしたりしていたものである。ここで心掛けていたことは、必ず、何がしかの返事を書くことだった。即、処理できないこともたくさんあり、それらは、待ってくれるよう連絡を入れた。メールとはそういうものだと思っていた。

 

返信のないメール

 ところが、最近特に変わってきた。メールで問いかけても返事がないのである。1対1でも結構あるが、1対多数の場合は、1対3だろうが1対10だろうが、なかなか返事がもらえない。新型コロナの対策と同じで、どこか他人事なのだろう。「誰かが返事するからいい」という感覚なのだろう。「手紙」と思えば、必ずアクションをするものである。しかし、メールとなるとそれをしない。送る側としては、受け取る人の顔を思い浮かべながら、「あの人にも」と思い送っているのだ。

 

返信のないライン

 今、日本語を外国人に教えている。器用な人がいて、学ぶ側の外国人と教える側の日本人でグループ化し、30人近くがラインで通信できるようにしてくれた。ところが、外国人の方々に何かを知らせようと思いラインを送っても、誰一人として、「分かった」でもなければ、ともかく返事がないのである。もちろん「既読」というシステムがあるので、誰かは見てくれたと分かっても、誰と誰が分かったのか皆目見当がつかないのだ。やさしい日本語で文章は作っているが、相手が分かってくれるか、分らないかは、非常に重要な問題と思っているのである。これが1対1のラインとなれば、当然ながら、外国人でも返事はもらえる。

 

ありがとうの歌

 返事を送るという行為は、「相手を思いやる心」である。日本人のその心さえも、外国人並みになってしまったか、と思うこの頃である。

 大好きな吉幾三の「ありがとうの歌」。普通、曲やメロディが頭に残る曲優先のような気がするが、この歌だけは、歌詞が最初に頭に浮かぶ、詞優先の曲である。

  ・・・ 

   人は皆 放浪者 いつしか年取れば 

     都会(まち)の中ふと思う 独りじゃないことを

       ありがとう 貧しさを あの時代(とき)をありがとう

          ・・・・

「貧しさ」さえも、ありがとうと言える、優しさ、人やモノを思う心を大切にしたいものである。

      (つづく、・・・)