ミドさんのブログ

日頃思いつくことを書いてます

フィリピンの魅力(38.日本が見習う文化)

外国人の入国制限解除

 日本語を教えるボランテアも、外国人が集まらないことには、学習者も増えない。ただ、人数が少なければそれだけ、密度の濃い授業にはなる。このところ、コロナの影響で、外国人の新規入国を禁止していたため、技能実習生や留学生が母国で足止めを食っていたが、やっと、日本政府も3月から、人数制限はあるものの新規入国を認めることになったようだ。これで、技能実習生を心待ちにしている企業も一安心というところだろう。我々の教室にも学習者が増えてくれればと願っている。

 

日本語で日本語を教える重要さ

 最近預かっている学習者で、日本語会話はできるのに、ひらがな、カタカナ、漢字が全くダメという外国人がいる。初めての経験である。どうやって日本語を覚えたかと聞けば、全くの独学というのだ。素晴らしいの一言である。この方との意思の疎通には困った。Face to Face でないと、こちらの意思が伝わらないのだ。つまり、書き物では伝わらないということ。しかし、幸いにこの方は、英語国で、ローマ字が通じる。そこで、日本式のローマ字でメールのやり取りをしている。先日、英語でこの方と話を始めたら、叱られてしまった。英語では日本語の勉強にならないので、日本語で話してくれというのである。なるほど、”日本語で日本語を教える重要さ” を外国人に教えられ、再認識した。

 

スーパーの荷物預り所

 今日は、フィリピンの話題だったと思い出した。

 フィリピンに学ぶものは結構ある。「荷物預り所」もその一つである。昔の日本でいうところの ”デパート”、スーパーを大きくしたような ”何でも屋” である。ここに、その昔、JRの駅にあった、荷物預り所があるのである。店内でいろいろな買い物をして、荷物がたくさんになると二つの手では持ちきれなくなる、そこで、「預かり所」というわけだ。そして、預かり所に自分の荷物がたくさんになると、帰るときには、ボーイに頼んで車まで運んでもらうのである。「預かり所」ー「ボーイ」の連携がうまく取れているからできる技であるが、老齢化が進んでいる日本でもこの方式はよいようにも思えるが、ボーイ習慣のない日本では難しいかもしれない。

 

大型フードコート

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フィリピンのフードコート(「セブ特派員ブログ いりん」から使用)

 そして、フードコートの文化である。日本にもフードコートと名の付くコーナーは色々な店で最近目に付くようになった。日本にあるのは、ほんの小さいコーナーだけであるが、フィリピンのものははるかに大きなスペースである。フィリピンのフードコートには、色々な種類の店と食べるスペースがあった。1面にズラリと食材の店が並び、その前には、椅子・テーブルがたくさん並んでいる。家族連れがあちこちでワイワイ言いながら食事をしている。

 日本でも、1面に各国料理を並べ、その向かいに椅子・テーブルを並べたら、年寄が一人で食べる、家族が食べる、ワイワイ、ガヤガヤという、かっての食堂の喧騒が蘇ってくるのではと思う。これの良いところは、お父さんが、日本料理が食べたい、子供がラーメンを食べたい、お母さんが懐石料理を食べたい、といった場合、一か所で全て一緒に食べられるということ。中華料理であれ、刺身であれ天ぷらでもチャーハンでも好きなものを選べるという食堂でもある。

 

100ペソ(200円)床屋

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田舎の床屋(左)、小さな町の床屋(右)(画像は、ネットから)

 もう日本では一般的になった1000円床屋である。つまり金額ではなく、方式である。かっては日本では、床屋さんに行って、椅子に座れば、髪を切り、その後、髭を剃ってくれるのが常識で、髪を切った後には頭を洗い、髭の前には蒸しタオルで顔全体を温めてくれたものである。それらの付帯作業を一切省いた、髪を切ることだけをする床屋さん、それが1000円床屋の誕生である。私が赴任した約20年前にはフィリピンでは一般的だった。日本人のサービス精神の発達した社会ではなかなか馴染めなかったのだろうが、日本で一般的になったのは、ここ10年位前からではなかろうか。

 でも、あの蒸しタオルの気持ち良さは、筆舌に尽くしがたい。

 

米国文化が色濃いフィリピン

 携帯電話も、私が赴任した20年前には、一般市民が持ち、その中古市場も発達していたフィリピンだった。日本より、10年も前を行く文化もフィリピンにはある。理由は簡単で、英語社会であり、米国文化が入ってきやすい環境にあるということである。そしてさらに言えば、「丁寧・親切/古風」を売り物にするような文化ない国であり、簡単(単純)明瞭を絵にかいたような、装飾を一切省いた社会であることである。

 こういう社会は、人それぞれであろうが、いやだと思う向きもあれば、住みやすいと思う向きもあろうかと思う。でも、気を使わなくて済むだけ楽な社会でもある。

    (つづく、・・・)